地黄八幡
「勝った、勝った。」
と声を上げて、先陣を駆ける武者の名前は北条綱成という。綱成は北条氏綱の娘婿。彼の後には、黄地に八幡の黒文字が描かれた旗を持って、後を追う旗持ちの姿があった。
「勝った、勝った。」
というが、まだ戦は始まったばかり。
「(死んだ、死んだ。)」
旗持ちの足軽は、心の中でそう叫びながら走る。綱成の勢いに飲まれたのか、相手は逃げて行った。
「勝った!」
「(死んだ。)」
旗持ちの名は五郎と言った。
「矢玉の方が、俺を避けて行く。」
綱成はそう言っていた。
「それ故、俺は先陣を駆けても死なぬ。」
明日の戦いにおいても、綱成は先陣を駆けて行くつもりだった。
「殿様が死なぬのは、俺が逆呪を掛けているからだ。」
五郎は綱成に言った。
「俺は心中、死んだ、死んだと言葉を紡いでいる。」
願いと逆の言葉を紡ぐと、逆の結果が訪れるという。
「それならば、どちらにしろ変わらぬなあ。」
勝ったと言おうが、死んだと言おうが変わらない。
この世の全てには魂が宿っている。それは、有機物、無機物に限らず、具象存在ではなくても、人の発する言葉や物語といった抽象存在にも魂は宿っている。そして、その魂同士がお互いに影響し合い、結果となる。五郎はそう信じていた。
「何か、よくない魂に当たったか?」
そんな五郎は、今でいう厄除け、医術の類にも詳しかった。
「三日、塩を体にこすりつけろ。」
戦場で、体調不良者などが出ると、そういって出張して行った。
「後は俺が、払ってやる。」
夜、五郎は誰もいない場所で呪を唱える。その呪が、魂となり、魂が天地人に影響する。
「勝った、勝った!」
「(死んだ、死んだ。)」
綱成に取って、戦はスポーツであった。彼は政治と戦争を別の物として捉えていた。
「勝った!」
「(死んだ。)」
相手は逃亡して、合戦は終わった。
「魂は全てに宿っている。」
五郎は綱成に言った。
「言葉にもか?」
「そうだ。」
「酒にもか?」
「そうだ。酒を飲むと酒の魂が殿様の魂に悪さをして、体を壊す。」
「馬鹿な。それでは、酒も飲めんな。」
「良い酒は殿様の魂を安らかにする。」
そう言って五郎は酒を飲んだ。
「お前が持っている旗はどうだ?」
綱成も酒を飲んだ。
八幡神は武家の守護神である。五郎に言わせると、それには、尚武の魂が籠もっているという。
「公方が俺を呪詛しただと?」
ある日、北条家と争っている関東管領上杉憲政が、寺僧に頼んで綱成のことを呪詛したという噂が立った。
「何か分かるのか?」
五郎がやって来て綱成を見た。
「ふむ…。」
五郎は呪詛にはふたつの種類があるという。神仏に願いその神仏の呪力で呪詛する方法と、妖術師が自らの持つ不可思議な力で相手を呪詛する方法だという。
「どちらも、まやかしだ。」
五郎に言わせると、そもそも神仏とは魂のことであり、妖術師の力というのも魂のことでしかない。
「ようは、良い魂に触れればいいだけだ。」
そうすれば、魂が影響し合って、呪詛そのものはなくなるという。
「呪詛ももとは魂でしかない。」
五郎に取ってはこの世の事物事象さらには、この世のものではない過去や未来のもの全て魂でしかなかった。
「いつもどおりにしていればよいのだ。」
「そうか。」
五郎の言葉で、何となく綱成は安心した。
「勝った!勝った!」
「(死んだ。死んだ。)」
綱成が戦場を駆けて、五郎は地黄八幡の旗を持って、後を追う。それはいつもと変わらない光景であった。
「撃て…!!」
ドーン!!
雷のような轟音と伴に、兵たちが倒れていく。
「時坂!」
北条家の鉄砲足軽頭に時坂玄蕃丞という者がいた。今、その時坂を綱成が呼んだ。
「まだか!?」
「撃て…!!」
ドーン!!
