ご奉仕その八 俺はお前を愛している。
また琥珀が消えてしまった。
また一人。
夜の公園に一人の男。
これまたおかしな姿だろう。
俺は段々怒りが湧いて来た。そもそも、何故、俺が琥珀を助けに行かなければならない。何故、あの珍妙な歌舞伎の狐面と戦えだって? 何故だ。
俺は普通の高校生だったはずなのに。確かに孤児で、親も家族も親戚も分らない。天城という名は孤児院にいた時、担当員が書類を作る時に俺に付けた名前だ。『誰とも繋がっていない、君だけの名前だね』とその人は笑った。その人のことはもう顔も覚えていないけれど。
それでも俺は、野球が得意な善良的な一般市民だったのに。
「お、おい。お主、大丈夫か?」
俺が無言で震えていたせいだろう。紅天狗が心配して見上げている。
「あ……」
「あ?」
「頭きたっ!!」
パンッ、と俺は拳を握る。
「紅天狗、琥珀のいる場所は……あの神社か。行くぞ」
「っちょ、お主本気か!? あの面は明日と……」
「知るか! 何で俺が知りもしない面に、しかも元々尻尾だった野郎に義理立てする必要がある」
「結構、知っておるような気がするのじゃが。もしかしたら、またあの狐に騙されておるかもしれんぞ?」
「だったら何だ。その時は、もう一度白球使って躾けてやるよ」
ぽーん、と球を片手で投げると紅天狗は震えた。
空は暗く、町はビルの光でぴかぴかしている。まるでどっちが天か地か分らなくなりそうだ。
「すっげー!!」
「何じゃ、お主高い所が好きなのか?」
「ああ!」
俺の言葉に紅天狗は少し神妙そうに頷いた。
なんと、紅天狗は巨大なカラスになったのだ。それこそ、人が乗れるほどの。
「お前たちは一体……」
「最初に名乗った筈じゃが? 我々は由緒正しき烏天狗組。わしは長の紅天狗」
俺の知る烏天狗または鴉天狗は大天狗と同じく山伏装束で烏のような嘴をした顔をしており自在に飛翔することが可能だとされる伝説上の生物だったと思う。小天狗、青天狗とも呼ばれる。烏と名前がついているが、猛禽類と似た羽毛に覆われているものが多い。
紅天狗は何故かロリ僧侶のような恰好で錫杖を持っている。これがカラスの時の姿なのか。
更に、烏天狗は剣術に秀でいるとも聞く。鞍馬山の烏天狗は幼少の牛若丸に剣を教えたともいわれている。神通力にも秀で昔は都まで降りてきて猛威を振るったらしい。
中世以降の日本では天狗といえば猛禽類の姿の天狗のことを指した。鼻の高い天狗は近代に入ってから主流となったものであるので一般的にはこれらは別種とされる。
紅天狗は大きなカラスにもなれるのか。そりゃあ、長と言ったら相応の力があるか。
そういえば、空を見るのは修学旅行以来だ。琥珀にも言ったが、俺は空が好きだ。どこまでも広がる。一面であり、一部であり、同じ色、同じ瞬間は無く。時に豪雨を降らせ、時に白い雲を産む。
そこに浮かぶ、まだ三日月にも満たない月。
唯一、空からくっきり浮いた存在。まるで己の様な。
たしか、月は無重力だ。
俺はふと思う。一つの謎だ。どうして、あの人は月から地球に来ようと思ったのだろう。
おとぎ話の月は神聖な場所の一つだ。
「なぁ、聞いていいか?」
「何じゃ?」
大きなカラスの状態でも話せるらしい。
「どうして……俺の側面は地球に来ようと思ったんだ?」
「ふうむ。それは難しい質問じゃ。あの方は我々には常に高貴で、清廉で、正しい人だったからのう……」
「だったら、尚更どうして……」
紅天狗は少し黙ってから呟いた。
「寂しかったらしい」
「寂しかったぁ? 何で。こんなに従者がいて皆に好かれてるのに?」
「あの人の従者は八咫烏を除いて、事情はどうあれ全て地球の者じゃ。あの方が月でどういう生活をしていたかは分らんが、八咫烏が言うには感情がなく、色が無い神社のような場所だったそうだ……」
その時、俺の背筋は寒くなる。
