第9話 黄の狼煙と、副団長たちの終わり
前衛は、先へ。
ゴードン・ヴァルハルトは自ら新編の前衛を率い、街道の先頭を削るように進んでいた。
精鋭百。新兵五百。――そして、なおも減っていく数。
剣がぶつかる音は、もう遠くに感じない。
隊列が呼吸をするたび、どこかで誰かの命が削れていく。
そして本隊は。
ダンク副長が、冷静すぎるほど冷静に、中央の一一〇〇人を押し進めていた。
声は荒げない。表情も変えない。
だが命令は速い。判断は鋭い。迷いがない。
相沢純也は、その本隊の中ほどにいた。
ここは比較的安全。そう言われた場所。
だが相沢はもう知っている。安全は“用意されるもの”ではない。外側が命で作る壁だ。
そして。
ダンクは、相沢を一瞥する回数が多かった。
それは偶然じゃない。相沢にも分かる。
数刻前、ゴードンが本隊を離れる直前――ダンクの耳元に、短い指示を落としていった。
「いざとなったら、相沢を守れ」
それだけ。
命令の意味が重い。
守れと言われるほど、相沢は“守る価値がある”と判断されたということだ。
あるいは――守らなければならない理由があるということだ。
(……俺は、何なんだ)
答えは出ない。
ただ、足を止められない。
止まった瞬間、列は崩れ、崩れた列は喰われる。
リーナが相沢の隣を走っている。
彼女の呼吸は乱れていない。汗は流れているのに、動きに無駄がない。
剣は鞘に収めてあるのに、いつでも抜ける角度で腰に固定されている。
「純也様」
短い声。
「……大丈夫ですか」
「……大丈夫、たぶん」
本当は大丈夫じゃない。
足は鉛みたいに重い。肺が焼ける。喉の奥が裂けそうだ。
でも「大丈夫じゃない」と言える空気じゃない。
《解析》が、容赦なく現実を投げてくる。
――疲労。
――脱水。
――隊列外縁、損耗増。
――後衛、荷車遅延。
――魔物接触、散発。
数字や文字ではないのに、感覚として分かる。
このまま続けば、いずれ“崩れる”。
けれど。
ゴードンが前に出て、精鋭が刃を振るうようになってから、戦線は少しだけ安定した。
前衛が「押される」回数が減った。
魔物が群れて突っ込んできても、前が潰れない。
隊列が保たれる。隊列が保たれれば、中央は走れる。
「……効いてる」
相沢が呟くと、リーナが短く頷く。
「団長が指揮をすれば安定します」
「前衛が崩れない限り、進み続けます」
言い方は淡々としているが、ゴードンへの信頼が伝わってくる。
そして――目的地が近い。
前線拠点と王都の間にある補給拠点。
そこに着けば、水がある。矢がある。包帯がある。
たとえ“十分”じゃなくても、“ゼロ”ではなくなる。
ダンクが前方を見て、指示を飛ばした。
「間もなく補給拠点だ」
「隊列を保て。崩すな」
その瞬間だった。
伝令が、転ぶように駆け込んできた。
鎧は割れ、肩口から血が垂れ、片目が腫れている。
それでも走ってきた。走る以外に生きる道がなかった顔だ。
「――ダンク副長ッ!」
叫びが、空気を裂く。
「左翼! 左翼が――!」
ダンクは視線を動かさない。
立ち止まらない。
走りながら、声だけで返す。
「報告しろ」
伝令の喉が震えた。
「魔物の大群! 突然、森から……数が……数が違う!」
「ドリー副団長が、伝令を先に出せと……!」
「援軍不要! 時間を稼ぐから本隊は急げと!」
空気が凍る。
援軍不要。
それは誇りある言葉じゃない。決死の宣言だ。
助けを求めれば助けが来ないと分かっている者が吐く、最後の命令。
相沢の背筋に冷たいものが走る。
(左翼が……)
数秒遅れて、今度は反対側から伝令が来た。
こちらも血まみれだ。息が切れている。喋れば倒れそうな顔で、叫ぶ。