まだ戦の最中である。
「もう良うござる。」
「勝った!勝った!」
そう言うと、綱成は、相手の兵の群れの中に飛び込んで行った。その後ろには、五郎もいた。
「呪詛などを信じておるのか。」
戦が終わったあと、時坂は綱成に言った。
「呪詛など用いなくとも、種子島に玉を込めて撃てば、人は死ぬ。」
時坂は種子島の筒掃除をしながら言った。時坂は技術者であったから、信じるのは自分の智恵と腕だけである。
「目に見えない物は信じていない。」
目当てに合わせて、撃鉄を引けば、玉が出る。その玉に当たれば、人は怪我をする。
「それだけのことにござる。」
時坂の言い分はこうである。
「玉を手から離せば、地面に落ちる。」
これは、単純なことである。
「世の中の物事はそのような簡単なことがいくつもいくつも限りなく、繋がっているだけにござる。」
未来のことを考えれば、どこまでも無限に未来は続き、過去のことを考えると、どこまでも無限に過去に溯る。
「人も物も事も、全てがそのように限りなく続いて行くが、それは実は、玉が地面に落ちるような簡単な物事の積み重なりでしかない。」
そのように限りがないことをどこまでもどこまでも考えようとするときりがない。
「だから、その限りなくある物事の中から、我々はある部分のことだけを選び、見たり、聞いたり、行ったりしているだけにござる。」
それは、自分が自分の人生しか生きられず、他人の人生を生きられないのに似ている。
「呪詛などというものは、そのどこまでもどこまでも、限りなく、続いて行く物事を、無理に繋げようとしたり、考えようとしたりするから、信じるのでござる。」
それは自分と他人の人生を無理矢理くっつけようとしているものだという。
「よく分からぬな?」
綱成がそう言うと時坂は分かるものは分かるし、分からぬものは分からぬのだと言った。
「立場の弱い者は魂が弱い。」
五郎が言うには、社会的立場の弱い者は魂の量が少なく、他の魂の影響を受けやすいのだという。
「もとより魂の量が弱い故、立場が弱いのか、立場が弱い故、魂が弱いのかは分からぬ。」
例えば、女、子どもだという。しかし、女、子どもでも魂の強い者は強いという。おそらく、社会的相関関係によるのだろう。
「時坂はどうだ?」
綱成は尋ねた。
「あの者は…。」
自身の腕や力量、智恵を頼みとする者は魂も強いという。
「己を頼みとする者は魂も強いということか。」
綱成は自分もその部類に入ると思った。しかし、彼らは自己を頼みとするが故に、魂を見ていないという。
「確かに時坂は呪詛などを信じておらぬようであったな。」
「魂が強ければ良く、弱ければ良くないということではない。」
そもそも魂に強弱はなく、ここでは仮に、魂の影響の受けやすさをして、代わりに強い、弱いと言っているに過ぎないのだと。
「それ故、魂が弱い故に強く、強い故に弱いということが成り立つのだ。」
魂が弱い者はその分、他の者の協力を仰ごうとするし、逆に魂の強い者は、己を頼みとするばかりに、他者を信じず、一人になりやすい。それ故に、魂が弱くても、社会的に強い立場にいる者はいるし、魂が強くても、社会的に弱い立場にいる者もいる。魂が強い者は、悪い魂の影響を受けにくいが、良い魂の影響も受けにくい。魂が弱い者は、悪い魂の影響を受けやすいが、良い魂の影響も受けやすいという。
「撃て!!」
ドーン!!
「勝った、勝った。」
種子島が放たれ、綱成たちが駆けて行く。それはいつもと変わらない光景である。
「某に呪詛を掛けた?」
あるとき、おもむろに上杉憲政が一鉄砲足軽頭に過ぎない時坂玄蕃丞に呪詛を掛けたという噂が広まった。
「時坂、五郎に見てもらったらどうだ?」
「某は結構にござる。」
綱成が誘っても時坂は頑として突っぱねていた。
「(何故、かような噂が立った?)」
調べて見ると、捕まった上杉方の足軽から、時坂の名が出たという。
「(何故、某の名を知った。)」
『時坂玄蕃丞続成。』足軽はそう言ったという。
「(真名など誰にも教えておらぬはず…。)」
真名を知られると呪詛に使われる。それを信じていたわけではなかったが、礼節として、他人に真名を教えることはしなかった。それが、突然、見も知らない敵の足軽から自分の名が出てきたのである。時坂は若干の恐怖を感じた。
「撃て!」
ドーン!!
