食の最大 月から見える太陽
初めて勤めたのが探偵事務所だった。その助手という仕事で、ユリウスは得意だった書類制作を主にテレサの身の回りの世話をしていた。
本当は就職する必要はなかった。
ユリウスは小さな国の王女の側近として長らく側にいた。
側にいたから見えたのかもしれない。
本当は彼女がどんな人で、何を求めているのか。
しかし、ユリウスは彼女の願いを叶えるほどの力はない。
だから外に出たのだ。
自分の力で地に立ってみたかった。
まさかその数年後、その王女が怪盗だなんてふざけたことをするとは思わなかったが。
ユリウスは数年振りにその国の目の前に立っていた。
相変わらず、小さく、余計な物も人もない。
きらびやかな古い塔。庭に一つの町。
綺麗で、古い街並みだが都市が丸々国になったような島だ。
何故、一国の女王が怪盗だなんて。
理由はシンプル。
暇だったからだ。
ある人にとってはそれは死活問題だった。
彼女は孤独で暇で、暇で仕方がなかった。
一国の王女と言えば聞こえは良いが、要はずっとただ一人で小さな島に閉じ込められているのと同じだ。
マリリンは自分の国が好きかと言われれば好きではなかった。
古い城の中。
一面、白と金で彩られた部屋は彼女の一室だ。
シャワーの湯船にお湯を溜め、簡素なシャツを広い部屋に落とした。
誰かが勝手に新しい服を持ってくるだろう、とマリリンは長い髪をシャワーで洗う。
自分の部屋には勝手に入るな、と何度も言ったが無駄なのだ。
長い髪は光源によっては薄いピンクのような、淡い紫に見えるような不思議な髪だった。マリリン本人は癖が酷いし、冬はパサつくしであまり好きではない。
シャワールームから出ると、元、側近のユリウスがソファーに座って雑誌を読んでいた。
「そりゃ、いつでも歓迎はするけど、もうちょっと連絡する、とかないの?」
「連絡? 何故泥棒にわざわざ」
「泥棒じゃない! 怪盗!」
「はいはい、さっさと服着て下さいよ」
相変わらず、この男は超絶素っ気ない。
マリリンは不機嫌なオーラを隠さず、バスタオルで雑に髪と体を拭いてバスローブを羽織った。
「久しぶりに来たと思ったら随分な」
「そうしろ、と言ったのは貴女でしょう。社交辞令も謙遜もいらない、と」
それはそうだ。
この男は真面目過ぎるのだ。それではつまらない。
マリリンは彼が側近だった際にそのように教育をしたので、彼、ユリウスがマリリンに対して冷酷で素っ気ないのは普段とそう変わらないが、無表情な顔を見てマリリンは理解していた。
「何、もしかして怒ってる?」
「当然です」
アンティークのベッドの上に座ってマリリンは足を組んだ。
ユリウスは怒ると中々怖い。滅多に怒らないし、叫んだり喚いたりはしないが突然、突拍子もない行動に出るのだ。
「何、そんなむくれて」
「今すぐ、あの予告状を取り消して下さい」
「それは無理」
「はぁ?!あんな鐘、欲しいのですか?どこに置く気ですか」
「あれで最後さ。あの鐘は元々、この国の物だったんだ。置場所ぐらいある」
「……え?」
ユリウスの無表情が崩れた。マリリンの裸を見ても眉一つ動かさない男が。
「妹がさ。結婚したいって言うんだ」
「それが……理由ですか」
「盛大に祝ってやりたいじゃん」
マリリンの言葉に頭を抱えた。
「あの鐘じゃなくてもいいじゃないですか」
「嫌だよ。結婚式と言えば鐘だろ?何せ、妹二人が結婚したい相手がいるってんだから」
「……そうですか。それが動機ですね」
彼女の妹の一人が、という話なら知っていたが、もう一人も、とは知らなかった。
「ったく、二人とも早いっての」
「……相手は?」
「二人とも日本人だって。会ったことないけど」
「反対はしていないのですね」
マリリンは首肯く。
「私がしていなくても、一部の政治家や王族はするかもな。何せ、二人とも非国民が相手だ」
「……そうですか」
「まぁ?私が先に、一部の王族が納得するような王子を見繕えばもっと楽に話は進むかもな」
「それは……」
「嫌だよ。言うまでもないけど。そうなったら私は一生、この国に監禁される。そんなつまらない人生は嫌だ」
彼女の言うこともユリウスは概ね理解していた。彼女は無邪気で新しい物が大好きな、好奇心旺盛な女性だ。
何もかも恵まれているが、誰もいない。何もない。
そんな国で生き続けるのがどんなに苦かとユリウスに良く論じた物だ。
「それは理解していますが、今回は相手が悪いです」
「相手?そういや、盗んだ盗品返せって後に交渉して来ることはあったけど、盗む前にお前がとやかく言って来るなんて珍しい」
「俺だって本当はこんなことしたくないですけど」
ユリウスの機嫌が悪い理由をマリリンは理解した。
「そもそも、お前が勝手に国を出て就職なんかするのが悪いんだ」
「今更、その話をしますか」
「今更じゃない! お前は私のものだ。そういう契約だったのに、破ったのはどこの誰?」
「側近相手に変に言い寄るのが悪いと思います」
ユリウスはしれっと言った。
「拒まないくせに」
「王女を目の前にそんなこと出来る人間がいますか」
「出来るだろう。お前は私のもので、お前自身のものだ」
瞳の色をマリリンの地位に動かされるな、と教育したのは確かに彼女だ。
だから、マリリンにとってユリウスは最も信頼した側近だったのだ。
