第13話 相沢とリーナ
第13話 相沢とリーナ
「――四時間だ」
補給拠点の内壁、血と泥の匂いがまだ抜けきらない通路で、ゴードンは短く言い切った。
「ゴードン騎士団は四時間休め。食え。水を飲め。傷を縛れ。眠れるなら寝ろ」
「外の群れは守兵が受ける。……その間だけはな」
言い方は冷たい。だが、冷たいからこそ嘘がない。
四時間――それは「回復の時間」ではなく、「次に動くための最低限」だ。
六百。
門をくぐれたのは、それだけ。
隊のあちこちで鎧が落ちる音がした。
地面に崩れる音がした。
息を吐いた瞬間に泣き出す者もいた。笑い出す者もいた。吐く者もいた。
全員が同じ顔をしている。疲労と恐怖と、そして――生き残ったことへの罪悪感だ。
相沢純也は、兵の列の隙間を縫って歩きながら、胸の奥がずっと重かった。
歩いているのに足の感覚が遠い。耳に入る音が薄い。
外壁の向こうから聞こえる咆哮だけが、妙に鮮明だった。
そんな相沢の袖を、リーナが引いた。
「純也様。こちらです」
「……どこへ?」
「休憩用の部屋を手配していただきました。私が騎士団唯一の女性なので、個室が優先されるそうです」
淡々と言う。けれど、言葉の端が少しだけ柔らかい。
相沢は頷き、彼女の後についていった。
拠点の内部は、即席の病院と兵舎が混ざったような状態だった。
廊下には担架。壁際には包帯。床には血を拭うための桶。
治癒兵が行き交い、守兵が矢束を運び、どこかで誰かが怒鳴っている。
――生き残っているのに、安心できない。
通された部屋は、石造りの簡素な個室だった。
窓は小さい。外は見えない。代わりに壁が厚い。
粗末な寝台が二つと、小さな水差しと、椅子が一脚。扉には閂。
「相沢様も、ここで休んでください。……私一人では余りますから」
リーナはそう言って視線を逸らした。
こういう時だけ、彼女はほんの少しだけ人間らしい。
「いいのか……?」
「はい。純也様が……今は一人で眠れる状態ではありません」
言い切られて、相沢は反論できなかった。
確かに、頭の中がぐちゃぐちゃだった。静かな場所に来た瞬間、それが露骨に浮き上がる気がした。
扉が閉まる。
閂が降りる。
その瞬間――相沢の中で張り詰めていたものが、音もなく切れた。
「……っ」
喉が鳴った。声にならない。
膝が折れそうになる。
息を吸っても吸っても足りない。胸が痛い。
安全だった。
ちょっと前まで、試験がめんどくさいだの、親がうるさいだの、お小遣いが少ないだの――そんなことに不満を抱いていた。
でも日本は、安全で、娯楽もあって、おいしい食事が山ほどあった。
転移してからも、数日前までは、少なくとも「守られた場所」にいた。
訓練場で剣を振り、兵舎で甘味を分け、夜になれば寝台に倒れ込んで終わりだった。
怖いこともあった。違和感もあった。焦燥もあった。
でも――まだ、日常だった。
そして心のどこかで、よく読んでいたライトノベルみたいに、ざまぁしたりチートでイキり散らかす未来があると思っていた。
なのに現実は甘くなかった。
「なんで……」
口から漏れたのは、情けない声だった。
「なんで、俺が……」
目の前に浮かぶのは、死体。裂けた腹。潰れた顔。
黄色い狼煙。副団長たちの終わり。
門の前で引きずり込まれた腕。噛みつかれて消えた叫び。
「帰りたい……」
言った瞬間、自分が子どもみたいで惨めだった。
けれど、止まらなかった。
「帰りたい……! 帰りたい……! こんなの……こんなの、おかしいだろ!」
「俺、ただ……普通に……」
声が掠れる。涙が勝手に落ちる。
叫んでも、誰も助けに来ない。助けに来る余裕がない。
相沢はその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
指の間から熱いものが溢れて、掌が濡れる。
「怖い……もう、無理だ……」
その頭に、そっと手が置かれた。
リーナだった。
彼女は何も言わずに、相沢の髪を撫でる。
ゆっくり、一定のリズムで、子どもを宥めるみたいに。
戦場の冷たい刃を握っていた手が、今はひどく優しい。
