肉 を 喰いたい
横転したバスの中で、時枝陽太は腹を押さえ、こみ上げてくる吐き気と戦っている。
腹部の痛みはじんわりと広がり、彼の痛覚を眠らせない。
バスの中は横転しているせいで奇妙な光景となっている。右側には座席が壁から生えたような感じに、左側は緩やかに湾曲した天井が今は壁の役目を果たしている。
彼は最後部で横になっている。立ち上がりたいところだが、苦しくて体が思うように動かない。それに――
「おい見ろよ、コイツ結構金持ってんぜ」
「マジかよ」
「あ? なんだこれ……電話か? 電話の子機だけ持っててどーすんだよお前。馬鹿じゃねえのか?」
「へへへ、ちげーねえ」
四人の見知らぬ男たちがいて、下手に動くとまた殴られる可能性がある。
今から十分前、陽太は突如バスから出てきたこの男たちに襲われ、散々殴られたあげく財布や携帯電話、バタフライナイフ、背負っていたリュックを奪われ、このバスに閉じ込められている。突然のことに、ナイフを使う間もなかった。
男たちからは鼻につく異様な臭いがし、それがバスに充満して気持ちが悪い。何日も風呂に入っていないようだ。
――なんだよコイツら……ホームレスか? ていうかそれは電話の子機じゃなくて携帯だっての。そんなこともわからないのか?
陽太の疑問はもっともだが、十六年前に閉ざされてしまったこの街に携帯電話は存在しないのである。
「くそったれ、食い物はねえみてえだな。けどナイフは立派だな」
「この金使ってサンザンロードで何か食うか?」
「それもだりーなぁ」
「ゲートの警備してるヤツにこの金渡して<外>に出してもらうとか?」
「ばーか、そんなの無理に決まってんだろうが」
「じゃあ配達屋の野郎にこの金つかませて……」
「それも無理だ。あの野郎のことだから、もっと馬鹿でかい金額じゃねえと。たったこれっぽちの金じゃあとてもじゃねえが」
「ちくしょう……おいてめえ、どうしてもっと金持ってこなかったんだ!」
ひとりの男が陽太のもとへ来て、なんの躊躇もなく彼の顔面を踏んだ。靴の裏の滑り止めらしき凹凸が陽太の頬にめり込む。
「がああっ」
「おら、まだ持ってんじゃねえのか? あ?」
「――持って…………ない」
「ふざけるなっ!」
今度は腹に爪先が衝突する。刃物でも刺さったかのように、陽太の腹部にそれは深く食い込む。抑えていた吐き気が限界を超え、口元から胃液と血液を混ぜたものを撒き散らす。
「がはっ!」
「うわっ、きったねえな」
男はまるで汚物でも見るような視線を陽太に注ぐ。
――お前らに言われたくなんか……。
「そうかそうか、ここの空気がよくないんだな。だったら……」
男は芝居がかった口調でそう言うと、陽太の襟首をつかみ上げ、そのまま持ち上げた。
バスが横転しているせいで今は天井が窓になっている。
陽太はその窓に頭をぶつけ、そのまま突き破った。頭皮のあちこちにガラスの破片が刺さる。血が頭から垂れて右目を塞ぐ。
だが陽太の左目は見逃さなかった。
四年間ストーキングし続けた彼女を。
沙仲小鈴の後姿を。
「こ、こす……ず……」
沙仲小鈴は男と手を繋いでどこかへ行こうとしていた。その男は背が高く、ギターケースを肩にかけている。
彼らは陽太に背を向けて、どんどん離れていく。
――だ……だれだよ……そいつ……こすずちゃん……。
彼の脳裏に、この四年間に見てきた小鈴の姿が走馬灯の如く蘇る。それは彼が今まで集めた情報と、欲望、それに怒りだった。
――小鈴ちゃんは流行にそこそこ敏感。
――小鈴ちゃんに彼氏なんかいない。
――小鈴ちゃんはお婆さんとふたり暮らし。
――小鈴ちゃんのお婆さんは最近亡くなった。
――小鈴ちゃんのことで知らないことなんかない。
――小鈴ちゃんは誰のものでもない。
――小鈴ちゃんを見ていいのは僕だけだ。
――小鈴ちゃんは
そのとき、陽太の体に心臓が膨れ上がったような感覚が走る。鼓動が急激に早くなり、体中が火照るように熱い。
腕も脚も痙攣し、筋肉が膨張する。まるで体の組織という組織全てが呼応するように。
「あががががぁ……」
襟首をつかまれて苦しいはずなのに、体は奇妙な高揚感を伴い始めている。
そしてなぜか、彼は猛烈な空腹感に襲われる。
肉を喰いたい。
なんでもいい。
どんな肉でも。
すると、彼の視界にちょうど肉が目に付いた。手の平のようだ。陽太にはなぜかそれが小鈴の手に思えた。
――喰ってやる、小鈴ちゃん。
そして彼はその手の平に噛み付いた。
彼の瞳は赤く発光していた。
それを見た男たちは息を呑み、一目散に逃げ出そうとする。
逃げる際、ひとりの男が陽太から奪ったナイフを落とす。
陽太はそれを拾う。
バスの中が鮮血で染まるのに、五分もかからなかった。