「(呪詛など種子島の玉が地面に落ちるようなものだ。)」
相手の足軽が自分の真名を知っていたのも、種を明かせば簡単なことである。と思っていたが、その種が分からない。
「(何故であろうか…?)」
魂を信じる者ならば、ここで五郎に相談して、払ってもらい安心するだけのことであった。しかし、時坂は魂は信じず、己の智恵を信じた。
「(こちらの誰かに聞いたのだろうか…。)」
と考えても、味方の誰かに教えたこともない。
「(何故だろうか…?)」
智恵を頼り、調べるが分からない。
「(五郎…。)」
旗持ちの五郎が怪しげな呪いで真名を知ったのではないか。そして、それが敵味方に広まったのではないか。時坂の結論はそういう答えを引き出した。
「そのようなことがあるわけなかろう。」
時坂は五郎のところへ行って糾明したが、全く知った様子ではない。
「時坂殿の妄想であろう。」
「それしか考えられぬのだ。」
「それは時坂殿の魂が良くない魂に差し障られているからだ。」
「なに?」
「時坂殿は呪詛に掛かっている。」
「呪詛…。」
時坂は呪詛を信じていなかった。しかし、いつのまにか自分は呪詛の影響を受けていた。
「これが呪詛か…。」
「俺が払ってやる故、安心しろ。」
五郎の言葉に時坂は何故か安心した。
「今宵から、毎晩、この塩を舐めろ。」
時坂は五郎から塩をもらった。
「あとはこれだ。」
「何だそれは?」
「榛の実だ。薬になる。」
ばらばらと両手一杯に榛の実をもらった。
「飯前に一粒、二粒食え。」
「分かった。」
それから、毎日、時坂は宵に塩を舐め、朝夕の飯前に榛の実を食った。
「呪は俺が払っておいてやる。」
そう言って、夜な夜な五郎は誰にも知られることのない場所で呪を唱えた。
「(体が楽になった気がする…。)」
五日も経つと、時坂はそう感じるようになった。
「呪詛が落ちてきたのだろう。」
五郎に言わせると、ただ、良い魂に触れただけのことだった。
「言葉や思念そのものも魂を持っている。」
「なるほど。」
己の良くない言葉や思念が良くない魂となり、時坂の魂に障っていたらしい。時坂は、またひとつ知らぬことを知った気がした。
「有難うござった。」
「また、いつでも来るが良い。」
時坂は帰って行った。
「勝った。勝った。」
綱成が駿河深沢城の守備を任されたことがあった。
「此度は負けるな。」
綱成はそう言った。武田軍の前に深沢城は本丸のみとなっていた。武田軍から降伏の使者が来た。
「負けた。」
綱成たちは降伏勧告を受け入れて、城を明け渡した。
「旗はどうした?」
撤退していくときに、五郎を見ると、地黄八幡の旗を持っていなかった。
「あれは置いて来た。」
「置いてきた!?」
旗を置いて、逃げて来るなど武士として恥辱であった。
「まあ良いか…。」
今さら取りに帰るのもみっともないので、綱成は五郎を咎めることもなく、小田原へ帰った。
「地黄八幡の左衛門太夫も、我等に恐れを抱き旗を放り出して逃げていったわ。」
深沢城に入った武田軍の兵たちは、本丸の真ん中に置かれていた地黄八幡の旗を見て、笑った。
「愚かなことを申すな。それは左衛門太夫が捨てていったのではない。旗持ち足軽の咎である。」
その話を聞いた信玄は綱成を嘲うこともなく、却ってその武勇にあやかるようにと、真田家に地黄八幡の旗を授けた。
「信玄公に礼を言わねばなるまい。」
武田家の使者より、その話を伝え聞いた綱成はそう言った。
「あれは良くない魂となったから置いてきた。」
五郎はそう言った。
「まことか?」
あのときは確か、武田軍が金堀衆を使って城を掘り崩していて、皆、慌てていた。もしかしたら、うっかり五郎が忘れてきたのではないかと思った。
「恋慕うというのは呪である。」
「なるほど。」
五郎と時坂が話している。あれ以来、時折、時坂は五郎に呪のことを尋ねていた。
「呪と祝は同じものだ。」
両者は魂であるという。
「神仏を尊ぶということは、神仏を恋慕うということと同じだ。」
それらも同じく魂の発現であるという。
「時坂殿は、案外、魂に障りやすいのかも知れぬ。」
他の魂の影響を受けやすいのかも知れない。
「時坂殿が言った種子島の玉の話は間違ってはいない。」
「どういうことか?」
「玉とは魂だ。」
時坂は、世の中の事物事象は全て、種子島の玉が地面に落ちるようなことの連続でしかないと言った。ただ、その個々別々の玉の動きが分からないから、連続して見えるのだという。
「世の中の天地人は全て魂と魂の触れ合いの因果である。」
ただ、それが複雑怪奇種々様々な様相を見せているから、世人には不可思議な現象に見えるだけだという。