「右翼! 右翼に襲撃です!」
「ザンジ副団長から、援軍不要! 時間を稼ぐと……!」
「補給拠点まで走れと!」
左右、同時。
偶然じゃない。
これは狙われている。
一番疲労が溜まり、“あと一歩”というところでの奇襲。
魔物だとどこか軽く見ていたが、まさかここまで戦略を立てて攻撃してくるとは。
中央を守る翼を、まとめて切り落とすための。
ダンクが一瞬だけ目を閉じた。
悩んだのは、ほんの瞬間。
次の瞬間、瞼が開き、声が鋼になる。
「後衛に伝令!」
叫びが走る。
「物資は全て破棄! 武器以外の物資を捨てろ!」
「全速力で補給拠点まで駆けろ!」
後ろの方で、誰かが悲鳴を上げた。
食糧を捨てる。水を捨てる。矢を捨てる。
命を繋いできたものを、自分の手で捨てる。
でも、止まれば全てが奪われる。
なら捨てて走るしかない。
「本隊も全速力で前衛と合流!」
ダンクの命令は続く。
「合流したら前方の敵のみに集中!」
「左右を見るな! 速度を上げろ!」
左右を見るな。
それは、“左右は終わった”と言っているのと同じだ。
新兵たちが崩れかける。
「う、うそだろ……」
「まだ……まだ補給拠点が……!」
「やだ……死にたくない……!」
誰かが泣きながら走り出した。
誰かが糞尿を垂らした。
叫びながら駆ける者もいた。祈りながら走る者もいた。
相沢も、走る。
残り少ない体力を、全部足に注ぎ込む。
肺が裂ける。胃が浮く。視界が揺れる。
リーナが相沢の半歩前を走る。
彼女は振り返らない。
でも相沢の呼吸が乱れるたび、わずかに速度を落として合わせる。
「純也様、足を止めないで」
「今は……走るだけです」
短い言葉が、命綱みたいに胸に刺さる。
そして。
ダンクは走りながら、崩れた隊を叱り飛ばすのではなく、組み直していく。
声で、腕で、視線で。
散った者を拾い、列に戻し、遅れた者を引き上げる。
その動きが、まるで――戦場の中で隊列だけを生き物みたいに動かしているようだった。
相沢は《解析》で分かる。
ダンクは相沢を気にしている。
何度も。必要以上に。
――いざという時守れ、と命じられているから。
(そんな価値、俺にあるのかよ)
自嘲が出そうになる。
でも、今は走るしかない。
その時。
左右の空に、黄色い発煙が立った。
一本じゃない。
二本だ。
左から。
右から。
同時に。
空へ、ゆっくりと、しかし確実に上がっていく黄の煙。
相沢の足が一瞬だけ止まりかけた。
喉が詰まる。
「……あれは……?」
リーナが歯を食いしばったまま、言う。
「……副団長の狼煙です」
「副団長以上は心臓が止まると、上がるように魔法がかけられています」
それはつまり。
ドリー副団長が死んだ。
ザンジ副団長も死んだ。
副団長はみな歴戦の猛者である。その二人が死んだ。
翼が、両方とも落ちた。
この事実に本隊の団員は動揺を隠せない。
ダンクが叫ぶ。
「見るな! 走れ!」
「右翼左翼は役目を果たした! 我々が今見るべきは前だ! あいつらの死を無駄にするな!」
怒鳴り声に、震えが混じっていた。
ダンクは冷静だ。冷静でいられる男だ。
それでも、震えが混ざるほどの“終わり”が、今起きた。
――左翼襲撃時
ドリー副団長は、最初の咆哮を聞いた瞬間に理解した。
森が鳴ったのだ。
風じゃない。獣の鳴き声でもない。
“数”が動く音。
「……来るぞ」
左翼部隊は進軍を止め、街道の脇へ展開していた。
隊列を守る翼。中央を守る盾。
それが左翼の役目。
森の影が、揺れた。
次の瞬間、黒い塊がなだれ込んできた。
犬型の六脚。
猪のような巨体。
蜘蛛のような魔物――脚が長く、糸を吐く。
それらが、混ざっている。
