第九夜 平和的日常、猶予、予兆
こうして、我々の間には平和同盟が結ばれた。それぞれ3つの辞書の正しい持ち主であることがその場で約束される。
グレゴリは一つ溜め息を吐いてこう言った。
「仕方あるまい。世界を滅ぼされる訳にも行かんしな」
と、指をパチンと鳴らしただけで図書室の全てを戻した。
突然、戻った日常に私はハッとする。
「ダンダリオン!」
「分かった、分かった」
ダンダリオンは素直にマスコットに戻ってくれた。
「……何だ、それは……」
「ダンダリオンが悪魔だとバレると厄介でしょう」
「その点、グレゴリは大丈夫。羽さえしまえば普通の人間だからね」
奄美先生の言う通り。
華麗に羽を戻したグレゴリは私たちとそう外見年齢は変わらなかった。少し癖っ毛の金髪。
紫の瞳。仕立ての良い深紅の服。
物語に出てくる貴族のようだ。
「今回は手を引いてやる。それに、下界を謳歌するという我輩の目的は叶うだろうし、杉本透にしても手がない訳ではない」
「まぁ、契約したからにはちゃんと面倒見るから安心して」
「……分かり……ました」
私はその場で倒れた。そういえば、腹に傷があるのを忘れていた。
それから、私はしばらく眠っていた。
ダンダリオンが軽く止血したり、看病してくれた記憶は少しある。けれど、私は自室はベッドの中でこんこんと眠った。時々水を飲んだ。痛くないのはきっとダンダリオンが何かしてくれているのだろう。夜になっても眠いのも、きっと。
不思議と月明りに目が覚めると、
私のベッドの横にはあの侍がいて一瞬夢かと思った。
起き上がると腹に激痛が走る。
「駄目だよ。急に起きちゃ」
「どうして……」
「えっと、話に来たんだ。と、言うか色々言い忘れたと思って」
侍は私にそっと湯呑みを渡した。良く見ると白湯だ。
「ダンダリオンは?」
「そろそろ何か食べさせようと必死に模作してるよ」
「じゃあ厨房ね」
私はゆっくり、その白湯を飲んだ。胃に染みる。
「私に話って?」
「俺は思念ってやつだけど、刀で力のあるもの全てを吹っ飛ばせる兵器なんだ。対異端者に対するね。しかも冥界が作った転生兵器という質の悪さ」
「だから名前がないの?」
「いいや。俺は人間、世界の幾度ない危機に立ち向かっては消えては転生する兵器でね。その一部が思念として記録されている」
「ふむ……」
「つまり、別の世界には別の状態で生きる俺がいるのだろう」
「でも名前がないのは困るわ」
「じゃあ、愁一とでも呼んでよ。元の人間の名前」
彼は私の手の平に漢字を書いた。哀愁の愁に数字の一。とても彼らしい名だ。
「分かったわ」
「俺を呼ぶ時は気を付けるんだよ。とにかく、魔法でも、別の力でも、何でも俺は全てを斬れる。もちろん、あの本も悪魔も世界に吹っ飛ばせば全く魔法がない世界も作れる」
「この世界は魔法がある世界なの?」
「そうだよ。だってあんな辞書があるんだよ? この世界は『普通の世界』からずれた世界だ」
今更だけど、私は驚愕した。
彼が言っていることはつまりはパラレルワールド。
平行世界の事だ。普通の世界ならきっと竜も魔法も悪魔もいないのだろう。
「でも心配することはない。人が、大衆が乱用悪用レベルじゃない。その辞書が最もって所じゃない?」
愁一さんは美しく微笑んだ。
月明りに深紅の瞳が光っている。
「本は……燃やすべき」
「それはどうかな。少なくともあそこまで人の手が入ったブラックボックスは早々ないよ。しかも今までの全てを記録しているなんてね」
「……ブラックボックスって」
「ブラックボックスとは、内部の動作原理や構造を理解していなくても、外部から見た機能や使い方のみを知っていれば十分に得られる結果を利用する事のできる装置や機構の概念。転じて、内部機構を見ることができないよう密閉された機械装置を指してこう呼ぶ。3つの辞書の基本的システムだ」