「なるほど。」
この五郎という人間は思っていたよりも、賢いのかも知れないと時坂は思った。
「神仏が聖邪表裏一体であるように魂も良悪表裏一体である。」
魂は良くもあるし、悪くもある。古の人はそれを荒御魂と鎮御魂と呼んだ。
「魂の様相は、それに相対する魂の様相により決まる。」
例えば、荒鎮どちらの状態でもあった魂を五郎が感じた瞬間に荒御魂か鎮御魂のどちらかになるという。
「それは、相手の魂がこちらの魂の様相に感応したからである。」
「魂同士の感応はどうやって起こるのか?」
「どんなに遠く離れていても、こちらの魂の様相によって、相手の魂の様相が決まる。」
「では、己の魂の様相が知れれば、相手の魂の様相も分かるということか?」
「己の魂の様相を知った刹那、相手の魂の様相も荒鎮どちらかに収まるということだ。」
「ふむ…。」
時坂は腕を組み、目を閉じた。
世の中の天地人全ての事象が魂であるとする。言うなれば、無数の魂が集まってこの世ができているということである。そして、その魂のひとつひとつの様相は、それを感応する魂の様相により変わる。
「それならば、無数の魂が無数の様相を顕すのと同じように、この世というものもひとつではなく、無数の様相を顕した無数の世がある得るということなのではないか。」
「そうだ。」
五郎は言った。
「前に時坂殿が言ったように、我等はその無数にある世の中の中からあるひとつの世の中を選び、見たり、聞いたり、行ったりしているに過ぎない。」
「ならば、無数の某がおり、無数の五郎殿がおり得るということか。」
「そうだ。」
「では、仮に、五郎殿と某がお互い感応し合う魂を持っているとしよう。そして、五郎殿は陸奥に、某は京に行く。このとき、お互いの魂の様相は、五郎荒・時坂鎮、五郎鎮・時坂荒の二つであるとする。さらに刻のことを考えると、『先に五郎が荒と知り時坂が鎮になった。』、『先に時坂が鎮と知り五郎が荒となった。』、『先に時坂が荒と知り、五郎が鎮となった。』、『先に五郎が鎮と知り、時坂が荒となった。』の四通りとなる。」
「…。」
五郎は黙って聞いている。
「ここでお互いが前もって、自らの魂が荒ならば右手を、鎮ならば左手を挙げるように取り決めておく。」
「…。」
「そうすると、先と同じように、先に五郎右手・時坂左手、先に時坂左手・五郎右手、先に五郎左手・時坂右手、先に時坂右手・五郎左手の四通りが考えられる。」
「…。」
「通常ならば、お互いがどちらの手を挙げているかは、伝令の者を遣わして知るしかない。しかし、我等には魂がある。」
「…。」
「少なくとも刻のことを省くと、己の魂を見れば、遠く離れていようとも、伝令を遣わず、刹那に相手がどちらの手を挙げているかが分かる訳だ。」
「そうだ。」
時折、二人は酒を伴にして、そのようなことを語る。
「撃て!」
ドーン!!
「勝った!勝った!」
今日も、綱成はそう叫びながら、戦場を掛けて行く。
「(死んだ。)」
五郎も、新しい旗を持って後を追って行く。
「世の中が無数にある得る。そして、それは魂の様相を感応することにより無数になり得る。」
「そうだ。」
「それは、某が足軽共を下知し、種子島を撃つこと、殿様が『勝った。勝った。』と言い先陣を駆けること、五郎殿が地黄八幡の旗を持って後を追うこと。それによって、戦に勝つこと。あるいは、魂に呼びかけ、呪詛を掛けて呪うこと。または、神仏人を信じ恋慕うこと。それら人の行いと思念により世の中は変わり得るし、その数だけ、世の中があるということなのだろう。」
「ただ、魂は多く集まり大きくなると、性質が変わる。」
「ひとつの魂を相手にすることと、多くの魂が集まってできた世の中を相手にすることとは異なるということか。」
「個魂と集魂は扱いが変わる。」
「一人の足軽を相手にすることと、大軍を相手にすることとは異なると。」
「ひとつを見れば多くは見れず、集を見れば個は見えない。個の扱いによって集は扱えず、多くの扱いによって個は扱えない。それは、もともと玉のことを見ていた時坂殿が魂のことを知らず、魂のことを見ていた俺が玉のことを知らなかったことと同じようなものだ。」
「しかし、そのことに気がついたことにより、また何かが変わったということなのではないか?」
「そうだ。」
とある戦国のとある時間で、今日も地黄八幡の旗は綺麗に風に靡いていた。その旗は今も、真田家に残っているという。ひとつ分からないことは、どうして、時坂玄蕃丞続成という名を上杉憲政の足軽が知っていたのかということだけだった。ただ、綱成は五郎が時坂のことを続成と呼んだことが一度だけあるのを記憶していたという。