第5話:静寂の時計塔と真夜中のサンドイッチ
店内に漂う焦げ臭い匂いが、つい先ほどまでの戦闘の余韻を物語っていた。
影食い(シャドウ・イーター)の残骸が黒い霧となって消滅していくのを見届け、アレンはふぅと息を吐きながら『衝撃変換レンチ』を腰のベルトに戻した。
「……助かった、わ」
へたり込んだままのセシルが、震える声で礼を口にする。
猫耳が力なく垂れ下がり、白い肌は恐怖で青ざめていた。
だが、アレンは安易な慰めの言葉をかけることはしなかった。
ここで甘やかしては、彼女が置かれている『致命的な状況』を理解させられないからだ。
「礼を言うのはまだ早いぞ、元聖女様。ここにはもう居られない。ついて来い」
「え? ちょ、ちょっと! 私、足が……!」
腰が抜けて立てないセシルを見て、アレンは溜息交じりに彼女を横抱きにした。
軽すぎる体躯。
かつては高貴な法衣に包まれ、騎士の自分が触れることすら許されなかった存在が、今はバスタオル一枚で腕の中に収まっている。
その事実に奇妙な高揚感を覚えつつ、アレンは店の裏口から夜の街へと踏み出した。
目指したのは、店のすぐ裏手にそびえ立つ『静寂の時計塔』だ。
かつては王都の時を告げていたが、今は廃墟となり、誰も寄り付かない場所である。
「な、何処へ連れて行くつもりなのよ……!」
「いいから黙って見てろ」
アレンは文句を言うセシルを抱えたまま、崩れかけた螺旋階段を軽々と駆け上がる。
頂上の展望台に辿り着くと、眼下には眠らない街、王都の全景が広がっていた。
王城を中心とした上層区は魔法灯の光で煌びやかに輝いている。
だが、アレンたちが暮らす下層区や貧民街は深い闇に沈んでいた。
「綺麗……」
思わず呟くセシルに、アレンは冷ややかな声で告げる。
「ただの夜景じゃない。目を凝らして、あの『黒い靄』を見てみろ」
アレンが指差したのは、光と闇の境界線、路地裏の至る所に澱む不気味な揺らぎだった。
セシルがチョーカーを通じてアレンの魔力を得ている今なら、それが見えるはずだ。
「あれは……何? まるで、さっきの魔物と同じ気配が……」
「正解だ。あれは『呪いの瘴気』。
王都の繁栄の影で垂れ流された汚泥だよ。
そしてお前の身体にある呪いは、あの瘴気を極上の餌として呼び寄せるビーコンになっている」
セシルが息を呑む。
アレンはさらに言葉を重ねた。
「さっきの影食いはほんの序の口だ。お前がこの街にいる限り、世界中の闇がお前を喰らおうと集まってくる。俺の側を離れれば、お前は一晩も持たずに骨までしゃぶり尽くされるだろうな」
世界の広さと、そこに潜む悪意の深さ。
それを突きつけられ、セシルの身体が小刻みに震えだした。
聖女として崇められていた頃には決して見えなかった、世界の裏側だ。
「そんな……私、どうすれば……」
絶望に染まる金色の瞳。
アレンは満足げに口角を上げると、ポケットから包みを取り出した。
「だから、俺が飼ってやるって言ってるだろ。ほら、食え」
差し出されたのは、店を出る時にとっさに掴んできた『厚切りハムのサンドイッチ』だ。
全粒粉のパンに、蜂蜜とマスタードを塗った厚切りのローストハム、そして新鮮なレタスが挟まっている。
「……え?」
「腹が減ってちゃ、恐怖にも勝てないぞ。特製のハニーマスタードソースだ。絶品だぞ」
セシルはおずおずとサンドイッチを受け取ると、小さな口で一口齧り付いた。
その瞬間、彼女の猫耳がピクリと反応し、瞳が見開かれる。
「……っ! おいしい……!」
ジューシーなハムの塩気と蜂蜜の甘み、マスタードの酸味が絶妙なバランスで口の中に広がる。
恐怖で冷え切っていた身体に、食事がもたらす熱が染み渡っていく。
「ふん、現金な猫だ。もっと味わって食えよ」
「う、うるさいわね! ……でも、ありがとう」
夜風に吹かれながら、サンドイッチを頬張る元聖女。
その姿を見下ろしながら、アレンは確信した。
この広大で危険な世界において、彼女の居場所は自分の腕の中と、美味しい食事の前だけなのだと。
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【場所】
- 静寂の時計塔: アレンの店の裏手にある廃墟。螺旋階段を登った先にある展望台からは王都の下層区を一望でき、魔力の流れや瘴気の溜まり場を観測するのに適している。
【アイテム・用語】
- 厚切りハムのサンドイッチ: アレンが夜食用に作っていた軽食。全粒粉のパンに厚切りのローストハムを挟み、特製のハニーマスタードソースで味付けしたもの。
- 呪いの瘴気: 王都の光の当たらない場所に溜まる魔力の澱み。セシルの呪いに引き寄せられる性質を持ち、魔物発生の温床となる。




