<ゾーン・B>へ向かう少女
お尻が痛いですなぁ、と沙仲小鈴は感じていた。
小鈴は今、トラックの助手席に乗っているのだが、その乗り心地が最悪だった。大したスピードも出していないうえに平らなアスファルトの国道を走っているというのに、がたがたと不吉な上下運動を繰り返すのだ。彼女はこの車の余命は半年もないな、などと勝手なことを考えていた。
窓の外には夜の静けさが広がり、それは酷く退屈そうに見えた。
「一応訊いておきたいんだがよ」
運転席の中年の男がそう切り出した。若い頃はそれなりに格好よかったのだろうが、今ではその面影が塵程度に感じられるほどにまで落ち込んでいた。頬は削げ、目元には隈ができ、瞳も濁っている。無精ひげがぷつぷつと顎から喉にまで生えてだらしがない。薄汚れた白いタンクトップがガテン系を思わせる。
「なんですか?」
「嬢ちゃん、名前は?」
「沙仲小鈴です」
「……沙仲小鈴、ふむ」
男は前方を見ながら無表情に頷く。「年は?」
「十七です」
「ふむ」
「あれ、それだけですか」
「なんだよ。ほかにも訊いて欲しいのか?」
「ご趣味は? とか」
「見合いじゃねえんだよ」
「あっはー、そうでした」
「緊張感ないな、お前」
「そうですね、あんまりというか全然ないですね」
「大したもんなのかただの馬鹿なのか、どっちにしても凄いよ。これから<ゾーン・B>に行くってのに」
「わたしには怖いものなどありません」
逆に嬉しいと思えるものもないのだが。
「そうかい、それは頼もしい」
男はいい加減に返答すると、ウインカーを左に出し、その方向にハンドルを回した。上下運動に加え横Gが小鈴の体を揺らした。
「オジサンの名前は何ていうんですか?」
「配達屋」
「いえ、名前なんですが」
「だから配達屋でいいって。周りの人間も配達屋って呼ぶからな。<ゾーン・B>でそんなことやれんのは俺だけだからな。それに本当の名前なんてもう忘れちまいそうなぐらいさ」
配達屋は自嘲的な笑みを浮かべ、アクセルを踏み込んだ。車は勢いを増し、退屈な風景を早送りしていく。
「そうだ。一応言っておくが、目的が達成できなくても俺のせいにするなよ。それと<ゾーン・B>に行けるのは一度きりだ。<外>のヤツを侵入させたなんて知れたら、俺の命がないんだぞ。こんな危険、そう何度も冒したかねえからさ」
「もうそれ聞き飽きましたよ」
そう、配達屋は先ほどから何度となくこのセリフを繰り返している。
「いや、何度言ってやっても納得しねえ輩が多いんだよ」
「わたしが初めてじゃないんですか」
「ああ、どこで聞きつけたのか俺が<ゾーン・B>と外を行き来することができるって知ったやつが今まで何人かいた。どいつも家族を探すだの恋人を探すだのと言っていた」
「その人たちはどうなったんですか?」
「帰る時間と場所を決めておいたんだが、大抵のヤツはしっかりと待ち合わせ場所に帰ってくる。早く帰らせてくれってな。そんでもって俺に文句垂れやがる。『家族を探すどころじゃなかった』ってよ。やれやれだ」
「やれやれですね」
「……お前、天然か?」
「よく言われます、それ」
「どういう育てられ方したんだ」
「失敬な。おばあちゃんはわたしを大きくなるまでちゃんと育ててくれましたよ」
「その大切なおばあちゃんが死んだ割には、随分平気な顔してるな」
「そういう性格なのです」
「俺にはよくわからん」
「配達屋さんこそ、おばあちゃんとはどういう関係なんですか?」
「ちょっと借りがあってね」
「それでいつもおばあちゃんの手紙を<ゾーン・B>に届けてたんですか? だったらわたしの両親の居所もわかりますよね。ちゃちゃっと教えてくださいな」
「ちゃちゃっといけばとっくに教えてる。だがな、俺はお前のオカンとオトンの居所なんぞ知らん」
「えー」
「えー、じゃない。仕方ないんだ。たしかにお前のばあちゃんの手紙はいつも届けていた。だが俺が届けるのはオカンオトンの家じゃない。<ゾーン・B>の管理者たちに渡すのさ。そして管理者が検閲したあとで、配達される。配達するのも管理者たちさ。だから俺は何も知らん」
「じゃあその管理者さんに訊けばいいんですね」
「管理者には守秘義務があるし、そもそもあいつらがそうほいほいと情報を出してくれるとは思えん」
「嫌な人たちなんですか?」
「お前の学校に嫌な先生はいるか?」
「いますねぇ。重松っていう古文の先生なんですけど、女子の体をいやらしい眼つきで見てくるんです。あれは間違いなく変態ですね」
「管理者たちはそいつの一億倍ぐらい嫌なやつさ」
「超ド級の変態ということですか。それは厄介ですなぁ」
「……お前、天然だな」
車は国道を道なりにひたすら走っていく。対向車線から走ってくる車は全くない。家々の明かりもいつの間にかほとんどなくなっていた。
そして前方には――
「うわぁ……あれが<ゾーン・B>の壁ですか。間近で見ると巨人ですね」
小鈴は圧倒されながらその巨大な壁を見る。街をまるごと囲む灰色の壁、高さは一キロにもおよび、世界のどの建造物よりも高い。しかしなぜか、触ったことも無いのに冷たそうだな、と小鈴は思った。
「驚いたか?」
「びっくりです。でも不思議でもありますね」
「不思議?」
「だってそうじゃないですか。第一中央線と第二中央線が昔は一つの路線だったなんて、考えられません。あの壁が無くて一つの路線だったころはきっと空想です。物語っぽいですよ」
「そうか? 俺にしてみれば三鷹と西荻窪の間にぽっかり穴が空いてる今のほうが物語っぽくて不思議だけどな」
「ふふふ、ジェネレーションギャップですな」
「けっ」
男はアクセルを一気に踏み込んで一気に時速百キロまで上げた。車は上下運動をさらに激しくする。小鈴は「ひゃひゃあっ」と悲鳴を上げながら、硬いシートに叩きつけられる尻の安否を気遣った。
――じ、痔になるっす……。