突然、彼が消えてしまうまでは。
「それこそ、無駄の延長ですよ。貴女のモノである、ただの普通の人間が何になれると言うのです」
「……ユリウス?」
「俺だって、貴女を相手にするとなった時にそれなりの、……決意ぐらいしましたよ」
「……変な顔」
「ちょっと!」
「いやぁ、そういう台詞を言うときぐらい、もっと格好付けろよ」
「無茶苦茶言わないで下さい」
ユリウスはつんと済ましてそっぽを向いた。
しかし、マリリンは彼のそういう、生真面目な所に惹かれたのでそれでは何も言えなくなってしまう。
「普通じゃないでしょう。普通、って重装備のガンブレードを2丁振り回して悪霊を狩る人間を普通とは言わないわ」
「うるさいです!」
「そんなに心配しなくても、私だってそれなりの準備はしてるわよ」
「そうですか。まぁ、せいぜい失敗して死なないで下さい」
ユリウスはソファから立ち上がる。
「そうね。そうなったら引退するわ。で、私に貰われる最後の盗品は貴方よ。ユリウス・クリストフォンス」
「……はぁ?」
マリリンはその腕を掴んで引き寄せた。
「分かっているんでしょ? 私だってプライドぐらいあるのよ。さすがに、妹に先越されるなんて嫌よ。相手がいるのに」
そして甘く囁く。
ロンドンから眺める月も丸い。
しかし、まだ外は日が暮れたばかりで藍色の空だった。街の伝灯と合間って明るい。
一ノ宮月臣は時計塔から街を眺めていた。
少し寒いが、時間の割には明るい。
彼の金色の髪が夜風に靡く。
「どう?」
愁一は月臣を見上げて問いかける。
「まぁ、眺めは悪くないな」
月臣は愁一が着ることは無かった藤堂高校の夏服を着ていた。紺のネクタイが靡く。
「そうだ。前、生徒会委員にお前にこれを渡してくれ、と頼まれたんだ」
「……え?」
月臣は鞄から一冊の冊子と筒を愁一に渡す。
「これは?」
「卒業アルバムと卒業証書だ」
「……でも、俺……」
「桂一が……まぁ、いいだろ、ってさ」
「……でも」
「受け取って置くべきだ。世界にいたら関係ないのかもしれないが、この世界で生きて衰えるのならあって困るものではないだろう」
月臣は愁一の方を見ずに言った。
そんな姿を眺めて、綺麗だなぁ、と愁一は思う。
「……そうだね。ありがとう」
愁一は素直に礼を言った。
彼の、海色の瞳が愁一を見つめる。
「ま、これが俺の用事さ。わざわざ、こんな遠い所まで来た甲斐があったよ」
「そういえば、最近少し変わった?」
「……え?」
「前より存在感があるっていうか……なんと言うか」
「ああ、まぁ。後輩に狩師がいて……」
月臣は渋い顔をしている。
「そうなんだ! 良かったねぇ!」
「良くない! 全く、メガネを掛けているくせにチャラいんだ。全く、性格が合わん」
「大丈夫、大丈夫、皆性格合わないって言いながら上手くやってるよ。そっか。それでか」
「……何か変か?」
「変ではないけど、……魅力全開って言ったら良いのかな。美味しそうな霊力の匂いがするよ」
「……あぁ、俺の起源は月だから。種族や人によっては惹き付けてしまうんだ」
「……月、か」
愁一は時計塔から夜の月を見上げた。
日は落ちて、空が暗くなる。
「俺は人ではない。その事実が怖かった。何千年も」
「月臣君……」
「まるで、月明かりに照らされた街の静けさのような怖さだ。影は間延びして、まるで自分だけはこの世界から弾かれた存在感。ふと感じる絶望と孤独。家にいてもそこは自分の家ではない。どこか、全てが無機質で他人事なんだ」
愁一は彼の言葉を静かに聞いていた。
「君は……」
「そうだな。平安時代前後に月から来た宇宙人、とでも言っておこう」
「かぐや姫みたいだね」
「……ま、種族的には同じじゃないか。本当の話なら。だから、お前の気持ちは少しは分かるはずだ。魂送師だけど」
「うん」
「こうして、普通にこの世界で生活出来ることにも感謝しているよ。そんな俺から言わせれば、お前はさっさと上杉に会って言いたいことは言ってしまうべきだと思うが」
「……ん、んん?」
「回りくどい、と言ったんだ」
「ちょっ、月臣君!!」
「俺のような代用品を幾つ見繕っても上杉には勝てないんだよ。それぐらい、分かっていると思ったが」
愁一は忘れていた。
彼は藤堂高校生徒会長。恐怖の大魔王だ。
月臣はくるりと背を向けて、時計塔から降りて植物園に戻っている。
「え……!? どこ行くの?」
「用事が済んだので帰る。これは俺の仕事ではない」
「え、待って、ちょっと待ってぇええ!!!」
「うるさい。上杉にでも頼め」
「そんなぁあ!!」
月臣は振り返ることなく行ってしまった。
愁一は伸ばした手を下ろして息を吐く。
手元に残ったのは卒業証書とアルバムだった。
パラパラ捲ると、当然だが愁一の姿はほとんどない。しかし、アルバムの最後のページを捲って手を止める。
クラスメイトの書き寄せで白いページが埋まっていた。
それを見た時、さすがの愁一でも静かに涙を落とした。
孤独の恐怖。
そんな恐怖を彼も感じるのだろうか。
感じたことがあるのだろうか。
そして誰かと一緒にいる今、彼は幸せだろうか。
「……駄目だ。言いたいことは色々あるのに、いざとなると何も言えなそう」
しかし、それは嫌な感情ではない。
おそらく、人間らしい感情、とはこういうことを言うのだろう。