三の幕 透明な少女
これはさっさと済ませてしまいたい案件だった。
鏡一狼には表へ出て輝く、ということに関しては一切の興味はない。もちろん、最低限の仕事として解説もするし、教室の講師もする。今は勝手に試合が動画に流れる時代であるが、鏡一狼はそれを自分で見たことはなかった。
にこやかに老人達にファンサービスをしつつ、指定のスタジオへ向かった。
女子高校生はあれ、誰だろう、と不思議そうな顔をしている。そんなものである。
鏡一狼は出演に際して一つ条件を出した。出ているプロフィール以外は尋ねない、ということだ。
彼が世間一般に公開しているのは、桜小路鏡一狼七段。暁家門下生。趣味は昼寝。以上である。
それら以外の情報は破棄されているので調べようがない。
あまり自意識過剰になるのも嫌だな、と思い鏡一狼はスーツの襟首を直してスタジオの内部に入る。
ここまで大がかりなスタジオには初めて入るし、楽屋が用意されているので少し緊張した。
「申し訳ありません」
部屋に入る直前。スタッフに呼び止められて思わず固まる。
「はい?」
「桜小路様の楽屋が、今朝突然……水道管のトラブルで使えなくなってしまいまして……」
ああ、不幸付与は続行中か、と鏡一狼は顔に出さずに思った。
「ええ、そうでしたか」
「隣の沙浄羽雪と同室になってしまいまして……」
「さじょうはねゆき?」
「ご存知無いですか? 今、噂のエスパー少女」
年下の女子が同室という話だった。
どうやらこの人はその少女側のスタッフの様だ。それにしても、呼び捨てなのかと少し鏡一狼は顔をしかめる。
同室と言えど、楽屋が同じ、というだけだ。こちらが変に気を使うこともないだろう。
「ええ。そちらが構わないのであれば結構です」
鏡一狼は怯え気味のスタッフに言われるままに隣の部屋のドアを軽くノックした。
「……どうぞ」
か細い声が聞こえる。
部屋に入ると中学生ぐらいの少女が楽屋の鑑を面した椅子に座っていた。その姿は限りなくグレーだ。淡い灰色の髪。鏡越しに見える灰色の瞳。
さて、どうしたものかと鏡一狼は考える。
参ったな本物だ。
収録の対面時間は約5分。そっと楽屋の扉を閉じて鏡一狼はその少女に話しかける。
「こんにちは」
「……こんにちは」
少女は振り返らず、妙な間があった。しかし鏡一狼はあまり深く考えず、少女に紙袋を渡した。少し選ぶのに苦労した、女子が喜びそうなお菓子セットの差し入れだ。
「沙浄羽雪さん。これ、よろしければ」
「……はい」
「ここ、少し寒いですね」
「……はい」
季節外れの冷房の設定に少し驚く。まるでこの部屋が冷蔵庫のようだ。
「神通力を使う前に物は食べません」
そして、ただ、少女の声が機械的に聞こえた。
後ろ姿だけ見ればクラシックな白のワンピースを着た少女だ。
彼女が今日一日、五分間、鏡一狼を神通力で霊視する少女だった。
収録が始まっても鏡一狼はひたすら無心で椅子に座っていた。聞くに、どうやら彼らは鏡一狼の囲碁の快進撃に霊的な何かが絡んでいるのか、を霊視したいらしい。それが番組のコンセプトでそれぞれ、丸い机と椅子だけの部屋に何人かが入り、面談のような適当な会話をして出ていく。その一人が言った。
「苦労なさったでしょう?」
閉鎖された洋風の部屋。撮影機材とマイク。簡易的な部屋だ。
「ええ、まぁ」
「貴方の星周りはあまり良くありませんね」
「苦労なさったでしょうね。暁家は、家族ではありませんし」
「そうですか」
と、いう感じで適当に返答をする。こんな番組の何が面白いのか、鏡一狼には理解出来なかった。
最後に入って来たのは灰色の髪の少女だった。正面から見ても無機質な顔でこちらを向いてはいるが、見ている訳ではない。
相手は中学生だ。
営業用に微笑んで見たが険しい顔をされる。彼女の霊力は確かに鏡一狼も感じた。
しかしその霊力で鏡一狼の呪いをはね除けることは不可能だ。
だから鏡一狼は眼鏡を持参しなかった。あれは視界を制御する変わりに言葉の自由が解放される術具だ。ない、ということは彼女は鏡一狼の視界を突破しなければならない。それほどの霊力を持っているとも思えないし、そんなことをすれば彼女自身が危険だ。数分の時が過ぎる。
「どうですか? 沙浄さん。何か見えるかな?」