混ざったまま、同じ方向に走ってくる。
数が違う。
普通の群れじゃない。
前線を抜けてきた程度の数じゃない。
明らかに準備されていた数だ。
ドリーは剣を抜いた。
抜いた瞬間、刃が光った。派手な魔力の光じゃない。
磨き抜かれた鉄が、森の薄暗さを切り裂いただけの光。
「伝令を出せ」
声は低い。静かだ。
「本隊へ――援軍不要。時間を稼ぐ。補給拠点まで走れと」
「副団長! 援軍を――」
「いらん」
ドリーの言い方は、冷たかった。
でも違う。冷たいんじゃない。現実を知っているだけだ。
「援軍を呼べば、中央が止まる」
「中央が止まれば、全滅だ」
「なら俺たちは――ここで死ぬ」
誰も反論しなかった。
反論できないからじゃない。
ドリーが、何度も前線に行き、生き残ってきた猛者だからだ。
生き残ってきた者の言葉は、現実そのものになる。
「盾列!」
左翼の騎士たちが盾を構える。
「槍列!」
槍が並ぶ。
「後衛、矢と魔法を撃て! 出し惜しみするな! すべて出し尽くせ!」
魔物が来る。
盾にぶつかる衝撃が、骨に響く。
盾が軋み、腕が痺れる。
槍が突き刺さり、黒い血が飛ぶ。
魔法の雨が魔物を襲う。
でも止まらない。止まれない。
後ろから後ろへ、次から次へ。
「――押されるな!」
「踏ん張れ!」
「左に回り込みだ!」
蜘蛛の魔物が糸を吐いた。
足に絡みつき、盾を引き倒す。
倒れた瞬間、犬型が喉へ噛みつく。
悲鳴が上がる。
悲鳴は短い。すぐに喉が裂けるから。
「逃げるな! とどまれ! 一体でも多くの魔物を道連れにしろ!」
ドリーが前へ出た。
副団長が前へ出るのは、最悪の合図だ。
前が持たないという意味だから。
だが、出なければ崩れる。
ドリーの剣が魔物を斬る。
ドリーのスキルは≪魔法剣・切≫。
剣に魔力を込めて切れ味を最大限上げるスキルだ。
斬った瞬間、蜘蛛の顎が迫る。
剣を返し、顎を割る。
血が飛ぶ。糸が跳ねる。
ドリーは一歩も退かない。
「――まだだ!」
声が低く響く。
「本隊は走っている!」
「俺たちが止まれば、後ろが死ぬ!」
「なら、ここで止めろ!」
騎士たちは泣きながら笑った。
覚悟を決めた顔は、怖いくらい静かになる。
恐怖が消えたわけじゃない。恐怖の先へ行っただけだ。
魔物の波が、盾列を割った。
割れた隙間から、黒い塊が雪崩れ込む。
槍が折れる。盾が落ちる。
人が倒れる。倒れた瞬間、上に魔物が重なる。
潰される。噛まれる。引き裂かれる。
ドリーは振り向かない。
振り向けば、心が折れると知っているからだ。
最後の伝令が走り去る背中を見て、ドリーは短く息を吐いた。
―ドリーの魔力は尽きた―
「……行け」
それは命令じゃない。祈りだった。
ドリーは剣を握り直し、叫んだ。
「一体でも多く道連れに!」
そして。
魔物の波が、ドリーを飲み込んだ。
剣が振られる。
刃が肉を裂く。
だが数が違う。
叩き斬っても、叩き斬っても、終わらない。
犬型が足に噛みつく。
猪型が盾ごと押し潰す。
蜘蛛の糸が腕を縛る。
ドリーは最後の力で魔物を斬り伏せ、もう一体の魔物に食い殺される。
黄の煙が、空へ上がる。
その瞬間、ドリーの視界が白くなる。
痛みが遠のく。
耳に届くのは、魔物の咆哮ではなく――遠くで走る味方の足音の幻。
(……走れ)
それだけを思いながら、ドリーの心臓は止まった。
――右翼。
ザンジ副団長も、同じように理解した。
同時襲撃。
左翼だけじゃない。右翼も。
中央を喰うために、両翼を落としに来ている。
「伝令!」
ザンジは叫んだ。
「援軍不要だ! 時間を稼ぐ! 本隊を走らせろ!」
伝令は泣きそうな顔で頷き、走った。