「……純也様」
声も柔らかい。
「泣いてください」
「ここでは……泣いても、誰も責めません」
相沢の胸に、その言葉がすっと入ってきた。
「俺……俺、守られてただけで……」
「騎士団の人たちが……死んで……俺は……」
喉が詰まって言葉が途切れる。
リーナは頷き、指先で相沢の額の汗を拭った。
そして静かに言う。
「純也様は、生きてください」
「生きて、次も生きて」
「その先で、守ってくれた人たちのことを……忘れないでください」
それは慰めというより、祈りに近かった。
相沢は顔を上げた。
涙で視界が滲む中で、リーナの美しく整った横顔が見えた。
疲れているはずなのに、彼女の背筋は折れていない。
なのに今は、相沢の前でだけ、少しだけ柔らかい。
(……この人がいたから、生き残れた)
その事実が胸の奥を温めた。
そして、別の感情も芽を出した。
頼りたい。傍にいてほしい。離れたくない。
相沢の中で、好意がゆっくり形になる。
一方でリーナは、相沢を見つめながら、心の奥が微かに締まるのを感じていた。
(この方は……弱い)
悪い意味ではない。
戦場に慣れていない。恐怖に正直で、痛みに正直で、絶望に飲まれそうになる。
だからこそ――放っておけない。
(かわいい……)
言葉にすれば不謹慎で、従者として不適切で。
でも、胸の奥に生まれた感覚は否定できない。
(誰にも渡したくない)
その小さな独占欲を、リーナは自分の中で押し込めた。
けれど、決意だけは固まった。
(私が守る)
(純也様は――私が守り切る)
相沢は泣き疲れて、やがて寝台に倒れ込んだ。
呼吸が落ち着き、まぶたが閉じる。
眠りに落ちる瞬間だけ、子どものように無防備だった。
リーナは毛布を掛け、相沢の手から剣をそっと外して壁際に立てかける。
そして寝台の横に椅子を寄せ、静かに座った。
外から、遠い咆哮が響く。
拠点はまだ、戦場の中にある。
それでも今だけは、この部屋の中だけは。
リーナは相沢の眠りを守るように、目を閉じなかった。
⸻
同じ頃。
補給拠点の外壁では、守兵たちが必死に防衛線を維持していた。
ライヤ司令官の指揮は明快だった。
敵は波のように寄せる。ならば、波を砕く道具を使い切る。
「バリスタ、次弾! 狙いは密集部!」
「魔法砲台、角度を下げろ! 壁際を焼くな、前を焼け!」
「簡易障壁、展開! 門前の圧を逃がすな!」
重い弦が鳴り、巨大な矢が夜空を裂く。
火球が飛び、魔物の群れが焦げる匂いが風に混ざる。
半透明の膜――簡易魔法障壁が淡く光り、門へ殺到する爪と牙を弾く。
ゴードンもまた指揮を手伝っていた。
休憩を出したとはいえ、彼自身が休むわけがない。
この拠点が落ちれば、全てが終わると分かっているからだ。
(数だけは……前線並みだ)
ゴードンは壁上から群れを見下ろした。
魔物にはランクがある。FからSまで。
ここまで出てきたのは、F~せいぜいD。弱い個体ばかりだ。
それが逆に不気味だった。
(この数で、この質……)
(“強い個体”はどこだ)
最前線なら、群れの中に必ず混ざる。
C、B、時にA。
指揮を取る存在がいるなら、なおさらだ。
なのに、いない。
波は絶えないのに、刃が薄い。
それはつまり――
(まだ、出していない)
ゴードンの背筋に冷たいものが走る。
ライヤが横で低く言った。
「ゴラン騎士団が到着するまで、十二時間ほど……だな」
「……十二時間」
守れるかどうか。
その問いが喉まで出かけて、飲み込む。
守るしかない。
守る以外の選択肢がない。
その時、前線の守兵が叫んだ。
「――来るぞ! 変なのが混ざってる!」
群れの影が、わずかに割れる。
そして、そこから――今までとは違う“圧”が滲み出た。
空気が変わる。
咆哮の質が変わる。
近くの低ランク魔物が、まるで怯えるように道を開ける。
ゴードンは目を細めた。
(……Bランク級)
ようやく出てきた。
遅すぎる登場が、嫌な予感を確信に変える。
拠点の壁上で、誰かが唾を飲む音がした。
黒い影が、ゆっくりと前へ出る。
――ここからが、本番だ。




