プロローグ
日に日に高くなっていく壁を眺め、彼女は嘆息した。もうビルの十階建て以上もの高さだろうか。のっぺりとした灰色の冷たい壁が、無慈悲な作業員たちの手で着々と出来上がっていく。
なんのための壁か。
それは彼らを一定範囲内に押さえ込むための封鎖、それによる外界との隔絶、世界を二つに分断するための境界線。そこに数値的な距離はなんの意味も持たない。壁の向こう側とこちら側で、違う世界を存在させる、それだけなのだ。
ただ空まで覆うつもりはないのか夜空がくっきりと見える。星はあてにならない光を気まぐれに放ち、彼女に中途半端な希望を与えようとする。彼女は星を見るのをやめ、目をつむった。すると、少しだけ前向きな思考を得ることができた。
――あの娘がいなくてよかった。それがせめてもの救い。
彼女はそう思い、胸の前でぎゅっと手を組んでそれが最高に幸せだと自分に言い聞かせた。娘はもうすぐ二歳になるはずだ。
あのとき――。
あのとき、もし娘を連れていたらと思うと、彼女は自分が娘を守りきれたかどうか自信が持てない。
あのとき、人通りの多い駅前を彼女は歩いていた。その日は休日で、夫は趣味の車いじりに没頭し、一歳になったばかりの娘は母の家に預けてあった。母の家は駅から五駅離れたところにあって、そこまで離れていない。最近は育児疲れもあって彼女は少し気が滅入っていた。そこで娘を母に預け街にショッピングにでかけることにした。と言っても、彼女は街の中に住んでいるようなものなのだが。
しかしひとりでのんびり歩くと開放的になる。彼女はいつもならうんざりする人混みでさえも海を眺めるかのように気持ちよく見ていられた。
――と、雑踏の中で突如ひとりの男がナイフを振り回し始めた。まだ二十代前半ぐらいだろうか。めちゃくちゃにナイフを振るい、周囲の人間の肌を切っていく。
上がる悲鳴。
上がる血しぶき。
連続殺傷事件かと彼女は思い、慌てて逃げようとしたが、ほかの場所でも誰かが暴れていた。別の場所でも、また別の場所でも。
何がなんだかさっぱりだった。テロかとも思った。組織的な犯罪。
しかし、彼女はナイフを振り回している男を遠目で一瞬見て、自分の目を疑った。男の目が赤く発光していたのだ。十メートル以上距離を空けた彼女にもその血のような色の光が窺えるほどに、彼の目は際立って光っていた。まるで作り物のように。
男を抑えようと何人かが飛びかかるが、男は驚異的な力でそれを跳ね除け、近くにいる人間の肉体に刃を埋め込む。地面に流れていく血液が、染みのように広がった。
平和な駅前は混乱の渦に飲まれ、彼女は夫の名前を叫んで逃げ惑う人々に流されていった。
――あ、また思い出してた。
彼女は首を振り、気分を切り替えようとする。
最近はこれの繰り返しだ。どうしてもあのときのことがフラッシュバックしてしまう。この記憶の回線を断ち切れるものならすぐさま断線させたい、いっそ記憶ごと消し去りたい。
壁はまだ高くなっていく。
壁の向こうの娘を思いながら、彼女は涙した。