ラプンツェル
いとしいあの人が来た
私を望んでやってきた
声は聞こえ
長い髪を垂らし
高い窓の外の、刻一刻と移り変わっていく色合いを見つめながら、フェリアは歌を口ずさむ。
あなたを迎えるの……
カタンという音がした。先程、ラバールたちが出ていった扉からだった。びくっと背中を震わせてから、ゆっくり振り向くフェリアの目に、女の姿が映った。
世話役の女だ。彼女は手にはフェリアの夕食を持っていた。
物問いたげに見つめるフェリアの視線をものともせず、女は無表情にテーブルの上に盆を乗せた。その目が、ふと同じテーブルの上に置いてある『ラプンツェル』に注がれる。……だが、女はすぐ目をそらし、何事もなかったようにまた部屋から出ていった。そして、カチャリと鍵の掛かる音。
どうして、彼女はラバールたちの為に鍵をあけたのだろうか?
ふとそんなことを考える。ラバールの話がもし真実だとすると、彼らはダーナにとって最もフェリアを知られたくない存在ではないのだろうか。なのに、おそらくダーナ以外は誰も入れてはならないと言われているであろう扉を、抵抗もなく開けたのは、どうしてなのだろう……?
「……ラバールの……あの、話……」
考えては、駄目だ。心のどこかで制止する声が聞こえる。あんなこと、信じては駄目だと。ダーナが、そんなことをするはずはない。彼女の、フェリアに対するやさしさはすべて見せ掛けで、『幸運の姫』を得ようとする手段であったなどありえない、と。
ラバールは、あの話をした後、ぼうっとしているフェリアに「また来る」と言って、帰っていった。けれど、扉をくぐる時、彼女を振り返って、こう言いもした。
「今の話……信じる信じないは、お前の自由だ。もちろん、認めることも。……けれど、お前は知るべきだ」
あの、射抜くような目。
「何も知らないでは済まされない。……いや、何も知らないこと自体が、すでに罪だ。許されざる罪だ」
責めるような、諭すような声が、忘れられない。
知る、ということはどういうことだろう。フェリアが無知であることが、すでに罪だということは、どういうことだろうか。
フェリアには、何もわからなかった。いや、わかったことは、一つだけある。彼のいう国はこの国のことで、生き恥をさらしている王子――王位から退けられた王の息子というのは、当のラバールであること。そして、『得た者に限りない幸福を与える娘』とは、フェリアをさしていること。
だが、それが判ったところで、何になるというのだろう。わかるということは理解することで、納得することではないのだ。
第一、ラバールの話が真実なのかわからないではないか。……いや、彼が嘘言っているようには見えなかった。あの瞳が嘘を言うようには見えなかった。情念のこもった、暗い炎が見え隠れしている、あの目は。けれど、それが真実であったら、ダーナは…………。
思考は螺旋を描く。
ダーナを信じたい。いや、信じている。けれど、ラバールやシャルの語る真実が、そして何より彼らという存在が、フェリアを揺さぶる。
ダーナに会いたい。とフェリアは思った。会って、話が聞きたいと。けれど、言ってはいけない気もした。何となく彼らの訪問をダーナに伝えてはいけないとも思ったし、そんなことをしたら、今までの自分の全てはどうなるという思いが、心の隅をかすめもする。
ダーナに会いたい。
そして、ラバールに、シャルに。
二人の面影がふっと脳裏に浮かんだ。今日始めてあった、人たち。ダーナとも、自分とも違う、存在。突然現れて、フェリアの世界の全てをかきまぜてしまった。
「……フェリア。妖精……」
わたしの、名前。ぽつりとつぶやく。何だか嬉しい、とても。ラバールがつけた、彼女だけのもの。……わたしだけのもの。
「……会いたい。声が聞きたい。あの魅惑的な声で、名前を呼んでほしい。あなたがつけた、わたしの名前を……」
答える声は、ない。
フェリアはそれを淋しいと思った。
あなたを迎えるの……
二日後に、ダーナがやってきた。
「どうしたの『幸運の姫君』? どこか具合でも悪いのかしら。元気がないわ」
久しぶりに訪れたダーナは、けれど、フェリアの変化を見逃しはしなかった。『幸運の姫君』と呼ばれるたびに、複雑な思いが胸を駆けるフェリアは、笑みを作って首をふった。自然に笑うでもなく、無理矢理に笑顔を作ったのは、これが初めてだった。
「そうなの。でも心配だわ。そろそろ寒くなるものね……」
冬になるのよ。そうつぶやいてにっこりと微笑むダーナは、けれど、そんなフェリアの〈嘘〉には気付かなかった。生まれて初めての、きごちないもの。どうして、それすら気付かないのか。元気のなさを、見抜いた彼女が……。
もしかして……彼女自身が作り笑いをしているから……?