色も。音さえない。どこにいるのかも分らない。知る必要もない。なぜなら、感情がないから。そんなものは人形と同じだ。窓の外から見える地球のなんと美しい色か。知っている色は青。
あの青い玉に行ってみたい。八咫烏は言った。あれは地球。地球には色々なもので溢れていると。
「瀧臣」
紅天狗に呼ばれ、俺はハッとする。
行けない。引っ張られた。首を振って体を起こす。
「もうすぐ着くぞ」
「早いな!」
「少しワープを使ったからの」
「ありがとな」
俺は鳥のくちばしと頭の間をこしょこしょと撫でた。
「なっ……」
「あれ、琥珀から聞いてなかったか? 俺は動物の扱いについてなら自信あるぜ」
「聞いておった。聞いておったが、実際体験するとまた大違いじゃ……」
大きな山の山岳に少し開けた広場が見えた。上から見るとこう見えるのか。その円の奥に赤い社と神社がある。俺はバットを持って立ちあがる。
「待て、お主どうする気じゃ?」
「あそこ、妙な壁がある。何か仕掛けたな」
「何……よくぞ、見破った……」
「普通に行ったら迷っていたな。紅天狗、低空飛行」
「へ!?」
驚きながらも、紅天狗はちゃんと低空飛行で下降する。俺は一気に飛び降りた。
「ちょおおお!?」
「うるせぇ! ただでさえ訳分らねぇのに正統法でやってられるか!」
飛び降りて、バットを振りかざす。
「琥珀ー! 生きてるか!」
キンッ、とバットに薄い壁が当たる。
やはりだ。
「俺は青森城塞高校三年、野球部主将背番号四番、天城瀧臣!!」
俺はもう一度、ゆっくり構え、そして的確に先程と同じ一点に向けてバットをフルスイングして壁をぶっ壊した。
ガシャンッと硝子が割れた様な音がする。
落下するが、落下すると分かっているのだ。地面に転がりながら受け身で起き立つ。ここが芝生で良かった。
肩に付いた草を払う。
『な……』
神社の上に立っていた面歌舞伎の男は素で驚いたような声を出す。その神社の扉の奥を見て俺は顔をしかめる。
琥珀が、様々な和柄の帯でぐるぐるにされて、さらには天井から吊るされている。
「ご主人様!!」
『何故、来た! しかも、こんな……姑息な手段で……』
「こうでもしなきゃ。ここには来られなかった。お前、俺をここに通す気はなかったな」
『……』
「俺を諦めさせるつもりだっただろう」
『遠からず、近からず。確かに、ここまで来られぬのならそれまでの男。来られたとしても、この狐の醜悪な姿を見せれば早々に帰るだろう』
「ま、何をする気だ……!」
「嫌です! 放して!」
琥珀は本当に嫌そうにしていた。そんな琥珀を無視して面の男は飛び降りる。その時、俺はちらりとその面の後ろに尻尾があるのを見つける。そうだ。この男も元は琥珀の一部なのだ。
『今、ここに飢えた妖怪、魑魅魍魎、人間の男ども。すべて呼んでやろう』
「……へ?」
「なっ……」
『さすれば、この女狐、欲に溺れ、溺れるだけ蹂躙するだろう……』
「……知ってるけど」
言い難かったが、俺は仕方なく言った。
『え!?』
面は表情は変わらないのに面白い動きで慌てている。
『マジで!?』
俺は頷く。
『知っていて、この狐を……何故だ! 何故、そんなことが出来る!!』
「ちょっと! 何です、その言い方!!」
『分かっているのか? この女狐がどれだけの男を魅了したのか!!』
面は焦った動きで暴れる。
面の言いたいことも分かる。そりゃあ、昔の琥珀は凄かったのだろう。
けれど。
ああ、俺は今、何かがストンと落ちた。
「うん。琥珀はもうそんなことしない」
『何故、そう言い切る!』
「俺は琥珀を愛している」
迷いなく言った。場が一瞬静かになろうとも、俺は続ける。
「例えまたそうなったとしても救って見せる。いや、そんなことさせない。だから……帰ろう、琥珀」
その時、パキーンと硝子の割れたような音が響き、同時に社が光る。
眩しすぎて目を閉じる。
開いた瞬間、八本の尻尾を揺らす琥珀が尊大に賽銭箱の上に座っていた。