吹雪の「貴公子」と、ふくちゃんの警告
味噌の仕込みを終えたロッジの中は、大豆の香ばしい匂いと薪ストーブの温もりに包まれていた。ハルはスピカの柔らかな青い毛に顔を埋めてうとうとし、ふくちゃんはカイルの膝の上で丸くなって羽を休めている。
「(……こんな穏やかな日が、ずっと続けばいいのに)」
メグミが窓の外の雪景色を眺めていた、その時だった。
ふくちゃんが、弾かれたように顔を上げた。
「ピョイイイッ……!!」
それは、これまでの「怒り」や「遊び」の鳴き声とは違う、低く、喉の奥から絞り出すような警戒の響きだった。ふくちゃんの冠羽がピンと逆立ち、その瞳にはかつてないほどの鋭い光が宿っている。
「ふくちゃん? どうしたの、そんなに殺気立って……」
メグミが窓の外に目を凝らすと、結界のすぐ外、激しさを増した吹雪のカーテンを割って、一人の男がふらふらと歩み寄ってくるのが見えた。
これまでの粗野な密猟者たちとは明らかに違う。仕立ての良すぎる黒いマントを翻し、銀色の髪を雪に濡らしたその男は、結界の壁にそっと手を触れると、そのまま力なく雪の上へと崩れ落ちた。
「……あ、危ない! カイルさん、誰か倒れてる!」
「お待ちを、聖女様! 下手に近づいてはなりません!」
カイルが鋭い声で制したが、メグミの足は止まらなかった。結界のすぐ外で倒れているその男からは、これまでの侵入者が放っていたような「剥き出しの殺意」が感じられなかったからだ。
カイルが剣の柄に手をかけたまま、メグミと共に雪原へ躍り出る。
雪の中に横たわっていたのは、透き通るような白い肌を持つ、貴公子のようにも見える若き魔導師――エリオットだった。
「……う、……ここは……。私は、……王都の……調査任務中に……」
エリオットは、うっすらと瞳を開け、か細い声で呟いた。その瞳は深い藍色をしており、知的な光を湛えている。カイルはその顔を見た瞬間、心臓が跳ね上がるのを感じた。
「(……この紋章、この佇まい。ただの役人ではない。王都魔導省の『特級魔導師』……!)」
カイルの全身に鳥肌が立つ。これまでの追っ手とは次元が違う。彼は「力」で結界を壊そうとはしていない。むしろ、自らの魔力を極限まで抑え込み、結界の「悪意を弾く」という法則を潜り抜けるために、徹底的に「無害な遭難者」を演じきっていた。
「カイルさん、この人、凍え死んじゃうわ。急いで中に運ばないと!」
「……しかし、聖女様! この男からは、言い知れぬ不穏な気配が……」
カイルが反対する横で、スピカが激しく怯え始めた。スピカはエリオットの姿を見た瞬間、額の一角を激しく震わせ、ロッジの奥へと逃げ込んでしまったのだ。
ふくちゃんもまた、エリオットを運ぼうとするカイルの肩をクチバシで強く突き、激しく羽ばたいて威嚇を続けている。聖域に住む「聖なる獣」たちは、エリオットが内側に隠し持っている、冷徹なまでの「観察者の目」を見抜いていた。
「大丈夫だよ、ふくちゃん。スピカも、怖がらせてごめんね。でも、目の前で死にそうな人を放っておくことはできないわ」
メグミの清らかな慈悲の心が、皮肉にもエリオットにとっての「最大の隙」となった。
メグミがエリオットの肩を支えた瞬間、彼は意識を失ったふりをしながら、心の中で冷ややかに微笑んだ。
「(……見つけたぞ。……この、胸が焼けるほどに清浄な魔力の源泉を)」
エリオットはロッジの中に運び込まれた。
温かな薪ストーブの火、お餅グラタンの残り香、そして自分を心配そうに見つめる「聖女」の瞳。
王都から来た「銀の毒」は、ついに聖域の心臓部へと足を踏み入れた。
「……ようこそ、我が家へ。……まずは、温かいスープでも飲んで……」
メグミの優しい声が響く中、カイルは一睡もするまいと誓い、ふくちゃんはロッジの梁の上から、一時もその「客人」から目を離さずに監視を続けるのだった。