走りながら何度も転び、土だらけになり、それでも走った。
ザンジは右翼の兵を見回す。
ここにいるのは、何度も前線に行って帰ってきた者と、今回初めて街道で血を見た者が混ざっている。
混ざっているからこそ、崩れるのは早い。
ザンジは声を落とした。
「いいか、怖くていい」
その一言に、兵が息を呑む。
「怖いのは当然だ。怖くない奴は、死ぬ」
「だが――逃げるな」
「逃げれば、騎士団は全員死ぬ」
魔物が来た。
右翼にも、同じように“数”が来た。
森が吐き出す黒い波。
ザンジの剣が走る。
斬る。突く。払う。
動きが大きいわけじゃない。
だが一撃が重い。踏み込みが深い。
経験が刃になっている。
盾列が耐える。
槍列が刺す。
弓が撃つ。
それでも押される。
押される理由は単純だ。
魔物が減る速度より、流れ込む速度が上だからだ。
「――下がるな!」
「支えろ!」
「右の森に回り込みがいるぞ!」
犬型が回り込み、後ろから噛みついてくる。
蜘蛛が糸で足を絡める。
猪型が突っ込み、盾列が崩れる。
ザンジは歯を食いしばった。
(時間を稼げ)
それしかない。
一秒でも長く時間を稼ぐ。
その間に本隊が補給拠点へ届けば、道は繋がる。
届かなければ、ここで稼いだ時間は無意味になる。
ザンジは一人の新兵を掴んだ。
ザンジのスキルは≪筋力強化・常≫。
ザンジは最前線で戦い続ける。
「逃げるな!」
新兵は震えていた。
「ここに立て!」
「立って、盾を上げろ!」
「お前が折れたら、後ろが喰われる!」
新兵は涙を流しながら盾を上げた。
その盾に、魔物がぶつかる。
衝撃で新兵が倒れそうになる。
ザンジが肩を入れて支えた。
「そうだ」
「それでいい」
褒める声が、戦場では命令になる。
だが、もう限界が来る。
右翼の列が、じわじわと裂ける。
裂けた場所から、黒い波が侵入してくる。
侵入した瞬間、後ろが喰われる。
これを上げるということは、終わりだ。
終わりを、本隊に知らせるということだ。
ザンジは最後に一度だけ、空を見上げた。
空は青い。
戦争とは無関係みたいに青い。
「……いい空だな」
誰にも聞こえない独り言。
そしてザンジは、吼えた。
「最後までだ!」
「最後まで立て!」
「本隊を生かせ!」
魔物の波が、右翼を飲み込む。
ザンジは剣を振るい続けた。
斬って、斬って、斬って。
それでも来る。
来る。来る。来る。
背中に衝撃。
足に痛み。
視界が揺れる。
ザンジは地に倒れる。
黄の煙が、空へ上がる。
それが最後の合図。
――右翼は終わった。前だけを見ろ。
ザンジの心臓は、黄の煙と同じ速度で静かに止まった。
左右の黄が、空に残る。
ダンクは歯を食いしばり、声を張った。
「走れえええええッ!!」
新兵たちが泣き叫びながら走る。
相沢も走る。
足がもげそうだ。肺が焼けそうだ。
それでも走る。
《解析》が囁く。
――止まるな。
――今止まれば、追いつかれる。
――追いつかれれば、喰われる。
相沢は喉の奥に血の味を感じながら、ただ前だけを見る。
守られている。
守られているから生きている。
その事実が、胸を刺す。
そしてリーナが、相沢の横で言った。
「純也様」
「……今は生き残ることだけを考えてください」
その声は、命令でも励ましでもなく、ただの願いだった。
黄の煙が背後で薄れていく。
副団長たちの最後が、空に溶けていく。
そして騎士団は、補給拠点へ向かって――崩れそうな隊列を必死に繋ぎながら、全速で駆けた。
「純也様! 前衛が見えます!」
相沢は霞む視界の中に、戦う集団を視認した。
そして《解析》が警告を促す。
――前方魔物多数
補給拠点に到達するための最後の関門が立ちはだかる。