「ダンダリオン……」
「永遠の空間に人間や、鳥や、世界の縮小が閉じ込められていると考えれば良い」
ダンダリオンは土鍋を持って室内に入って来た。手慣れた様子で明かりを灯す。
「起きれるか?」
私は頷いた。
気が付いたら愁一さんは消えていた。
だからイデア辞書は白紙なのだ。辞書、とは言えまるで底のない箱のようである。
「そんなことが出来るなんて、創者ってすごいのね」
「いや。創者に出来たのは本にイデア変換という力を付与するまでだ。どうやってこのブラックボックスを生み出したのかは検討がつかん」
ダンダリオンはベッドサイドに土鍋を置いて、タオルを使って鍋の蓋を開けた。
華麗な卵雑炊だ。
私の胃はびっくりしたように胃酸をギュルギュル出した。
上には椎茸と三葉。小皿にちりめんじゃこ。
とても私の好物だ。揚げ物ではない。実は魚が大好きなのだ。
「これ、ダンダリオンが?」
「……まあな? あーんってやつ。やってやろうか?」
「結構です!」
私は丁寧に小鉢に雑炊を移して、じゃこをかけて頂いた。
やっぱりとっても美味しい。
「そのじゃこは隣の魚屋からの差し入れだ」
「そうなの? 後でお礼しなきゃ!」
「お前の学校と同じ制服を着ていたが、知り合いか?」
「商店街の人よ。三つ先の魚屋さん。私、商店街のクラスメイトとは仲が良いの。隣は料亭で正面は八百屋さん」
「……やっぱり、我輩も学校に行きたい」
「でも、もう危険なことはないんでしょ?」
「この姿でいいだろう!」
ダンダリオンはポンッとモフモフのマスコットに戻ってベッドサイドをぴょんぴょん跳ねた。
ベッドサイドには私が作ったダンダリオンの寝床がある。
ランプの位置をずらして、キャラメルでレンガ風に壁を作り、まち針の台でベッドを作った。
中々の出来でダンダリオンも喜んでその小さなベッドの上に乗った。
「土鍋は後で親父殿が回収しに来る」
「分かったわ。けど、ぬいぐるみを持っていく訳には行かないからちょっと考えなきゃね」
「うむ」
私はダンダリオンにそっとタオルケットを被せた。
「そういえば、ダンダリオンはもし本から開放されたらなにがしたいの?」
昼間に寝すぎたせいか私の目はとても冴えていた。
「そりゃ結婚だな」
「結婚!?」
「当然であろう。愛に目覚めて我輩は開放される。我輩のドイツの城に招待して存分に挙式だ」
「そういえば、公爵……偉いんだっけ? お見合いとかした方がいいのかな」
「何故、急に」
「私もダンダリオンが愛に目覚めて、本から開放されるのが一番いいと思う。つまり、ダンダリオンが恋愛を成就してね」
「……ふむ」
「公爵ならお見合いとか合コンとか開けないの?」
「我輩はそういった喧しいものに興味はない」
「……奄美先生とか」
「創者に似たあの教師か……? ゾッとする。時に、何故、そう急ぐのだ? 我輩がここにいるのは迷惑か?」
「ううん、違うの、そうじゃない」
私はベッドサイドの棚から一通の封筒を取り出した。
分厚い封筒は私が寝ている最中に届いたものだ。
封を開くと中には英語と日本語両方で書かれた契約書のようだった。読めば内容は分かる。
「簡単に言えば辞書の権利を我々研究所に寄越せ。そうすれば金一封を授けよう、って感じね」
「……そんな物がいつの間に!」
「私が寝ている時に、窓をすり抜けて来たの。多分、ちょっと前に追い払った魔術師じゃないかしら」
「冗談じゃない。研究? そんなことをされるぐらいなら燃やすべきだ」
「私もそう思うわ。この辞書は魅力的だけど危険よ。守護神が開放されたら一層」
