二つ目 旧体育館のトイレのイトウさん
藤堂高校には新校舎と旧校舎があり新体育館と旧体育館がある。
校庭とグラウンドを足すとそれなりの敷地面積で更に高校寮があるが普段は使われず部活の合宿等に使用されることが多い。
正門の逆側には川が流れ旧敷地内は普段使用されないだけあって暗く悪霊や霊だけではなく妖怪のようなものまで住み着き易い。
悪ささえしなければ神経質になることはないが彼らが噂の発端だとすると少し面倒だ。
悪霊なら祓えばいいが妖怪はそうはいかない。低級でも面倒な場合が多いからだ。
旧体育館は普段は使われず希に運動部以外の演劇部等が使ったりする。
少し床が古くトイレも旧式で衛生面的には素晴らしいとは言い難い場所である。
「少し気になったのだが、みさきとは面白い名前だ」
「女みてぇっていうことですか?まあ良く言われます」
うんざりした様子で八咫みさきは答える。
「いや。違う。岬なら漢字を使うだろう。わざわざひらがなにしたということはそういう意味があるからだと思うが」
「……え?」
「八咫烏から来ているのだろう。そういう霊的な存在を御先、ということがある。おそらくそっちが由来ではないか?」
「そりゃ知らなかったっす。両親も特に何も……」
「逆にミサキ神、憑き物の意味としてはあまり良くないな。君が良くないモノに会った時に感じる寒気や気分の悪さを意味することもあるから」
「今、おそろしいことを言わないで下さいよ!!」
「ま、どっちにしろ名字が八咫で良かったな」
「……ずっと弄られてた名前がそんな風になるなんて……」
流石に旧体育館の前は更に暗く見えて緊張した。
しかし本当に月臣は怖いもの知らずというか、いくら神主で悪霊が寄って来なくてもこういう場所が怖くはないのだろうか。
「安心しろ。特に妙な気配はない」
「先輩は怖くないんですか?」
「……何が?」
「……え? 旧体育館っすよ」
「そっちか……まぁ、あまり長居はしたくないな」
「普通そうでしょ!」
「何もないところは苦手だ」
月臣はぽつりと言った。
「……え?」
「誰もいない。来るかも分からない。何もない。自分の吐息しか聞こえないような場所は苦手だ。ここはまだいい。虫の声が聞こえる。悪霊だが何かしらの気配がある。何処かに誰かがいる。そして君がいる」
「……え」
そんな風に言われるとは思わず、みさきは何と返すべきか悩んでしまう。
安易な信頼感でも親密度の表れでもない気がするからだ。
「つまり先輩はそういう絶対的な孤独を知っているんですね」
「絶対的な孤独……上手いこと言うな。そうだな。そうとも言える」
「言える?」
「それが絶望か快楽かは人による。人がいる絶望の方が孤独という場合もある」
「先輩といると長い授業を受けている気分になります」
「そうか……済まない。あまり説法のようなことはしたくないのだが……」
「いえいえ、そういう意味じゃないですよ。為になるっていうか、考えさせられるっていうか。何で会長が会長で信頼されているのか良く分かりました」
月臣はきょとん、とみさきを見上げる。
「なんだ? 生徒会長は大魔王という噂を知らないのか?」
「そっちも知ってます。その片鱗も見ました」
「まだまだ。こんなものではないさ」
月臣はドンッと古い旧体育館の扉を開いた。
「え?」
「さて。会いに行くか。旧体育館のトイレのイトウさんに」
「知り合い何ですか?」
「知らんが予想は出来る」
月臣はカツカツと旧体育館の中を歩いた。
ほの暗い校舎をペンライト一本で。
廃墟とまでは行かずともそれに近い場所を堂々と歩く姿を見て、怯えているのが可笑しいと思えるぐらいだ。
旧体育館の奥、段幕の小さな扉の奥が旧体育館のトイレである。トイレのマークが錆びれ、嫌なアンモニア臭がしないのはつまり、全く使われていないから。
月臣はドンッと扉を蹴った。
「ぎゃぁああああああ!!!」
あれ、またこの感じか、といよいよみさきも思った瞬間、トイレからひょっこり老人が姿を現した。のでみさきも当然、驚く。
「うわぁあああああ!!!!」
月臣を除いた二人の絶叫のユニゾンが体育館に響いた。
青い毛糸の帽子に緑のジャンパー。ジャージの老人は不思議そうに二人の男子生徒を見つめた。
「イトウさん?」
「そうじゃが……」
月臣の問いにイトウさん(仮)が返事をする。
「えぇええええ、マジか……」
「つまり、こういうことだ」
「……何の話じゃ?」
イトウさん(仮)はキョトンとしている。みさきは小声で月臣に話しかけた。
「つまり、この浮浪者が……七不思議に……」
「そうだ。この方、結構古くからいると桂一……鳩里先生に聞いたことがある。面倒だから夜の旧校舎の警備員としているそうだ」
