邂逅
気がつくと、小鈴はサンザンロードのいつもライブをしていた場所に来ていた。
もちろん今はステージは設けられていない。平坦なアスファルトが広がり、その背景には潰れたスーパーが墓のように建っている。
もはや何の店だったのかもわからない。
小鈴はさっき考えたばかりの詩を歌ってみる。
空っぽのコップでさえ コップという本体そのものがあるように
空っぽの心でさえ わたしという本体そのものがあるのだ
なにを捨てようと
なにを壊そうと
なにを燃やそうとも
わたしは どこまで行っても――
誰もいないサンザンロードに小鈴の声が流れる。けれどそれは声であって歌声ではなかった。ただの朗読である。
ベースもドラムもタンバリンも、そしてギターの音色も小鈴の頭の中でしか再生されていない。
実際に耳にできる音が欲しい。
――やっぱメロディがないと……。
無音のサンザンロードに押しつぶされるように、小鈴は歌うことをやめる。
アーケードが日の光を半減させ、昼間なのに木陰のような暗さがサンザンロード内に展開している。
――どうしてわたしはここに来ちゃったんだろ。もう歌えないのに。
小鈴はため息をつく。ふぅ、という空気の音さえも音量過多に聞こえる。
ふしゅう。
――えっ。
その奇妙な音は小鈴の耳に、自分のため息以上に大きな音量で飛び込んできた。
そして彼女は後ろを振り向き、絶句する。
そこにいたのは真っ黒い何かだった。
人の形はしているが、筋肉が異常に膨れ上がり脈打っているのかピクピクと小刻みな震えを帯びている。
体毛が多く、腕や脚どころか顔の半分までもが黒い毛で覆われている。その毛も人間の髪の毛というよりは、どちらかというと獣――熊やゴリラを連想させる毛だ。
黒いポロシャツとハーフパンツの上下を着ているのかと思いきや、Tシャツは所々白いところが散見されるし、ハーフパンツも膝近くの部分が元の素材の色を残している。
別の何かで染まったらしいが、それが何なのかはわかっていても小鈴は考えないようにした。
そして何よりも目を引いたのはその赤い瞳だった。
小鈴はバーサーカー状態のひかりを咄嗟に思い出す。
あのときのひかりと全く同じ輝きを放っている。薄闇の中に浮かぶ人魂のように。
だがバーサーカーは目は赤く発光させるが、それ以外は普通の人間とそこまで変わらないはず。
だとすると……。
「ふしゅう」
「…………………………な、なに」
小鈴は一歩後ずさる。
するとそのバーサーカーも一歩前へ足を踏み出す。
――どう見ても化物バーサーカーっていうのだよね……。でも、なんだろ。初めて見た気がしないのはどうして?
その化物バーサーカーはどういうわけか小鈴に既視感を覚えさせる。小鈴が真っ先に思い浮かべたのは今井ユニットバンドのファンたちだった。その中の誰かが何らかの原因でバーサーカーになったのではと考えたのだ。
だが化物バーサーカーの次の一声で、小鈴はそんな考えは見当違いだったと悟る。
「…………こ……す……ず…………ちゃん」
化物バーサーカーがにごった声で一音ずつ発した。
「えっ――」
声はまるで変わってしまっているが、小鈴には化物バーサーカーの正体がすぐにわかった。
名前を呼ばれるときの響きや雰囲気が、彼にまだ少し残っていたのだ。
――ストーカーさんだ……。でもどうして<ゾーン・B>に……。それにバーサーカーになっちゃうなんて。
「ええと、ストーカーさん、わたしがわかるんだよね? そうだよ、小鈴だよ。どうしてそんなふうになっちゃっ――」
「うぐおおおあああああぁぁぁぁぁ!」
小鈴の言葉は化物バーサーカーの咆哮でかき消された。空に向かって吠えるその姿は、まるで狼のようである。
……と、化物バーサーカーの目が小鈴の瞳を捉える。睨む。
それはバーサーカー状態のひかりが小鈴を睨んだときと同じ雰囲気を漂わせている。それはつまり、
――襲われる!
