ご奉仕その六 もっと私を見て下さいな!
琥珀が居なくなった。
頼んだのは俺だ。
俺が、誰かに何かを頼むなんて今まで生きて来て一度も無かった。
俺はただ、暗い部屋の中で電気を点けるのも忘れて呆然としていた。
暗い部屋はやたらと殺風景で、何もない。あんなに騒がしかったのに。ピョン、ピョン、と台所の蛇口から落ちる水滴の音が妙に響く。
無機質な車が通る音。救急車のサイレン。
音はそこらじゅうに満ちているのに、妙に静かで。
この家は、こんなに静かで、こんなに広かっただろうか。
俺は無力だ。握った拳が震えた。リビングに叩きつけても、ただ音が鳴るだけ。
静かは嫌だ。
何もない所は嫌だ。
自分の呼吸しか聞こえない空間は嫌だ。
「何だ……今の」
俺は頭を抱える。
違う。俺の記憶じゃない。
「違う、そうじゃねぇ。琥珀は大丈夫か……」
そうだ。今、アイツは完全体じゃない。
けれど、もし完全体になったらアイツはどうするのだろう。
一瞬、嫌な思考に捕らわれ俺は首を振る。
何が出来るか分からない。
けれど。
俺は琥珀を助けたかった。
「けど、場所が……あの神社か……でも、どうやったら」
瞬間移動なんてそんな力、持っている訳ない。武器になりそうな物は野球のバット一本。
構えて持つ。
何も出来ない。そんなこと分かっている。
寮の窓の外に広がる夜景と己の顔。
今日は新月だ。月は見えないので余計に暗い気がする。俺は修学旅行で行ったあの場所まで行く決意をする。
光る美しい金色。
金色? 月は見えないのに?
その時、鏡に映る俺の姿が反転する。
金色の髪。深い、湖面のような瞳の色。神社の神主が着ているような白い袴。
「……あれ?」
『久し振りだな。自分の半身に会うのは』
しかも、
「喋ったぁああー!!」
『本当に何も覚えていないんだな?』
「え? え?」
まるで鏡のようだ。
相反する自分の姿。髪と瞳の色が正反対の。恐る恐る、ガラスの窓に手を置くと手が重なった。感覚はない。
「まさか、ゆ、幽霊……」
『いや。幽霊でも、ドッペルゲンガーでもない』
「じゃあ、貴方は一体……」
驚きはしたが、不思議と恐怖は無かった。そして話しかけてしまった。けれど、その姿はむしろ神々しいとさえ思う。まるで本当に月の神様のような。
『俺は君の側面だ』
「そくめん?」
『そう。俺は幽霊でも、ドッペルゲンガーでも、魑魅魍魎でもないが、宇宙人だ』
「……はぁ!?」
今、何と言った? 宇宙人だと?? そんな馬鹿な。
『月を宇宙とするなら。月から来た俺は宇宙人、と言うことになるだろう』
「え、……はぁ、……え、じゃあ、俺もまさか!?」
『その通り。我々は二つで一つ。俺が陽で君が陰』
ちょっと話と状況に付いて行けない。どういうことなんだ。
「え、……え??」
『何故、君の出生が謎なのか。我々は人間ではない。与えられぬ限り、ニンゲンの尺度で個人として判断することは不可能だ』
「……」
俺はただ、黙る。
俺は人間ではない?
宇宙人だと? そんな話、誰が信じるのか。
『誰かが言っていたが、我々はかぐや姫のようなものだ。ただ、竹から生まれていないし、月にも帰っていないが』
「かぐや姫……」
『信じるのかは君次第だ。この不可解な状況と、君の望む状況とを打開したいのなら』
「アンタの話を信じろって?」
鏡のようになった窓に映る男は頷いた。
確かに、不可解な状況だ。奇妙な話だ。奇想天外な出来事だ。しかし、俺だけでは何も出来ない。新幹線に乗って、今からあの場所に向かって何が出来る。
『俺は記憶と力を引き継ぎ、君は聖なる気と月の影を引き継いだ。今日は新月。君の力は骨頂だ。しかし、あの九尾の狐はお前の力を借りなかった。何か考えがあると見て良い』
「アンタ……まるで神様みたいだ」
『その言葉はそのまま君に返るのだが。分かった。一部、君に力の使い方を教える』
「一部?」
『君は今まで知らなかったんだ。一度に全てを知りたいか?』
俺は首を振った。琥珀が戻るのならそれで良い。
「けど、俺に力……」
『我々は何かに向かって何かを射るのが得意だ。それに少し力を加えればいい』
「……何かに向かって何かを射る? 野球のバットでもいいのか?」
『もちろん。今回はサービスであの場所まで送ってやろう』
「ちょ、ちょっと待ってくれ……!!」
『悪いな。俺は生憎、君は君として送っている人生には干渉しないと決めているんだ』
その人はそう言って、窓に指で円を描く。
『これで行ける筈だ。帰りは狐にどうにかしてもらえ』
「待って、待ってくれ!!」
必死に手を伸ばし、叫ぶがその姿は消えて月のような光の円だけが残った。
どうするかは、俺次第。
本当にこんな話を信じろって? 夢でも見ていたのかもしれない。けれど、変わらぬ事実もある。