見かねて司会者が尋ねた。
彼女の顔は険しく、鏡一狼を見ている訳ではない。その力の向こうを視ようとしていた。
「わ……わかりません」
その言葉に会場はざわめく。
そんなことよりも、どうやら随分無茶したようだ。彼女の顔色が悪い。早くこのスタジオから出るべきだ。
「分からない? あの、天才少女の沙浄さんが?」
「分からない、ってそりゃ、術者としては最悪よ」
「ありゃりゃ、疲れてるのかな?」
司会者や他の霊能師が騒ぎ出す。笑い声まで聞こえて来る始末だ。
「いえ、彼女は間違ってはいませんよ」
鏡一狼の言葉にスタジオは静かになる。
そもそも鏡一狼はあまり人前で、テレビの前でなら尚更話さない。机の上で腕を組んで、少女の様子を伺った。気分は大分悪そうだ。
「それは……どういう意味でしょう?」
司会者の言葉に鏡一狼は手を顎に当てて考える。
「だって、俺の経歴は暁家以降は白紙の筈です」
鏡一狼は目の前の一滴も減っていない紅茶のカップの縁を指で撫でながら言った。因みに、鏡一狼はアルコール、カフェイン類等、脳に影響を及ぼす嗜好品は一切摂らない。これも調べれば分かることだ。
「ええ、ですから、その過去を霊視して頂こうと……」
「だから、それは無理でしょう。すでに白紙なのにどうやって調べるのですか?」
鏡一狼の言葉に会場がざわめく。気にせず、鏡一狼は立ち上がった。
「霊視して頂ければ何かしら……」
「無理ですね」
「しかし、これまでの霊能師は……」
「あれが霊視? またおかしな話だ」
鏡一狼はその部屋をくるりと見回す。
「だ、だって、桜小路先生は苦労なさった、という霊視に同意しましたよ」
「この世に苦労していない人間などいません」
鏡一狼はきっぱり言い切った。
「貴方の星周りが良くない、というのは……」
司会者の言葉に鏡一狼はやれやれ、と答える。
「俺が暁家にいる、という時点で星周りが良いとは思えません、ということでしょう?」
「では、暁家が本当の家族ではない、というのは……」
「だからといってそれが苦労の要因ではありません。暁家には感謝してもしきれません。暁家との関係は家族代わりであって、それ以下もそれ以上もありません。俺はそれ以上も以下も求めていません」
周囲がざわめく。
「……っ!」
どうやら少女はもう限界だ。
「俺の周囲を調べれば、それぐらい分かると思いますけどね。それをわざわざ霊視するなんて茶番としか思えません」
鏡一狼はもう一つ、術具の扇子を取り出した。これは反射具だ。このスタジオに満ち溢れる邪心を遮断する力がある。
「……あの」
少女が口を開いた。
「大丈夫」
それに笑顔で答えて鏡一狼は扇子を縦に持ち、降り下ろす。簡単な結界を解くとドアノブがガチャンと落ちた。
そして重々しい音で扉が開く。
冷蔵庫のような寒さの楽屋で鏡一狼はミネラルウォーターを飲んでいた。元々長居をする気はない。
しかし、楽屋のソファにはあの少女が座っていた。頬は赤く、腫れている。鏡一狼は冷房を切って彼女に濡れたハンカチを手渡す。
「大丈夫?」
少女はそのハンカチを受け取った。
「……お兄ちゃんはここまで分かっていたの?」
「どうかな……分かっていた、とも分かっていなかったとも言える」
そして温かいペットボトルのお茶も渡す。彼女の灰色の長い髪はサイドで小さく三つ編みになっていて残りが肩に掛かっている。
「でも、いいの? あんな言い方したら、みんなお兄ちゃんに興味が行っちゃうよ」
「好きにすればいいさ。どれだけ霊視しようが調べようが、これ以上のことは出てこない。それが術者というものさ」
思ったよりも、ずっと可愛い子だった。少々口調は無機質だし、視線は虚ろだが、普通の少女だ。その姿を見ると流石の鏡一狼も申し訳なく思って置きっぱなしのお菓子セットをもう一度彼女に手渡す。
「済まないね。どうやら俺の力と君の力とでは相性が悪かったみたいだ」
「ううん。いいの。……でも、ごめんなさい。これ食べられないの」
「どうして?」
鏡一狼は顔をしかめる。食べたくない、ではない。食べられない、と彼女は言った。
「穢れた物は力を鈍らせる。きっとお母さんが怒る」
「そんなことはない。これはもう、人に食べられるべき物になってしまった。食べられないのであれば廃棄されるだけだ」
