05
木に登っているのを見たのは、その頃だったのだろう。
俺はすでにどこかの会社に入っていたと思う。何社めかは忘れた。休日出勤から早く帰ってきて、明るいけどもう酒が飲める、と浮足立って家に向かっていたのだけは覚えている。
なぜそんな高い木にのぼったんだ、しかも隣の家の、と俺はビールを傾けながら、無事に家に帰ってきて手を洗っていた父にやや強く問うた。
「枝が繁ったから」
彼はそう説明したが、俺には何のことだかよく判らなかった。やがて、上隣の主人が白い紙に包まれた一升瓶を下げて、申し訳なさそうに我が家にやって来た。
「マサさんに、悪いことしたなあ、手間かけて」
聞くと、裏手の樹があまりにも繁りすぎて気になる、と父に話したら急に
「なら俺が枝を払ってやる」
と、いったん家に帰ってからまた戻ってきて、止める間もなくするすると木に登っていってしまったのだそうだ。
「落ちたらどうなるか、心配したけど無事でよかった」
そう恐縮する隣家の主人は、一升瓶を置いてから更に白い封筒を出した。
「そんな」
俺は押し返したが
「いや、プロに頼んでもこれじゃ済まないし」
と封筒を無理やりに俺に押し付けるようにして、何度も頭を下げて帰って行った。
封筒の中には真新しい1万円札がぴんと貼りつくように入っていた。
とりわけ頼まれた訳でもないのに邪魔な木を切ったり石をどかしたり、あるいは高い所の雨どいを直したり、そんな仕事をどこからか引き受けてくる、そういう事も多かった。
見積もりが甘いのと同様、そんな金にもならない雑用をすぐに引き受けてしまう父がもどかしく思えて、俺はよくつまらない口論をふっかけたものだ。
その頃、少し稼いでいたこともあって俺はかなり嫌な奴だったとは思う。
しかも、飲むとくどくなった。それは何故か、父からの遺伝では無さそうだった。父はいくら酔っても、議論をふっかけてくるという事は無かったから。ただ嬉しそうに黙って盃を重ね、そのうちに立てなくなってしまう、そんな酒飲みだった。
隣から礼を言われた日の夕餉でも、俺はくどくどと文句を垂れていた。
「いいのかよ、そんだけ汗水垂らして働いてよ」
俺は多分そんなことを言っていただろう。
「計算間違えて、こないだの魚屋だって120万は取れるところ、85万だぜ、バカじゃねえの」
「雨どい直してやって、余分にくれたぞ」
「いくら」
「5万」
「材料費コミだろうが」そう言った後に、「ヴォケ」とかつけ加えたかも知れない。思い出したくもないが、そういう事もあっただろう。
父は激昂することも無く、やや弱ったようにそっぽを向いてコップ酒を飲んでいた。
「隣の木だって、聞いたらよ……勝手に切ってやる、って上ったらしいじゃねえか」
「困ってたから。タケちゃん木に登れないって。それにその酒も。金もくれたし」
「悪がって持って来たんだよ、渋々に決まってんだろ」
聞いているのかいないのか、更に酒を継ぎ足していたので
「アンタだって落ちたら死ぬんだよ」
そう投げつけるように大声を出すと、急に顔をこちらに向けて
「それで死ねたら、本望だ」
案外はっきりと、そう口にした。
俺ははっ、となって振り上げたままのビールの缶をそっと下げた。
手首にまだ冷たい泡混じりの液がかかっていたが、それを拭くこともなく、俺はしばらく父の言葉の意味を考えていた。
父は父で、もう自分の発したことばなぞ忘れ、テレビに見入っているような顔をしてそっぽを向いていた。