第八夜 透明な心、透明な体験、無知な知識
「杉本さん!」
私の真後ろには吹っ飛ばされたペンネちゃんを抱き締めた杉本さんがいた。
そして悪魔、ダンダリオン。
「遅い!」
「痛っ! これでも飛ばして来たのだぞ!」
「全く、魔力がまるで足りなくて何も出来ないの! ペンネちゃんがボロボロで、……私……!」
「何故そうなった」
私は真っ直ぐ、教師の奄美冴子とその堕天使を指差した。
「杉本透を寄越せ、って謎の結託をしたの」
「だ、そうだが」
ダンダリオンは後ろの杉本さんに聞いた。
とても気軽に。
「後免です。そもそも、追い出したのはあなた方でしょう」
とても怒っている杉本さんはやっぱり凄い迫力だ。
そんな杉本さんを見て奄美先生は少し寂しそうに頭を掻いた。
「伝わらないかねぇ、この親心」
「貴様に子の心が分かるだけの経験があるのか?」
奄美冴子とグレゴリ。
この二人が何とも不思議なのだが、そもそも二人の求める人間は杉本透で、その杉本透を得る為に瞬間的に契約した。
無論、私たちと対立するために。
今なら、きっとあの侍が呼べるはずだ。ダンダリオンの魔力があれば。
「見事に対立したな。まさか博士の取り合いになるとは予想外だ」
「ダンダリオン、魔力」
「お前は強盗か何かか」
「いいから、私じゃ足りないの!」
「分かった」
ダンダリオンは素直に私が手で翳す本にそっと手を添えた。
「強き侍よ、我に力を!」
自分でも随分雑な呪文だがそもそも決まった詠唱方法なんてないのだ。
本のページは勢い良く捲れ、桜の花弁が舞う。
何処からか聞こえて来る鈴の音。目の前にはあの黒髪で真っ黒な袴の優男が立っていた。
白い羽織には獅子が裏に描かれ、表はまっ白な地に椿、桜の花の見事な模様が入っている。
彼はまた何でも無さそうににっこりと微笑んだ。
「貴様ら、一体何を呼んだのか分かっているのか!」
明らかにグレゴリは焦った顔をしていた。
「まるで見たことない武将だけど?」
奄美先生は歴史の先生だ。その先生でもきっと彼の姿から本性は暴けないのだろう。
「当然だ。アレは武将などではない。神で……いや神の作りし兵器と言った所か」
「ふーん。じゃあ、侍で対決しようか。勝った方が負けた方に従う。実にシンプル」
奄美先生は緑色の辞書をぐるぐる器用に廻しながら言った。
「どういうこと?」
「これは解説と説明の辞書なんだよ。だからそれらを再現するために一時的に再構築が可能なんだって。つまり一時的なビジュアル化。そっちとは原理は違うんだけどね」
「もう既に本の扱いを熟知していると言うのですか?」
だとしたら、本当に対決することになるだろう。奄美先生はニッと笑う。
「私はゲームとか大好きだからね。説明書は読まない派。良いじゃん。面白そうだね。私のリスペクトする侍が戦っている所が見られるなんて!」
「魔力は我輩のなんだが」
「ケチケチしない! このビジュアル詐欺のジジショタ!」
「なっ、だとおおお!」
しかし、何故そんな喧嘩腰なのかこの二人。
「さっさと呼べるもんなら呼んでみなよ。足利義輝を!」
奄美先生は笑いながら緑の辞書でグレゴリの頭を殴った。
頭のネジが外れたように笑っている。
きっと、元々こういう人なのだ。
足利義輝、という名の武将の歴史をつらつらと呪文のように唱えている。構築されていく。
「まさか、足利義輝を呼ぶ気?」
少し、侍は焦ったような顔をしていた。
「知ってるの?」
「むしろ、君は知らない人か」
「アレアレ、テストに出したんだけど?」
「うっ……」
足利義輝は、室町後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍。足利家秘蔵の刀を畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦ったという逸話が有名である。