小鈴が逃げ出そうとするのと、化物バーサーカーが飛び掛ってきたのはほとんど同時だった。
小鈴が一歩を踏み出す。
その間に化物バーサーカーは十メートル近くも先にいた小鈴にジャンプひとつですぐ後ろまで到達。小鈴は振り向き、青ざめる。
化物バーサーカーが腕を伸ばし、その顔に殴りかかる。
――――――――――銃声――――――――――――
「きゃっ」
突然の銃声に小鈴は悲鳴をあげ、その場に倒れこむ。
背後でどさりと重い何かが落ちた音が響く。
自分の眼前にまで迫っていた化物バーサーカーの恐ろしい形相が彼女の脳裏によぎり、起き上がろうにも腰が抜けてしまって立ち上がれない。
――力が、入らない。
「大丈夫か?」
「ほえ?」
小鈴が顔を上げると、目の前にはスーツ姿の男が手を差し伸べていた。
増山啓造だ。
右手には今しがた放った拳銃が握られている。
「怪我はないか?」
「だ、大丈夫、です」
小鈴は啓造の手を借りてどうにか立ち上がる。
「あ、あのっ、ありがとうございましたっ。おかげで助かりました」
「いや、それは構わないのだが」
啓造は小鈴を通り過ぎて彼女の背後に倒れているそれのすぐ横にしゃがみこむ。
「これが噂の化物バーサーカーか。なるほど、たしかにほかのバーサーカーとはまるで違う。だがバーサーカーであることは間違いない。赤く発光する目が何よりの証拠だ」
小鈴も倒れている化物バーサーカーを見やる。
背中から血が流れているところを見ると、啓造は後ろから銃弾を見舞ったらしい。
「あの、もしかして……またわたしの後をついてきてたんですか」
「ああ、そうだが」
それが何か問題なのかと言いたげな口調である。
ちょっと威圧的な雰囲気はあるけど、みんなが言うほど悪い人ではないような気がする。小鈴にはそう思えた。
「さて、こんな危険極まりない時間に出歩くのはよくない。まずは私のユニットに来なさい。この街で一番安全だか――」
「啓造さん、後ろ――――!」
小鈴の絶叫に、啓造は咄嗟に振り向き銃を構える。
だがわずかに遅かった。
化物バーサーカーは起き上がり、もう目の前まで飛び掛ってきていたのだ。
啓造は化物バーサーカーに押し倒されるような形で倒れこむ。ガツンと地面に頭を打つ鈍い音が聞こえた。
化物バーサーカーは左手で啓造の首を絞め、右手を顔面に向けて振り下ろそうとしている。
小鈴はどうすることもできず、ただ立ちすくんでいる。
「そんな簡単に、私がやられるとでも?」
啓造は落ち着いていた。
そして彼は右手に持っていた銃の銃口を化物バーサーカーの腹に押し付け、ゼロ距離で発砲する。
――――――――――銃声銃声銃声銃声銃声―――――――
連発される銃声がサンザンロードにとどろく。
小鈴はそのあまりの音の大きさに思わず耳を塞ぐ。
啓造は無表情で、作業的に引き金を引いていた。
やがて銃声は止み、一瞬だけ時間が止まったかのような静寂が訪れる。
化物バーサーカーは右腕を振り上げた姿勢のまま、真横に倒れて全く動かなくなる。
「やれやれだ」
啓造が面倒臭そうにつぶやく。
「銃弾一発じゃ死なないとは。文字通り化物だなこれは」
それから彼は立ち上がり、放心状態の小鈴の手を握る。
小鈴は手をぎゅっとされて初めて自分の手が握られていることに気付く。「ほ、ほえ?」
「行こう、私のユニットへ」
啓造がぎこちなく微笑む。
「あ、あの……、あなたは本当にわたしの――」
小鈴が言い切る前に、啓造は倒れてしまった。顔から倒れてしまい、アスファルトに顔面を強く打ってしまう。小鈴は悲鳴を上げる。
啓造の背中からはおびただしい出血が見てとれる。
そして啓造を見下ろすように、化物バーサーカーが立ち上がっている。
その手にはナイフが握られていた。
化物バーサーカーはバーサーカーでもあるのだ。
つまり、普通の人間と同じように、武器も扱える。




