どうして、ここまで、異世界=ファンタジーが多いのか?
私は、疑問に思う。
なぜ、こんなにも、ファンタジーが好きなのか、かつ、現実世界には目を背けるのか?
自分勝手のエゴイストなのかもしれないが、少なくとも最近は、現実での世界を題材としたものを書くものからしたら、逃げてるとしか考えられないのだ。
魔法、魔法いとも容易く発動できるかのように、小学校の算数のように簡単に発動できるものだと、誰が教えたのだろうか、現実はそんなに甘くないことは知ってるのだろうか?と、どうしても、現実的な思考で物事を考えて、作品に投影してしまうのだから、空想することが好きな人にとってはいささかつまらないものなのだろうと思う。
だから、読まれない、気にやむ、そして、生の支配から、逃れたくなるようにして、自殺する。
素晴らしい作品が出来ることは例え、作者のなかには人に評価されようとも満足できない、苦しいものなのだ。
悩みの中の螺旋階段をくだっていくと暗黙の中の悪魔が好む誘惑があり、人はそれを求めてしまう。
だからこそ、逃げていく先には、異世界があって、のめり込むのだろう。
その背景には日本教育が関連してるかと、
特に、学生時代は学校教育上、抗えないように抑圧下の集団での生活が強制されている。
これは、社会主義のようにみんな平等であるべきだという定義を抱えながらも、資本主義的が格差を生み出しているように思われる。
尚且つ、そこで上層階級の生徒たちは、自分が権力者のようであるかのように、我が法であり、民草は従わなければならぬという独裁国家が形成される。
しかし、昔の日本教育には教師は体罰をかしており、それがあったがために、権力の均衡はなされていたのかもしれないのだ。
今じゃ体罰というものは禁止されており、その度に、ニュースで取り上げられ、話題になっているが、
彼らは一概に悪と呼べるだろうか?
一面では分からない情報が隠されていると思うのは私の性格上または、哲学的なテーマとなるので、これ以上は深くは書かない。
現代の教育制度は、まさにファンタジーと同じものだと思えてならない。
魔法が魔法を容易く発動できると同じように、支配も支配を容易くできるものであると錯覚しておられる。
これは、誠にもって、危惧すべきものである。
だから、現実と理想(異世界)との落差についていけず、
引きこもりは後をたたないのかもしれない。
かくいう、私も若干の社会不適合者に近い者と思ってるのだが、
私はそれでも現実の生活について嫌々ながらも向き合っている。
なぜ、向き合うことができるのか、それは現実を題材としている者や、映像に触れているからなのだろう。
そういう経験が、小説に深みを帯びると、考えるようになったのは、書き続けていくことで見つけた。
これは、科学者が苦労して、私生活を研究に捧げた上での世紀の大発見に等しいものと思える。
そのために難解な文を読む作業は、無意味ではないように思えることを、中学や高校の縛られた世界を抜け出して知った。
私は今は大学生になり、大学に行けることがこんなにも、意味のあることだと心から思えた。
しかし、社会人として仕事をすることになるとしたら、その時間は奪われるのではないだろうか?
また、中学や高校の縛られた世界に逆戻りするのではないかと不安に思ってしまう。
例え、そうだったとしても仕事の終わりのおつまみを食べる時間にコツコツ書いたりとか、読んだりとかに使える時間はあると思うので、私は工夫して、趣味と仕事を両立させることは可能なはずだ。
過去は変えられないが、未来は変えられるように、時間の過ごし方は工夫できるのだ。
ならば、中学、高校でも時間の過ごし方は工夫できるだろうか?
いや、そうではなく、若い頃はどうしても、めんどくさがってしまう、楽な方が、効率的で、苦しい事柄に頭を一時だけ忘れていられるからだ。
例えば、それは取り組まなければいけない課題とかをおいてけぼりにして、
また、中二病という言葉が存在し、その頃はどうしてもというか、今でも付属文化の価値は上がり、発症している大人もいるのかもしれないが、言葉のセンス、見た目はカッコよくなければいけないという、暗黙の了解が存在しており、
どうしても、見た目がダサい者は不快に思われるという過剰な自意識が生まれ、昨今の若者は集団に属する傾向が強いように思われるが、どうだろうか?
新しいことを一人ですることは悪で、楽しければいいという、ゼロ文字の小説を皆が読んでることを善としている。
その情報源は、有名な人とか、イケてる人が読んでるからという理由で、
このサイトも同じで、人気だから読む、ランキングに乗ってるから読む人が大半をしめており、活動報告に書くのは読んでほしいから、コメントを書くという人もいるかもしれない。
少なくとも、私はそんな人間ではないことを願いたいが、心のうちのどこかにそう思ってるふしがあるため、なかなか、相手の活動報告にコメントを書く際は気をつけて投稿しようと心がけている。
と、少々脱線したところもあるかと思うが、人気なものを読むというのは結論をいって、それが正しくないとは一概にはいえないが、私としてはあまり、おすすめはできないと思う。
確かに、有名どころの作品は面白いものである、
そうと言える根拠を分かりやすく、そうだな……
一つテストしてみよう。
片方は無名の作品、もう片方は箔のついた作品で、裁判をすることにした。
それを行う際の、検事や、弁護士、案件は何か?を考えるのは無視しておくとする。
裁判官は、できうる限り、実績のある人を選ぶことだろう。
それと、同じだ。
例え、面白いという中身が無名の書き手にあったとしても、
無視され、読まれず、只、己の時間のかけたことの意味を問うてしまうのだ。
そして、ファンタジーというものに転向せざるおえなくなる。
最近のネット小説の大部分は、ファンタジーが多いという理由ともなりえる。
私は、なぜ、これを書いているかは、絶望しているのだろう。
私の作品という存在価値を疑いつつある。
一体何がいけないのか解る作品もある。
しかし、解らない作品もある。
もう、自分は書いてても、意味のないクリエイターなのではないかとか、他の人と比べて劣等感を感ぜずにはいられないのだ!
今の世の中は、悲しくて、辛い
現代の人は日本に縛られ、平和であれど現実が辛くて、
幻想つまり、ファンタジーに心のゆとりを求めて、
現実が一層苦しいと感じるかもしれないのに。
時代、時代の社会的傾向が、作品が好むに値するものに影響してると思うと、これが合わない場合は、大衆の中の雑踏に踏みつけられ、ねじ伏せられるような気がして筆を折らなくてはなんて、思ってしまう。
じゃあ、これを読んでどうすればいいかというと、ファンタジーのみを読んだところで人生の糧となるのだろうかと問いたい。
たまには、難解な文の世界に頭の痛くなるような思いをしてほしい。
きっと、あきらめずに読むにつれて、目の前の簡単に気づける宝にはない、深い意識の海の魅力に気づくことだろうから。