今はいい。
今のところの本の持ち主は私と杉本さんと奄美先生。
二人はこの奇妙不思議な辞書を金で売ったりしない。
「……我輩は一生この辞書と共に生きるべきなのか……」
「……ダンダリオン……」
それではあまりにも彼が報われない。
そもそも、何故、創者とやらはこんな辞書を造ったのか。
この世界はそのちょっとの魔法さえなければ普通の世界なのに。私は窓から見える月を見つめた。
普通の綺麗な月だ。
二つあったりしない。
普通の世界だと思っていた。けれど違った。これはちょっとした恐怖だ。当たり前のように悪魔も天使も堕天使もいる世界。子供の頃、憧れた物語の世界。それがこの一冊に縮小されているのだ。私は今更、この本の価値が恐ろしくなった。
翌朝、私は学校に行くことにした。もう歩き回れるし、傷は塞がっている。無茶をしなければ大丈夫だろう。
そんな時、担任の奄美先生から電話があった。
『やぁ、おはようさん。傷は大丈夫かな?』
「はい。どうしたんですか? 急に?」
何日か休んだ位でこの先生は心配したりしない。
『要件を直に言うとさ、例の手紙、どうも怪しいと思わない?』
「……はい。確かに……」
しかし、私には何がどうして怪しいのか上手く説明は出来なかった。
『私は天崎さんの事情は色々知ってる。本当の両親は無くなったんだっけ?』
「はい。何をしていたかまでは分からないんですけど」
『……陰陽術』
「え?」
『ごめんね、調べちった。天崎さんは、あの書類に自分の本当の両親の名前があるか分からないんだよね?』
「はい……分からない……です」
『私、もう少し探って良いかな? 天崎さんが嫌なら勿論止める』
「いえ、お願いします!」
私は思わず叫んでいた。
私は知らない。
本当は自分が何者で、誰の子供で、どこで生まれたのか。
『それに、どうもキナ臭いんだよね。メモリアルブック……千年前とか言うけど、本は綺麗なもんよ。ホコリ一つない。本のページは全部真っ白。しかも技術は古代魔法と言うよりは最先端テクノロジーに近い』
「……先生、もしかして徹夜しました?」
『まだ大丈夫、大丈夫! また何か分かったら連絡するね!』
通話は切れた。全く、勝手にことを進める人だ。
そして、私は一考してダンダリオンの前に立った。
「な、なんだ伊鞠……」
「覚悟はいい? ダンダリオン」
用意したのはマスコットのないストラップの部分だ。
「ま、まさかそれを我輩の頭にぶっ刺す気か!」
「あら、察しが良いわね。この屈辱的苦行に耐えられるなら学校に連れていってあげる」
「む、むむ……」
私はストラップの紐の部分に指を入れてくるくる回した。
「良いだろう」
ダンダリオンは覚悟したのか、頭を下げた。私も容赦なくストラップを頭にぶっ刺す。
朝、悪魔の断末魔が家中に響いた。
鞄に揺られるダンダリオンの目は死んでいた。
まあ、数分で回復するだろうから大丈夫だろう。
私は三日ぶりに電車に乗った。
大丈夫、気分は悪くない。運良く座れ、念のため用意したお茶の水筒を少し飲んだ。
気が付いたらこんなに暑くなっていた。
カタンッと電車に揺られ私は気が付く。正面の女子高生たちがダンダリオンを指差しくすくす笑っていた。可愛い、だとか聞こえるので特に気にしないことにしたが、確かにマスコットにしては大きい。
その時、私は何かにぶつかった。
剣道の竹刀袋だ。
隣の高校生が背負っている。
それには獅道という刺繍とライオンのマスコットがぶら下がっていた。この辺の人ではないのだろう。
昔懐かしい真っ黒な学生服なんて最近は滅多に見ない。
「あ、ごめんなさい」
「いえ……愁一さん?」
私は驚いた。目の前にいたのはあの侍だったのだ。