聖女の逆鱗と、黄金の「魔パニック」
深夜、聖域のロッジは薪ストーブの微かな爆ぜる音だけが響く、静寂に包まれていた。
カイルは寝ずの番としてエリオットの背後に陣取り、ふくちゃんは梁の上から片目を薄く開けて監視を続けている。エリオットは屈辱に震えながらも、壁に背を預け、じっと時を待っていた。
「(……あの小娘め。私の『銀の饒舌』が通じないとはな。……ならば、力ずくで奪うまでだ)」
エリオットは、心の中で冷徹に魔法陣を構築し始めた。狙うのは、メグミではなく一角獣のスピカだ。
「……ッ、『強制転移』の理よ、我が命に従え!」
エリオットが急に立ち上がり、懐に隠し持っていた「禁忌の魔導書」を開いた。次の瞬間、ロッジの床に、不気味に脈動する漆黒の魔法陣が広がる。
「……なっ!? エリオット、貴様……!」
カイルが剣を抜き放つが、その時、魔法陣の最も近くにいたのはスピカ、そしてその首にしがみついていたハルだった。
「ひっ……! おねえちゃん、これ、なに!? 足が、動かないよぉ!」
ハルの小さな悲鳴が上がる。黒い魔力の触手が、スピカの足を絡め取り、隣にいたハルの小さな体までも容赦なく飲み込もうとしていた。エリオットは、子供が巻き添えになることなど一顧だにせず、冷酷に呪文を唱え続ける。
「ヒヒーンッ!」
スピカが悲鳴を上げ、メグミがその前に立ちはだかった。
「……やめてっ!! ハルから離れて!! スピカに触らないで!!」
メグミが叫んだ、その時だった。
彼女の体から、これまでの「温かな慈愛」とは真逆の、激しく、刺すような魔力が爆発した。
それは、日本で理不尽に耐え、感情を殺して生きてきた彼女が、生まれて初めて放った「剥き出しの怒り」だった。愛する家族を、理不尽な暴力で奪おうとする者への根源的な拒絶。この世界の強大な魔力が、彼女の激しい感情に呼応し、制御を離れて溢れ出したのだ。
ドォォォォォン!!
ロッジ全体が、メグミの放つ濃厚な魔力の圧力でミシリと軋んだ。ハルはそのあまりの衝撃と、見たこともないメグミの「怒り」の気配に、息を呑んで固まった。
エリオットは、その「重圧」に押しつぶされるかのように、その場に膝をついた。
「な……っ、なんなんだ、この力は……!? 聖女の魔力は清浄なはず……なのに、これではまるで……荒ぶる神の怒りではないか……ッ!!」
エリオットが驚愕に目を見開く中、その怒りの奔流を誰よりも近くで浴びた存在がいた。
「フシャッ……? フシャッ……ピイイイイイイイイイッッ!!!?」
梁の上にいたふくちゃんだ。
彼は、見たこともないメグミの激しい気配と、空気が震えるほどの魔力の嵐に、本能的な恐怖を覚えた。
「(メグミが……怒ってる、怖い! 怖い怖い怖い怖い!!!)」
ふくちゃんの小さな脳はパニックを起こし、瞬時に「おかめパニック」の臨界点を突破した。
「ピョイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッッッ!!!!!」
ふくちゃんは、黄金の羽をデタラメに羽ばたかせ、猛スピードでロッジ中を飛び回り始めた。
ただのパニックではない。彼の体からは、メグミの怒りに共鳴した黄金の脂粉が、火花を散らす「黄金の嵐」となって撒き散らされたのだ。
「ピョイイッ! ピョイピョイピョイピョイッ!!」
黄金の嵐は、エリオットが広げた漆黒の魔法陣を物理的にズタズタに切り裂き、ハルとスピカを縛り付けていた黒い鎖を粉砕した。同時にエリオットの視界をも奪っていく。
「ぐわっ!? 目が、目がぁぁぁ!! 黄金の脂粉が、魔力回路に逆流して……ッ!!」
エリオットは脂粉の嵐に直撃し、魔法は完全に霧散した。ハルは、脂粉の光の中に包まれながら、必死にスピカの陰に隠れて震えていた。
ふくちゃんは、自分でも何をしているのか分からないまま、ロッジの壁に何度も激突し、最後は目を回して、メグミの足元へフライングゲット(激突)した。
「……あ、ふくちゃん……?」
メグミは、足元で気絶したふくちゃんを見て、ハッと我に返った。
自分の怒りが、大切な家族をここまで怖がらせ、暴走させてしまった。メグミの魔力は、瞬時にいつもの温かな輝きへと戻った。
「(……私、どうしちゃったんだろう。……あんなに、自分がコントロールできなくなるなんて……)」
メグミは、震える手でふくちゃんを抱き上げ、ハルとスピカを庇うように抱きしめた。
聖女としての力の「底知れなさ」と、自分の中に眠っていた「怒り」の激しさに、メグミ自身が一番戸惑い、怯えていた。
「……ひどい有様だ」
カイルが、黄金の脂粉まみれで這いつくばるエリオットを見下ろす。
ロッジの中には、沈黙と、黄金の粒子だけが静かに舞っていた。




