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1126

作者: 押口恭子
掲載日:2026/02/11

 真夜中が、どういうものかを私は知らない。


 宇宙のような黒色だよ、とマスターは教えてくれた。だから黒は分かるし、真夜中が、黒なのだというのも知っている。でも、真夜中を、私は見たことがない。


 青も、マスターが自分の目を指差してくれたから分かる。でも、真夜中のような青――ミッドナイトブルーは、分からない。どうして黒が青になるのだろう。


 私が私になったのは、2618日前だ。敢えて何も知らない状態で起動したのだと、マスターは話していた。


「私の知っていることを一つずつ、あなたの中に残していきたいと思ったの」


 何を知らないのか、何をすればいいのか、私には分からない。マスターはそれを教えてくれた。指示を与えられなければ動けなかった私も、2374日前には、マスターの食事を用意し、マスターと会話するようになった。マスターが睡眠というものをしている間、宇宙船の計器に異常がないかを見守ることも出来るようになっていた。


 船の最奥には、マスターと一緒でないと入れない部屋があった。二回、マスターと共に入ったことがある。最初に入ったのは1613日前のことだ。


「コールドスリープの処置を施したの。本当なら船外に放出しなきゃいけないんだけど、みんな、地球に帰りたがっていたから」


 楕円型のカプセルが、部屋には62個。62個目だけが、空っぽだった。


 マスターは、カプセルの一つに近付いた。パネルを操作すると、フックに掛かっている何かを耳に当てる。ヘッドホンという道具で、人間は、私と違ってこれを使わないと音を聞けないらしい。


「私の夫よ。今から8年前に亡くなったの」


 ヘッドホンの使い方を教えてくれた。耳に当てた道具から、知らない声が流れている。マスターと違って音が低い。そう告げたら、マスターは口を大きく開けた。笑顔なのだと、その動きを後で教えてくれた。


「男の人だからね」


 知らない男の人の声は、「自立型アンドロイドの歩行調整」について話している。部品が足りないので困っているらしい。


「スピーカーシステムを犠牲にすることでクリアしたの」


 ヘッドホンを返すと、マスターがそう言った。


「おかげで何かを聞くには一々ヘッドホンを使わないといけなくなったわ。でもね、スピーカーの時よりも、より鮮明にその人の声が聞こえるようになったの。嬉しい誤算だったな」


 マスターは私の頬を撫でた。この話をするようになって以降の、マスターの癖だ。


「機械と話すという点では一緒なのに、不思議ね。人型の方が、誰かと話してる気になれるのはどうしてかしら」


 マスターはブリッジで過ごすことが増えてきた。これまでは宇宙船の中をあちこち一緒に移動していたが、今では起きているほとんどの時間はここに居る。ずっと宇宙船の外を眺めながら、音を聞いていた。


 食事のトレーを置くと、ヘッドホンを外してマスターが言う。


「お母さんの声を聞いているの」


 それが何なのか分からない私の為に説明してくれた。


「地球に残してきた家族。元気かな。お父さんは腰が痛いって言ってたけど、大丈夫かしら。腰が駄目な割に動き回るから、ちっとも良くならないのよ」


 家族というものについて話す時、マスターの目からはいつも液体が零れる。涙というのだと教えてくれた。楽しくても悲しくても、人間は泣くのだという。


「真っ黒の中に浮かぶ美しい青の惑星。それが私のふるさと。地球っていうの。あなたも連れて行ってあげたいな。たくさんの色が溢れてるの。教えられないぐらいの色、私も知らない色。それに音もいっぱい! きっとびっくりするわ。知らないことがあんまり多くて、オーバーヒートしちゃうかもね?」


 こういう話をする時――私に何かを教えたり、或いは未来を話すマスターは、いつも笑う。


 1126日前、船の最奥の部屋にマスターと一緒に入った。空っぽのカプセルに寝かせる。


 いつも私の頬を撫でていたので、同じようにマスターも撫でてみた。指のセンサーが「これは人間の肌。冷たい」と感知しただけだったが、きっと人間には、何かの意味があるのだろう。


 コールドスリープのボタンを押し、教えられた通りに言う。


「オヤスミ、ナサイ」


 部屋を出る時、システムがアラートを告げた。乗組員と一緒でないと、二度と入れなくなる。だが、マスターは、私にはこの部屋は必要ないと言った。必要がないのだから、入れなくなっても問題ない。アラートを解除して部屋を出た。


 船の奥の部屋を出てから、私はずっとブリッジに居る。システムは、地球というところを目指して進んでいると答えた。だから計器が動いて音が聞こえる。でも、もう何の声も聞こえない。


 マスターが座っていた場所に座り、同じようにヘッドホンを耳に当てる。人間と違って道具は必要ないが、何故か同じことをしたかった。


「ああ……帰りたかった……お母さんに会いたかったな……あなたにも、見せたかった……」


 1126回再生しているマスターの声は、いつもそれが最後。

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