そんなこと、分かってはいるのだが。鏡一狼は溜め息を吐く。その紙袋は彼女の手の上に乗った。
「……ありがとう」
「……しかし何故、君は、あの時分かった明確な事実を言わなかったんだ?」
「……え?」
「あるだろう。間違いない事実」
「それは……桜小路先生が困るといけないから」
「鏡一狼でいいよ。どっちも長さは変わらんが。……困る、ね」
少女は頷いた。
当然だ。あの時、鏡一狼は少女の力を跳ね返したのだから。
「分かった。鏡一狼くんに力があるのは分かった。でも、それを鏡一狼くんが知っているのかは分からなかった」
「だから言わなかったのか」
「……」
少女は頷いた。
「ありがとう」
「どうして?」
「何故、って、君は善意で俺に力がある、と言わなかったんだろう。そういう善意には善意で返すべきだと俺は思うよ」
もう一度、屈んで彼女の頬に濡れたハンカチをそっと当てる。
「……善意」
「これは?」
「お母さん。……戒め」
「……まるで宗教団体だな」
やれやれ、と鏡一狼は溜め息を吐いた。
「鏡一狼くんは違うの?」
「ああ。もちろん。そろそろ時間だ」
「鏡一狼くんの?」
「いいや、君の、さ」
「まるで、貴方が私を霊視したみたい」
案外、それは間違いではないのだろう。
鏡一狼は少女にハンカチを手渡し、そっと楽屋を去った。
瞬間、血相を変えた母親と視線が合うが、彼女の言葉を無視して鏡一狼はその場を去る。
スタジオを出ると暁千明がそわそわと外で待っていたらしい。
「待っていてくれたのかい?」
そう声をかけると、ビクッと肩が揺れる。
「別に、待ってた訳じゃ、たまたま通りかかって……」
そんな千明の言葉に鏡一狼は微笑む。
「……帰ろう。少し疲れた」
鏡一狼は堂々と道を歩いた。過ぎ去る人々は彼を見て何かを言っていたが、彼には関係ない。
「大丈夫っすか?」
「何が?」
「いや、色々」
「大丈夫。もう懲り懲りだが、そういう訳にも行かないらしい」
「神通力、っすか?」
「いや。彼女と縁が出来てしまった」
「……縁?」
「俺と千明にもある繋がりだよ」
鏡一狼は手を掲げ、太陽の光りを翳す。
「縁? は分かりました。で。鏡一狼さん朝飯食いました?」
「……」
「今、昼ですよ」
「……」
「……またか」
「ほら! ゼリー的な、あれは食べたよ!」
「それは食事とは言いません」
「面倒だったんだよ」
「それはいい訳っす」
「……はい」
「何なら食べられるんですか?」
「……千明」
「……はい?」
「俺の物にならないか?」
「俺と会話する気、あるのかよ」
道は雑多に混んでいた。ガードレールの内側にはサラリーマンや女子大生がコンビニに向かって歩いている。昼時だからだろう。
物、と言った。どういう意味なのか考えるのも千明は面倒だった。
「マンション買ったんだ」
「へぇ、……へぇ!?」
驚きはしたが鏡一狼の賞金ならば可能だろう。
「買ったはいいけど……俺一人じゃ生活出来ない」
「でしょうね」
千明はそのまま鏡一狼の後ろを黙々と歩く。
鏡一狼はくるりと振り返る。
「俺と住む……ってのは駄目かな」
彼にしては珍しく歯切れが悪い。困惑した表情も珍しい。
「京都ならいいっすよ。親父がいいなら」
「今度、研修会をやる時に言うつもりだったんだ。息子さんを下さい、って」
「それってちょっと違うだろ!」
「違わないさ」
鏡一狼は翡翠色の瞳を鋭くして言った。
「しかし何故、マンション……」
「土地がよかったんだ。色々な人が来れて、泊まれるべき所が……ね」
彼の含んだ笑顔に間違いはない。
「俺はお手伝いさん、って所ですか」
「……違うけど、言ったら怒るよ」
「何すか、弟? それは慣れてるし……」
「……何がいい?」
すっと鏡一狼は千明の頬を撫でる。
こういう所がいけないのだ。
立場上、千明は彼の弟のような存在で、お手伝いさんのような存在だ。
式神のようなものでもある。それは千明が望んだ結果だ。
己が望んだから犬神の血が目覚めたのだ。
「……どうぞお好きに」
「全く、困った人だ。君が好きに決めればいいのに」
鏡一狼は不服そうな顔をしている。
「何でっすか。俺は……貴方には好きに生きて欲しいだけです」
「好きに、か……」