ふとそんなことを考えて、慌てて否定した。そんなことはない。と。
けれど、一度浮かんだ疑惑はなかなか消えてはくれなかった。
思い出したのは、ラバールの笑顔だ。ここにいた少し間、彼はいろいろな表情をした。怒っている顔、華やかに笑っている顔、皮肉げな笑顔、真摯な眼差し。けれど、ダーナがフェリアに見せる顔は、にっこりと笑った顔か、少し不快げな表情だけだ。その笑顔も、ラバールの表情豊かなものに比べて……まるで……まるで……。いや、考えては駄目だ。ダーナを疑うなんて、許されることではない。
「……ダーナ。わたし、どうしても知りたいことがあるの……」
考え考え、フェリアは言った。ラバールの言ったことを確かめることはできないけれど。
「なあに?」
にこりと、笑顔を深めてダーナは問い返した。目の前の少女が、自分に対する疑惑を抱いていることも、知らずに。
「歌よ。前に聞いた、歌。わたし、あれのことがどうしても知りたいの……」
「まぁ、『幸運の姫君』」
ダーナは不快げに鼻を鳴らした。
「あの歌はいけないと言ったでしょう? まだ気にしていたの?」
「あの歌……この話のものなのでしょう?」
フェリアはソファの下に隠してあった『ラプンツェル』を取り出した。とたん、ダーナの顔から血の気がサーッと引いた。けれど、次の瞬間には反対に、頭に血を昇らせて、
「……いけないわ! こんなものを! どうして、わたしはこんなものを入れろなんて、命令していないのに、あれほど、気をつけろと言ったのに!」
初めてのダーナの怒鳴り声だった。彼女のそれはフェリアに対してのものではなかったが、フェリアはびっくりして目の前のダーナを凝視した。そんなフェリアの視線に気付いて、ダーナは慌てて取り繕った。
「ご、ごめんなさいね。あなたに見せるはずではなかったものがあったから。この館にあの本を運んだ者が、間違って入れたらしいのよ。注意していたのに。……この本は預かっておくわ。あなたが見るべき話ではないの。これは」
「……どうして?」
胸に走った衝撃を押し隠して、フェリアは首を傾げて尋ねる。
どくん、どくん、と耳の奥で鼓動が鳴った。一瞬、自分は何かの病気でこの場で死んでしまうのではないかと思った。こんなことは初めてだ。息苦しささえ感じられる。
そんなフェリアに、慌てているダーナは気付かない。
「……どうして? どうってことない、お話ではなかったの?」
けれど、ダーナにとってはどうってことないものではないのだ、この『ラプンツェル』は。
そんな思いは、そのまま胸にじわじわと広がっていく疑惑へと移行する。
「……とにかく、これは駄目なの。忘れてしまいなさい。姫。いいこと? 二度と思い出してはいけないわ。あの歌もよ。あなたには必要ないのだから……」
ここで『幸福の姫君』として何も知らずに生きていくためには、なの? ダーナ。だから、必要ないものなの?
口をついて出そうになる問い。けれど、言ってはならない。怖くて聞けない。
――わたしが、捕らわれの娘 だから?
