09
点滴はバッグの大きさ、色などを微妙に替えながらずっと、俺の脇にぶら下がり続けた。
医者から、呼ぶべき家族や親戚はいないのかと問われ、どうせ手おくれならばいいです、独りで死ねますし、と答えた。
手術すれば少しは長期的な見込みがある、と言われたが俺は断った。
万が一治ったとしても、何がしたいのだろうか。カウンセラーも病室に訪ねてきて、貴方のような方でも、少しでも人生に意義を見いだすことはできるのです、QOLという言葉はご存知ですか? アルコール依存症専用の療養施設もありますし、と案内をくれた。
彼女が帰ってから俺はそれをじっくり読んで、そのままゴミ箱に突っ込んだ。
それでもやはりあの父の息子というだけあるのか、それなりに奇跡的に退院までこぎ着けた。
必ず定期通院するようにくどくど言われながら、俺は数ヶ月ぶりに娑婆に出た。
入院中ずっと迷っていたが、やはりやろうと思っていた事はきっちり片付けたいと思い、そのままホームセンターに寄って包丁を一丁、そして入り口近くに積まれていた焼酎の4リットルボトルを一本買った。
そんな道具立ては必要ない気はしていたが、一応、作法に則って用意だけはしておこう、全てが片付くまでこの焼酎は開けずに置こう、ところでこれは何の作法だろう、頭の中で自問自答しながら素面のまま、俺は父のいる病院へと向かう。
父は、黙って天井を見つめたまま横たわっていた。
点滴すらない。ただ、そこに在る、そんな佇まいをみせている。
「おい」
声をかけると、わずかに眼球が反応した。
「俺だ」
判っているのか、いないのか。俺は来る途中にパッケージから出して抜き身のまま懐にしまってあった包丁を出し、目の前にかざしてみせた。
「いっその事、刺してやろうかと思って持ってきた」
しばらくして、ようやく声が聞けた。冬の日陰に縮こまった紙ごみが、風に擦れあうようなかそけき音。
「何を」
そう聞こえた。俺は呼びかけに迷った。つかの間のためらいが、病室に流れる。
「後は自分でやれ」
父が布団から出している手に、包丁を無理やり持たせる、父はもはや物を握る力も残っていないようだった、
俺は拳を握らせてその手を上から軽く叩いた。
「俺は知らん。後はテメエで始末つけろ。俺はもう来られないから」
かなり時間がたった気がした、ほんの一瞬だったのかも知れない。
父がこたえた。
「ありがとう」
喉の奥が刺すように痛んだ、俺は黒い疾風となって病室を飛び出して行った。
焼酎を忘れてきたのに、ずいぶん行ってから気づいた。
それから1月もしないうちに、父が亡くなったと病院から連絡があった。
葬儀はごく簡単なものだった。姉とは連絡がつかず終いだった。