欠けた心、欠けた月
冷たい風が吹き抜ける冬の路地裏。男はうずくまり、自分の腹から溢れる赤い液体をぼんやりと眺めていた。
腹を刺された。それは、ほんの一瞬の出来事だった。痛みは、あるようでない。代わりに胸の奥に、重い虚しさが広がっていく。
「刺されたか……」
そう呟いた男の声には、驚きも恐れもなかった。むしろ当然の報いだと感じていた。乱暴な言葉、自分勝手な行動、いつも周りを振り回し、迷惑をかけてきた。人を傷つけることには無頓着だったし、それで誰かが去っていくことにも何も感じなかった。ただ、一人になったことに耐えられず、また新しい誰かに近づいては同じことを繰り返す。それだけだった。
流れる血を見つめながら、ふと男の記憶に過去の断片がフラッシュバックする。優しい声で忠告してくれた友人の顔。小さな頃に母が見せた笑顔。それらはいつも、ただ心の表面をかすめるだけで、奥底には届かなかった。思いやりを持とうと努力した日々もあったが、空回りするばかりで、心にぽっかりと開いた穴を埋めることはできなかった。
「俺は、変われなかったんだな……」
気づけば、空を見上げていた。そこには満月でも三日月でもない、歪な形の月が浮かんでいた。奇妙な形だが、不思議と美しく。どこかで見たことがあるような気がした。その瞬間、男の心に一つの思いが湧き上がった。
「これは、俺だ……」
欠けた月。不完全で、どこか寂しげで、それでも輝きを放つ月。それは、永遠に他人を理解できないまま、自分勝手に生きてきた自分自身のように思えた。
「きれいだ……」
そう口にしようとして、男は言葉を飲み込んだ。代わりに浮かんできたのは別の言葉。
「あなたについて、もっと知りたい……」
自分でもその言葉がどこから来たのかわからなかった。ただ、それは誰かに向けたものではなかった。知らないまま生きてきたもの、理解しないまま遠ざけてきたものに向けての、心の奥底からの叫びだった。
だが、その叫びを抱えたまま、男の意識は次第に遠のいていく。冷たい風の音が耳元で響き、体から力が抜けていく。歪んだ月は、何も言わずにただ静かに輝いていた。
「俺も……せめて、このまま静かに……」
最後にそう呟いた男は、月が見守る夜空の中へ溶けていくような感覚を覚えた。月と一体になるような、自然そのものに還っていくような感覚。長く苦しみ続けた心が、ようやく静寂の中で解放されていく。
欠けた月はその後も、何も変わらずに夜空に浮かび続けていた。その歪な形のままで。それでもその光は、冬の路地裏を静かに照らしていた。