「この話……好きなのに……」
フェリアはこの本を見た時、なぜラバールとシャルが苦笑いを浮かべたのかが判った。まさしく、フェリアこそがラプンツェルだからだ。魔女に塔に閉じ込められた娘だったから。
「とにかく、これは私が持っていくわ。……今度またもっと面白い本をたくさん持ってくるから、この本を二度と思い出してはいけないの。あなたは、とてもいい子だから、私の言うこと、聞けるわよね?」
それでもなお動かないフェリアの腕から、ラプンツェルをひったくると、ダーナは扉の外に消えていった。そして、カタン、と扉の鍵が閉まる音。いつもは聞き流しているこの音が、やけにフェリアの胸に響いた。
鍵の掛かった、彼女には開けられない扉。
フェリアはふらっと立ち上がると、居間からひとつづきになっている寝所へと歩いていった。そこには、フェリアがいつも寝ているベッドがある。服を入れる箪笥が。小さな手鏡と髪飾りの置いてある鏡のついてない鏡台が。そして……
高くて覗くことのできない、窓。
ここ数日、見るのを忘れていた暦。ダーナがくれたものだ。
「……信じたい……」
いや、こんなに頭の中が疑惑で一杯になっても、まだフェリアはダーナを信じているのだ。この暦をくれた彼女を。いろいろ教えてくれた、彼女を。
どうしてこんなことになったのだろう。フェリアは思う。どうしてダーナに疑心を抱くことになってしまったのか……。こんな惨めな気分は初めてだ。フェリアは自分が酷く汚れてしまったような気がしてならなかった。
カタン。再び鍵の開ける音がした。振り返ると、扉から世話役の女が現れた。けれど、まだ食事というわけではない。女はそのままフェリアの所へ来ると、彼女の手をとった。無言で示したのは、彼女の部屋の隣にしつられてある小さな風呂場。身体を洗うと言っているのだ。頷いて歩きだすフェリアは、ふと自分がこの何年も一緒いる女の名前すら知らないことに、突然気付いた。女は喋れないのではなく、喋ることを禁止さているのだ。
「……わたしと話すことを、ダーナに禁止されているの……?」
小さな声で尋ねる。女の歩調が止まった。フェリアを振り返った。その顔は無表情だ。うんともすんとも言わない。けれど、フェリアは引き下がらない。何としても彼女から答えが欲しかった。
「……ラバールとシャルを入れたのは、どうして……?」
反応はない。けれど、彼女はダーナに命令されてフェリアの世話をしているけれど、精神的にはダーナよりフェリアの方に近く、そしてラバール達とも何かしら繋がりがあるのではないのだろうか、と思う。
「……ダーナには、言わないわ。それでも、答えられない……?」
かすかに首をふる。肯定のしぐさ。フェリアは攻める手をかえた。居間の机に寄って、紙とペンを出す。
「喋るのが禁止されていても、紙に書いてはいけないってことまでは何も言われていないでしょう? あなたの名前、教えてくれる? 覚えたら、すぐに焼却するから」
暫く躊躇した後、女はうなずいてペンを取った。サラサラと何かの文字を書いていく。「ミ……ア? ミアと言うの?」
女――ミアは頷く。
「わたしは、フェリアよ。ラバールが付けてくれたの……」
フェリアは顔を輝かせて言った。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「……ねぇ、ミア。ラバール達は、また来てくれるかしら……?」
女は即座に頷いた。今度はハッキリと。
フェリアは嬉しいと思った。そして、どうしてもっと早くこの手を思いつかなかったのだと、悔やんだ。本当に、わたしは何も知らない……。彼の言う通りだ。肝心なことを何も知らなかった。
自分のこと。ダーナのこと。ミアのこと。そして……彼らのこと。
知るべきだ。と彼は言った。ならば。
ならば、彼はフェリアに真実を包み隠さず教えてくれるだろうか。ダーナのように必要ない、とは言わずに、彼女の知りたいことに全部答えてくれるだろうか。
「……会いたいわ。あの人に」
フェリアはぽつりと、つぶやいた。