「してねぇよ! 住んでるじゃん! 住人じゃん!!」
「ほうほう。今年の生徒らかい?」
イトウさん(警備員)は彼らの会話を聞き流し話しかけた。こういう図太さがなければやってられないだろう。
「ええ。そうです。最近、この辺で怪しいものを見ませんでしたか?」
月臣も気にせず問いかけた。こういう人は少なかれ、桂一が生徒だった時代からいるのだそうだ。いるのだから仕方がない。桂一の時代の生徒会長(つまり英治の兄になる)もそう放置していたそうだ。
「ほう。それでこんな時間にこんな所に来たのかい」
「はい。何か見ませんでした?」
「あー、見たっちゅうか、落ちたっちゅうか、これな」
老人はこっそり、ノートを何処からか取り出した。
「あ! レポート!!」
「そのノート、生徒の落とし物でして返して頂けませんか?」
「……え……え? ……困ったなぁ。これでも売れば金になるんじゃ」
老人は嫌そうにノートを隠した。
「そんな……お願いします」
みさきが頼んでも老人はこそこそ逃げてしまう。そんな様子を月臣は腕を組んだまま眺めていたが、みさきの肩を数回叩く。
「え? どうしたんですか?」
「つまり、お金になればいいんだ」
月臣は小声でみさきと会話する。
「お金って……え、金!?」
「ああ。しかし会長自ら不審者にお金を渡すなんて示しが付かん。君、小銭は?」
「そりゃ少しなら持ってますけど……」
「まぁ、賽銭だと思って投げてみろ」
「……えー……」
「10円以上ならいくらでもいい」
さらに小さい声で月臣は言った。
みさきは仕方なくポケットから出た小銭を適当に投げる。音からして、1円数枚と10、50円玉以上はあるだろう。
すると老人がガバッと飛び出した。
「うわぁあ!!」
「……ほうほう、ほうほう」
すぐさま、小銭が回収される。老人がゆっくり立ち上がった。
「ほう。お主、そんなにこれが欲しいのか」
「え、……はい」
みさきは恐る恐る首肯く。
「因みに。彼が出す金額以上にそのノートの価値はありませんよ。何故なら彼が一番必要としていますから」
「それぐらい分かっておるわい。ワシかて、若造から小銭を巻き上げる趣味はないわい」
老人は案外、あっさりノートをみさきに手渡した。
「あ、……ありがとうございます??」
誰に対する礼だろう、と一瞬思った。
「時に、このノートが落ちた時、他に何か見ませんでしたか?」
「さあなぁ。ここはいつも暗いしの。見えた気も、しなくもない」
「見えたか、確実ではない、か。ありがとうございました。行くぞ」
「……え?」
そして月臣はあっさりその場から離れた。
旧体育館の施錠を確認して月臣は職員室に向かいながらノートをペラペラと捲っていた。
「後は明日だな」
「……え? 途中で切り上げるんですか?」
「今日は月がないから時間の感覚が分からないんだろう。今、23時だぞ」
「……え!? マジで」
月臣は腕時計を確認して首肯く。
「このノートには切れ端も破った後もない。生徒の名前も数字とは無関係。つまり、この女子生徒は除外していいだろう」
「……相変わらずですね」
何をしているのかと思えば、そんなことをいちいち確認していたのだ。
さすが、と言うべきか。
「桂一に渡して構わないか? 彼なら朝、直接担当教師に渡してくれるだろう」
「……あ、鳩里先生に渡していいと思いますよ。まだいるんですか?」
「ああ。俺が帰宅するまでは職員室にいるそうだ。あまりけ……鳩里先生に負担をかけるのも申し訳ない」
「……へぇ。鳩里先生は名前で呼ぶぐらい親しいんですか?」
「単なる腐れ縁だ」
月臣は表情一つ変えずに言った。
「まぁ鳩里桂一にも名前に数字があるので何とも言えないが」
「ん!? 何が目的で先生が!?」
「さぁ。可能性は後でいくらでも作れる。つまり俺が犯人かもしれないな」
「それは人間不振が過ぎますよ」
たった数時間。しかし、みさきは一ノ宮月臣という途方もない人間の片鱗を理解した。
極論を言えば極度の人間不信者だ。
相手を信用していないからこそ、丁寧で、注意深く、そして観察力に優れているのだ。
「そうだな……しかし、この事件の結果がどうであれ、俺は少し君に興味が湧いた。多少の茶番だったとしても付き合ってやろう」
しかし何故か、月臣は名前の通り月のような人間だ。不思議と淡く光って見え、それは揶揄であり、直喩でもある。相手を完全に拒絶しない所が、そんな風に感じるのだろうか。
「ええ。俺も会長に興味が湧きました。毎回、こんなことしてるんですか?」
「いや。毎晩、だな」
月臣は淡々と言った。