カレー屋でのひととき
沙仲小鈴はカレー屋のチキンカレーを口に運びながら、今朝方見た夢を思い返していた。妙にはっきりと記憶に残る夢で、小鈴は自分が彼のことを頭の片隅に留めていたことに少し驚く。驚くが、別にどうでもよかった。ちなみに彼の名前は思い出せない。
――ちょくちょく顔は見るんだけどねぇ。
「ストーカーさん、元気かなぁ」
小鈴はぽつりと呟いたのを、大は聞き逃さなかった。
「あ? ストーカー?」
大は激辛のビーフカレーをもぐもぐいわせながら訊く。辛さのせいで彼はライブを前にして早くも汗だらだらである。
「そう、わたしの知り合いなのです」
「ストーカーなんて変わった名前だな。外人か?」
小鈴は一瞬「なに言ってんだろ」と思ったがなんてことはない。単純にストーカーという言葉が普通に使われるようになる前に、彼はこの街に閉じ込められてしまったのだ。
「あー、ええと名前じゃなくてですね、好きな人の後をこっそりつけて覗き見したりする人をストーカーと言うのです」
「……変態じゃねえかよ」
「そうともいいますね。わたしの後をつけてきたり、家の庭に隠れてわたしの部屋を覗いたりしてるんです。本人はバレてないと思っているみたいですけど、思い切りバレてます」
「……そんなんが友達なのか?」
「いえいえー、友達じゃあないです。知り合いですよ知り合い。いえ、他人以上知り合い未満というところかもしれないなぁ」
「……やばくないか、そいつ」
「ううん、中学生の頃からそんな感じなので大丈夫だと思いますよ。至って無害です。天気みたいなものですね。晴れたり雨が降ったり雪が降ったり、ストーカーさんがいたりいなかったり」
「全然違うと思うが……まあ、その天然っつうか暢気なところが小鈴の強みだな。お前、この街に向いてるよ」
「ほえ? どういう意味ですかそれ」
「……あ」
「なんですかそのしばしの沈黙後の『あ、いけねっ』みたいなチョイミス申告は」
小鈴の指摘は正しかったらしく、大は「いやぁ」と困ったように頭をボリバリとかく。
「いやさ、バーサーカー症候群のことで肝心なこと言ってなかったなーと」
「おっと」
それは聞き捨てならない。
「頼みますよ大さん。わたし<ゾーン・B>にしてもバンドのボーカルにしても新参者なんですからね」
「へいへい。――で、だな。まああれだよ。お前はそのままにしてればいいってことだよ」
「すいません、ワケワカメです」
「おお、懐かしいなそれ! ガキの頃流行ったぜ! ワケナミヘイ!」
「いえ、ワカメです。ていうかどうでもいいです。――で、そのですね、意味プーなのですが」
小鈴の問いかけに、大はカレーをガガガッとブルドーザーばりの勢いでかきこみ、グラスの水を一気に飲み干してから答える。
「つまりだな、バーサーカー症候群っつうのは怒ると発症しちまうんだ。怒るっつってもカレーの横にのった福神漬けを勝手に食われたときの怒りなんてもんじゃないからな」
そんなことで怒ったりしないと思う小鈴。
大は続ける。
「もっと深くて激しい怒りだ。――誰かを」
「え? なんですか?」
大がなにかを言いにくそうにしているのを、小鈴はいぶかしむ。彼はいつもズバズバと物を言う人だ。逡巡するところなど初めて見る。
大はグラスの水を飲もうとするがすでに飲み干してしまったことに気付き、バツが悪そうな顔でカウンターにコトンと置く。それから小鈴の目をじっと見つめ、口にする。
「――――誰かを、殺したくなっちまうような怒りだ」
「はーん」
「お前、もう少し怯えたような顔しろよ。『そ、そんな……』みたいなさ」
「もったいぶるから何かと思いましたよ。なるほど、たしかにわたしなら大丈夫ですね。大体怒ったことなどありませんし」
――そもそもわたしには何もないしね。
「ならいいけどよ……まああれだ。楽しく生きろよってことだと俺は思うよ」
「大さんらしい解釈ですなー」
「へへへ。――ん、そろそろ時間だな。おばちゃーん、ごちそーさんっ」
大が厨房に引っ込んで調理中の店主に声を――否、大声をかける。店が一瞬揺れるほどの馬鹿でかい声である。小鈴やほかの席にいた客はいっせいに耳を押さえたほどだ。
ほどなくして割烹着姿のおばちゃんが顔を出した。「あいよー。これからまたライブかい?」
「おうよっ」
「今日も小鈴ちゃんが歌うのかい?」
おばちゃんが小鈴に訊く。小鈴はおばちゃんの期待してるわよ的な視線に若干たじろぐ。――そ、そんな大したもんじゃないのにぃ……。
「え、えぇ。わたしがまた歌っちゃいます。楽器は全然できませんけど」
「なーに言ってんのぉ。小鈴ちゃんの歌あたしゃ大好きだよ。楽器なんか大ちゃんたちに任せときゃいいのさ」
「そうだぜ小鈴。おばちゃんの言うとおりだ。オメーは歌だけでもう最高なんだぜ?」
「うーん、そりゃあちょっとお世辞をかましすぎじゃないですか?」
小鈴の反応に、大は呆れているようだった。
「あのな小鈴、最高でなかったらあんなに客は集まらないぜ? あんなにみんな熱くならないぜ?」
「そーゆーもんですかね」
「そーゆーもんだ。さて、行くか」
大はギターケースを肩にかけ席を立つ。
「うぃ」
「いってらっしゃいな。アタシももう少ししたら観に行くからね」
「え、でもお店は大丈夫なんですか?」
「いいんだよ~。どうせあと三十分もしたらほとんど客なんてこないんだから」
今は午後九時半近くで、あと二時間ちょっとしたら零時である。<外>で言うところの昼で、客足はむしろ多くなると思うのだが、おばちゃんはそんなこと全く気にしていない様子だ。
小鈴がライブで歌ってからもう一週間が経つ。
信じられないことだが、あのライブ以来、おばちゃんのように小鈴の歌を聴きたさにライブを訪れる者が後を絶たないのだ。口コミであっという間に噂が広がり、この街で小鈴の名前は一気に知れ渡った。
小鈴はそれを未だに信じられないでいる。




