08
木に上るどころか、膝下までの高さがあるベッドにも上るのに苦労するようになり、海苔の佃煮の瓶すら自力で開けられない、いや、菓子パンの袋ですら手が震えて破れなくなった父のために、俺は良い施設はないかあちこち探し歩いた。
さすがに酒を飲んでばかりいられない状況だったせいか、その時の俺はいつになくしゃんとしていた。髪も短く刈り、髭もあたり、昔のスーツを着ていかにもこざっぱりした男のフリをしてあちこちの施設を見学して回った。
父は徘徊を繰り返し、俺が不在の折にもたびたび家を抜けだしては、近所の家に勝手に上がり込んだり、独りで土手を下って川原に呆然と座りこんでいたり、と話題にこと欠かなかった。
失禁や便を漏らすことすら頻繁になり、いくら紙おむつとは言え、家の中には絶えず動物の飼育小屋にも似た不快な匂いが漂っていた。俺は神経質に濡れた雑巾を持ってあちこち拭きまわり、何度も洗濯を繰り返した。
下半身脱がせたままでも父はぼんやりと、俺がシャワーで体を流してまたおむつを穿かせ、ベッドに導くまで俺の傍に背後霊のように佇んで待っていた。
ついに、父が家の中で倒れているのを見つけた時には「ようやく」という思いしかなかった。
「だいじょうぶか」
それでも、そう声をかけて揺さぶってみる。
父は不明瞭な口調でなにかつぶやいた。
「何だ?」耳を近づけるとこう聴こえた。
「カズコか」
「俺のどこが姉貴に見えんだよ」そう毒づいてやると、ふう、と息を吐いて
「もう、放っとけ」
とだけ言って、あとは目をつぶった。
「俺を犯罪者にするつもりか、ヴォケが」そう言い捨てて部屋を出る。
ダイアナ妃も確か、死の間際に「放っといて」って言ったんだよな、俺は119をダイヤルしながらそんな事を思っていた。
しかし、父は死ななかった。
そのまま入院、そして、意識が朦朧とした状態のまま別の老人向け病院になだれ込むように入院。空きができたのは奇跡だと言われたが、かつて一度そこを見学に行った時に、実は気づいていた……そこから出る時には裏口から家族に見送られてしか方法はなく、しかも、その頻度はかなり高いらしいと。
一切の医療的行為は不要、と入院当初のアンケートに書いたにも関わらず、それからずっと父の容態は安定していた。
代わりに俺は、みるみるうちに衰えていった。
家の中に溜まった酒瓶だけが、俺の生活記録だった。そして結局、酒屋の前から病院に直行。
詳しい検査の結果、治しようもない腫瘍の転移が見つかった。
俺は、父より早く人生のゴールに達しようとしていた。