04
ペンキ屋が大変だとは、一言もこぼさなかった。給料は現金渡しだったようで、俺に何か買って来い、と金をよこす時には、薄っぺらい茶封筒からいつもヨレヨレの札を出してきた。
「看板描きは儲かるみたいだな」
と言ってやったら、ペンキの錆止めで茶色く染みのついた顔でニヤリと笑った。
しかし、酔い潰れて寝ていることは確かに多くなっていた。
そして俺も、その頃に覚えた酒で今こうして、天井を見る日々を送っている。
それでも父は50過ぎてからペンキ屋を頑張って勤めあげた。55には独立し、たった一人であちこちの個人宅から仕事を請け負い、黙々と作業をこなしていた。
足場すら、独りで組んだ。何度か現場を見たが、二階建の家をぐるりと細い丸木の足場が囲み、それぞれが微妙な格子模様を描いてバンセンでくくられ、地面と平行に木の板が渡され、垂直には長い梯子がいくつか掛けられている。彼はそんなあぶなっかしい丸木と木の板を巧みに積み上げて、命綱もつけずにひょいひょいと屋根へと上っていった。
しかし見積もりは最も苦手とするところだったようで、中学時代もロクに勉強などしなかったせいか、父は計算がことのほか苦手だった。九九すらしょっちゅう間違えていた。それにあまりの悪筆に、書いてある見積書には専門の解説員が必要な程だった。
それでもかなりの料金の安さと、個人で請ける気安さのおかげでか、徐々に仕事は増え始めた。それにつれて俺も見積もり書を作るのを手伝うようになった。
大卒後、フラフラとバイトでつないでいる俺にとっては、見積もりを手伝うことで少しでも小遣いが入ってくるのは大変有難かった。
一時期は父のことを『社長』とも呼んだ。
しかし、いったん仕事を手伝い始めて気が付く。初期の社長の仕事を見ると、あまりの見積もりの甘さに愕然とすることが多かった。
計算ミスだけでは済まない初歩的な測り間違い、足し算のミス、項目の抜け、たいがいは実際にかかるだろう金額よりも大幅に安く見積もられていたので、依頼主からは文句の出るはずもなかった。親しい人は「もう少し料金を上げてくれ」と声もかけてくれることもあったが、それすら「いいから」と気にすることなく、父は淡々と家の壁を塗り続けていた。
逆に金額を多く見積もり過ぎてそれが相手に知られた場合には大騒ぎとなった。
知人の紹介で入った家では、不幸にもこのパターンだったらしく、訴えてやるとまで言われたらしい。
そんな事を知ったのも父がペンキ屋を辞めてからずいぶん経ってからだったが。