今、ここには琥珀はいない。
あんなに怠惰で、自分勝手で、自由で、やかましくて。エロいことは手慣れてるのに、子供にするような愛撫にはてんで弱くて。
俺は決めた。琥珀を助けに行く。
まだ、全ての話を理解した訳ではない。信じた訳でもない。けれど、この光から琥珀の場所に行けるのなら。
俺はバットを構え、あの時と同じように慎重に一歩、一歩、光の先へ向かった。
たしか、あの場所は森の中にポッカリ空いた場所で浅瀬の川が流れる場所だ。周囲は芝生で奥にはあの社がある。
そこまで一気に駆けると、聡がいた。
ゆらりと振り向くと目が死んでいて眼鏡だけが光って見えた。
何だ。何か黒い靄のようなものが見える。
深い森。良く気配を凝らしても、何も感じない。俺はバットを構えて叫ぶ。
「聡、お前はこんな奴じゃ無かっただろう? 聡!!」
「こんな奴、なのですよ」
琥珀の声がした。
「琥珀!?」
琥珀はあの神社の上で、盛大に体を崩して尻尾を揺らめかせる。
「私には魅了の力もありますから」
「……お前がやったのか」
「ええ?」
「なんで……どうして!!」
「貴方に分からせる為です。私は善良な狐ではありません。こんなことはお茶の子サイサイ。なんなら、貴方のチームメイト全てを魅了して魅せますよ」
「……ふざけるな!」
「……え!?」
俺は聡へ向けて、バットで一球、球を打つ。
その球は聡に直撃したけれど、大丈夫。ただコブが出来るだけだし聡は捕手だ。慣れてる。
「次はお前だ、琥珀」
二球目。
「え……え!? ちょ、ま、……いったぁあ!!」
彼にスコーンと琥珀の頭に直撃して琥珀は伸びた。
「全く。犯人が身内とは笑えないな」
「……ふぇ!? 今、なんて!?」
「いや、だから……」
「だって! 聡さんはズルいです! 毎日ご主人様と一緒で、毎日楽しそうで!! 琥珀だって、自転車でご主人様と遠くに行きたい」
「あれか……あれはただの校外学習でちっとも楽しくありません」
「……ふぇ?」
「説明は家でする。聡と俺を戻せよ」
数分、琥珀は悔しそうに暴れていたが、しばらくして諦めたのか。
「……分かりました」
と頷いて、我々を一瞬で元に戻した。
まさか琥珀にここまでの力が戻っているのか。
明るくなった部屋の一室。琥珀は耳を下げて、ショボーンとしているが落ち込んだフリだ。
「琥珀さん」
「……はい。でも、殴るのは酷いですよ!!」
「あれは殴ってない。それに躾だ!」
「……躾……それにしても、まさか私の魅了を一瞬で解くなんて! 流石ご主人様!!」
「調子に乗らない!! 俺は怒ってるんだ! 俺に何したっていい!! けどな、何も知らない他人を巻き込むな!」
琥珀はいかにも不満そうだったが、しばらくしてピコーンと銀色の耳を立てる。
「では、条件です! もふもふも、尻尾のなでなでももっとして下さいね!」
突然、ぴょーんとちゃぶ台を越えて飛び付かれる。
「ちょ……お前、反省しているのか!?」
「してます、してます。分かりました。契ってもいいです。貴方以外には何もしません」
琥珀の五本の尻尾がわさわさ揺れる。
「しませんが、しないとそれだけでは足りないのですけど」
黄金の瞳が獣のように動く。これが目的か。俺はため息を吐いた。
「むむ、これは結構、しんどいんですよ。私だって出来ることならご主人様の清らかな生気だけが良いのです」
「お前は馬鹿だなぁ」
「馬鹿とは、馬鹿とは何ですかぁ!?」
琥珀の肩の上に両腕を置いた。
「こんな回りくどいことしなくても、生気? ぐらいやるよ」
そのまま、唇を近付け触れると琥珀は黙った。
ああ、琥珀だ。
温かくて。柔らかくて。もふもふで、ふわふわで。
「ちょ、ご主人様、そんな……一気に」
「お前がしろ、って言ったんだろ?」
ちゅ、と銀色の耳を舐めると毛が逆立つ。一方的に怒るだけが躾ではない。
「ちゃんとやってやるから。もうやっちゃダメだぞ?」
「しません、しませんからぁ」
尻尾の一本、一本を手でブラッシングしてやると琥珀は既にヘロヘロだった。
翌朝、俺はシャツを羽織ってネクタイを締める。
相変わらず琥珀は乱れた着物姿で人のベッドを占領していた。
尻尾の数は六本になると流石に多い。
「後で聡に謝らないとなぁ」
「大丈夫ですよ! 記憶は消してありますから!」
「そういう問題ではない! 良いか、本当に大人しくしてろよ!!」
「はーい!!」
俺は通学しながら思った。
まだ、琥珀には俺の事は言わない方がいいかも知れない。
正確には、俺自身がまだ完全に理解できていない、ということもある。
側面、もう一人の自分。
それは人間ではない。
俺は足を止める。すれ違う人々が、その影が間延びして見える。誰も。聡も。
俺とは違う。