<ゾーン・B>の中の陽太
トラックが巨大な門を離れて五分ほど経った。
陽太は大きく息を吸い込んでみたが、<外>と<ゾーン・B>の違いはわからなかった。
臭気なども感じられない。だがインフルエンザ菌や放射能だってとくに臭いがあるわけでもない。
正体不明のウイルスだって知らぬ間に空気中に漂っているかもしれない。
――せめてマスクでも持ってくればよかった。
エンジン音がうるさくて外の音は聞こえないが、人の気配はあまりないように思える。早く外の景色が見たいと思ったが、陽太はその誘惑に耐える。
――と、夜空だった視界にいきなり天井が現れて彼はぎょっとする。等間隔でライトがつけられ下を照らしているようだ。トンネルではなさそうだ。
驚くのはそれだけではない。人の声が彼の耳に入ってきたのだ。具体的に何を言っているのかわからないが、ただ話し声が複数聞こえてくるのはたしかである。
けれど陽太は首をひねる。腕時計を確認すると、時計の針は午前三時を過ぎたところなのだ。とてもじゃないが人が出歩くような時間ではない。
それに人がいることは今の陽太にとって決して喜ばしいことではない。トラックから降りるとき誰かに見られたら厄介なことになる。いったいこのトラックがどこに向かっているのかは不明だが、いずれ陽太が潜む荷台のダンボールを運び降ろすことになるだろう。そうなると確実に陽太は見つかる。
――そうなる前にここから逃げ出さないと……。
脱出のタイミングを図る陽太の意図が通じたかのように、トラックがゆっくりと速度を落として停まった。エンジンが切られ、運転手の男が降りる気配を感じる。だがわりと近い位置で人の話す声がぱらぱらと散っている。今出て行くのは危険だと判断し、陽太はそのまま体をちぢこませる。
ダンボールがいくつか運び出されていったが、幸い陽太のいるところとは離れた場所で、彼は安堵する。
そのとき、はっきりとした具合に人の話す声が聞こえた。ひとりは運転手の男、もうひとりは知らない女の声だった。声音からして四十歳は超えていそうな感じだった。
「あの子、元気そうだったよ」
女が言った。どこか悲しそうに聞こえるのは気のせいだろうか。
「そうか」
運転手は無感動に答える。
「ねえ、どうにもならないのかい?」
「ならなねえし、なっちゃいけねえ」
「でも……」
「お前の気持ちはわかる。でもな、こればかりはどうしようもないんだ。あの子にはあの子がいるべき場所がある。そしてそれは<ここ>じゃねえんだよ」
「…………そうだね」
女の声はかすれていて聞き取りにくかったが、涙がにじんでいることは容易に想像がつく。
けれどそれを盗み聞きしている陽太には全く要領を得ない会話だった。それよりも彼は早く荷台から降りなくてはと周囲の気配に耳をすませることで忙しい。
けれど結局陽太はトラックから降りる機会を見出せず、またゴトゴトと揺られる羽目になった。
*
陽太はトラックに揺られながら<ゾーン・B>について知っている限りのことを思い出そうとしたが、自分が大した知識を持ち合わせていないことに気付く。
というより<ゾーン・B>について教えようという姿勢が大人からも教科書からも感じられないのだ。知る必要がないということだろうか。
<ゾーン・B>、それは第一中央線と第二中央線の間を分断するように立ちはだかる壁。だが第一と第二は元々ひとつの路線だったという。陽太が一歳のときまでは、だが。もちろん彼にその記憶はもうない。
<ゾーン・B>、それは城壁のような壁に街ごと囲われている。感染した人間が外に出られないようにするために。
学校の教室の窓から外を見れば、それはすぐにそれとわかるように視界に入る。まるで太陽や月のように。
そして陽太は、いや陽太以外のみんなも、それを当たり前だと思っていた。太陽が、月が空に浮かぶことに疑問を抱く者がいないのと同じだ。
けれど陽太は今、<ゾーン・B>という存在を目の当たりにし、自分が騙されていたような気分を感じつつある。
――騙される……誰にだろう。
解決することのない疑問に向き合っている陽太を、トラックは激しい上下運動とともに運んでいく。十分ほどトラックに揺られ、着いた先は――。
「やれやれ、相変わらず穏やかじゃねえなぁここは」
そんな運転手の声が聞こえる。
陽太はダンボールの影から少しだけ顔を覗かせ、周りの偵察を試みる。試みたこと後悔したのはその一秒後だった。
そこは<ゾーン・B>と聞いて<外>の人間が真っ先に思い浮かべるような光景――廃墟の群れだった。崩れた建造物、どこからともなく流れてくる汚物のような臭い、瓦礫が散乱する道は、ほとんど道の体をなしていない。トラックが激しく揺れていたのは、トラック本体の問題だけではなかったようだ。こんな道なき道を走行すれば、キャタピラを装着していようと振動を吸収しきれまい。
陽太が息を呑んでその荒廃した風景に目を奪われていると、荷物がゴトゴトと降ろされていく。そうっと覗いてみると、荷台の一番後ろから運転手の男がダンボールを次々と台車に乗せていく。荷物がある程度の高さになるとギィギィと不快なキャスター音を立ててすぐ近くの雑居ビルへと運んでいく。
陽太は周囲を見渡す。
――誰もいない!
これ幸いと、陽太はダンボールを押しのけて荷台から地面に飛び降り、一目散に駆けた。運転手ががなり立てるキャスター音がまだ聞こえる。もっと離れなければと、陽太はスピードを落とすことなく、瓦礫だらけのその道を闇雲に走りぬけた。
どれぐらい走っただろう。
バスが横倒しになって完全に行き止まりになっているところで、陽太は嫌でも止まらざるおえなかった。
バスはもう随分と前からそこに放置されていたらしく、ボディのそこかしこが錆ついて、後輪にはツタが絡まっている。
止まってみると、陽太は自分が酷く疲れていることに気付いた。汗をびっしょりとかき、着ているポロシャツが背中にぴったりと張り付いて気持ち悪い。
心臓が悲鳴をあげ、血を送り出す作業に没頭している。
もうキャスターと地面がこすれる嫌な音も聞こえない。
陽太は胸をなでおろし、バスのボディに背を預け姿勢を楽にして呼吸を整える。
そして改めて目の前に展開する破滅的な風景を眺める。
「ここが、<ゾーン・B>……。こんなところに小鈴ちゃんは来たのか」
陽太はごくりと無味な何かを飲み込む。
バスの中で、小さな物音が立ったが、彼はそれに気付いていない。