「その通りだよ、名もなき侍さん。さて、私のリスペクトする侍はどんな姿なのかな?」
奄美冴子が生み出した文字は黒く集まる。
それらは人の形として再構築される。
室町時代の侍。
私たちの侍はそれを静かに見届けた。
黒い羽織は威厳に満ちた装飾で、それに見合う大きい男。
強面でありながら整った顔立ち。これが足利義輝なのだ。
「……さて、何故こんな所に呼び出された理由が皆目検討もつかんな」
静かな声だ。
それだけで、空間が痺れるような威圧感があった。
そういえば、我々が呼んだ無名の侍には名前がない。そんな事を聞く余裕すらなく、ただ真っ直ぐ立っていた。
「どうやら、世界を終わらせて欲しい訳じゃないみたいだね」
「全く、気軽に呼ばれたものだが、儲けたものだ。退屈で、退屈で仕方がなかったのでな」
足利義輝は刀を抜いた。
そして、無名の侍も刀を構える。
そこには一切の邪念はなく、雑念はなく、雑音はなかった。
対立した侍は理由もなく、いや、理由は彼らの深層において明確にあるのだろう。
その明確な理由がこの場を全て支配していた。
本で、ただの魔力が宿った辞書でこんなことが出来るなんて、私は知らなかった。
私は本当に正しい事をしたのだろうか。
「ダンダリオン……」
「我輩に何を乞う。本の主はお主である。こういった、結果的に野蛮な読書家になるとは思わなかったが、まあ、ただ文字を追うよりは楽しかろう」
つまり、一切の干渉はしないと。
一閃の光の如く決闘は始まった。無名の侍も、足利義輝も現代の人間の尋常を越える速さで刀を捌いた。足利義輝は何処からか刀を取り出しては投げ、取り出しては投げた。
無名の侍はそんな剣撃に対して一本の太刀だけで華麗に対応する。彼の顔面すれすれを刀が通る。
「あははははっ、たまらない、たまらないねぇ、天崎さん。これが戦国時代には日常茶飯事だったの」
奄美先生は授業をするように、解説した。
しかし、それは狂った授業だ。
崩壊する図書室。
「さて、どう納める気だ、我が主。我輩はこれはブラックボックスの乱用と見る。そして、主、伊鞠は後悔の念に苛まれているのではないか?」
「……なんで、なんで分かるの……」
「顔を見れば分かる」
「安心しましたよ。貴女に後悔の念があるのですね」
そう良いながら立ったのは杉本透だ。
私は確かに、しっかりと頷いた。
「これが最先端の読書というなら、間違いではないでしょう。辞書というものの完全なビジュアル化はいずれ化学の力で成功するでしょう。しかし、これは違います。本来ある、今ある本を、現状を全て蹴散らして行う事ではありません」
いつの間にか、刀は図書室全体に広がっていた。
私たちが無傷なのは目の前の侍が守ってくれたからだ。
彼はバックステップで華麗に私たちの所まで下がって来る。
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。だけど、俺の本来の力は能力ある力の切断だから、本気でやったら多分彼を殺すよ」
「……えっ?」
「簡単に言えば存在そのものが消滅するね。彼は本当の人間じゃない。思念的存在だ。向こうもかなり徳が高い。簡単には戻せないよ」
戦いの最中だからか、彼の瞳は殺気に満ちていた。
「正直、こんなくだらない事に呼ばれるなら何年でも眠ってた方がまだマシだね」
「……ごめんなさい」
「……いいよ。反省しているみたいだし、向こうは後で咎めるとして君が我々の戦いを止めたら許してあげる」
「……私が」
「そうすれば向こうも興が逸れて本の元に戻るはずだ」
「……はい」
「そこの使い魔は使わず、一人で」
「……はい」
私は頷いた。
侍の瞳は真紅に光っていた。
彼がきっと本気を出せば足利義輝を倒せるのだろう。
それは消滅を意味する。足利義輝という存在が辞書から消滅するのだ。無名の侍が倒れるということはない。何故なら彼の剣術は極悪非道でいくら刀を無数に持てど、真っ向勝負の足利義輝とでは僅かに無名の侍が勝つだろう。
何せ相手の出した刀で奇襲を掛けるのだ。彼の剣術はそういった類いのモノだった。彼は正義の味方ではない。名高き武将でも。
「大丈夫か、伊鞠」
「うん、大丈夫よ。分かったわ。私のやるべき事が。だからそこで見てて」
そして私はくるりと振り替える。
「これを貸して欲しいの、ペンネちゃん」
「……うん。伊鞠ならいいよ」
私はボロボロのペンネちゃんから巨大な万年筆を受け取った。
「天崎さん……」
「大丈夫、絶対に止めて見せるから!」
私は真っ直ぐ走った。
目にも追えない速さの剣術。
私は真っ直ぐ走った。
私がやることは一つ。
白い羽織を目視すること。壊れかけの階段を登り、一か八か刺すしかない。本来、呼ぶべきではなかった侍を。
「いっけぇえええ!」
足利義輝との間に入り、私は真っ直ぐ、万年筆をその侍に向かって突き刺した。
例え、後ろの足利義輝に刺されたとしても、私はこれをやり遂げなければならない。
私に刺された侍はにっこりと微笑んだ。
「大正解」
そして、美しく本の中に消えた。足利義輝の一閃は私の横腹を切り裂いた。痛いというか熱く、それは血の熱である事を知る。叫んではいけない。足を付いてはいけない。
「どうか、お下がりください」
私はただそう言った。
そう願った。
他に思い付かなかったのだ。
「……良いだろう。その傷に免じて今回は持ち越しだ。呼ばれただけでも儲けモノだしな」
理性のある戦闘狂で助かった、と言うべきだろう。
こうして本はただの辞書に戻った。
「おやぁ、授業放棄、というやつかい? 天崎さん」
「先生、私は貴女の授業が好きではありません」
「またキッパリ言うね」
せせら笑うグレゴリ。
彼からはどうにもあまり意思は感じない。
何故、奄美冴子に乗ったのか。私には分からない。
「間違いではない。臨場感とスリル。先生は授業にそれを求めた」
「求めたってか、退屈で仕方がなかったのよ。みんないい子でお利口さんに教科書っていう下らない文字を頭にぶっこんで磨り減らす。100点の無価値さを分からない」
「僕は今、初めて知りました。奄美冴子。貴女は僕と同類だった訳ですね」
杉本透は言った。
「その通りだよ。杉本君。私は……我々は君が大好きなのさ。尋常を越える知性。頭脳明晰、圧倒的な記憶力と理解力。私はこんな高校じゃなくてもっとグローバルな天才になるべきだと思ったのさ。ドイツは楽しかったかい?」
「ええ。悪くはありませんでした。始めの間は」
「始めの間は?」
「豊富な知識学。恵まれた日々でした。しかし、僕は気が付いてしまった。知識が増えるほど学会では敵が増える。知識が増えるほど、人の非生産性行動に疑問が出る。知識が増えるほど……僕は孤独になるのです」
「孤独……」
「僕は一人であることを知識のせいにしてしまった。僕は一人であることに耐えられなかった。僕は結局、知識を棄ててドイツを出た」
その時の杉本透の表情は愁いを帯びていた。
知識と人の間で葛藤し、し続けたのだろう。
「僕は結局、人としてマトモに生きることを学ぶことが出来なかったのです」
「それは天才には付きものでしょ。古い偉人をご覧よ。奇人、変人のオンパレードだ」
「それは違うと思います!」
だから私は叫ぶ。例え天才は孤独に生るのが正しいのだとしても。
「私は杉本さん……好きですよ。兄さんみたいで」
「天崎さん……?」
「だってそこの二人だって大好きなんでしょ? ペンネちゃんだって大好きなのよ。ただ、高校とドイツではちょっぴり上手く行かなかっただけ。杉本さんはちゃんと杉本さんらしく成長してます……って私が言うのも失礼だけど」
「そんなことは……」
憔悴している杉本さんにペンネちゃんが後ろから優しく飛び付いた。
「これは、私のだから駄目」
三つの本が揃った。しかし、本当に何も起こらなかった。起こしたのは我々だったのだ。
また、頭痛が起こる。何かが霞むような感覚が。