第五夜 本当は知っている、本当は気付いている、本当は分かってしまった。
今日の午後。
家に取り残された我輩は暇だった。
伊鞠の部屋を荒し、飛びまくり、暴れまくると反動でドアが開き部屋のドアの隅にコロッケが置いてあった。
置き手紙には、もう少し静かにね。
とだけあった。コロッケは美味しい匂いがして我輩はその場でガツガツと食べた。
辞書にも載っているプリンも食べたくなった。
そっと、こそこそと下に降りると二人の夫婦がとても急がしそうにしていた。
調度、混み時らしい。我輩は口でキチンと皿を戻してしばらく厨房の中で観察していた。
伊鞠に手伝わせればいいのに。
そうしていると、母親の方にバレてしまった。
「あら? 何かしら、このぬいぐるみ?」
「ぬいぐるみ? そんなもん……」
「伊鞠のプレゼントかも」
途端に父親は黙った。
どうやら伊鞠にとても弱いらしい。
夫婦二人に覗かれて、我輩は仕方なく正体を名乗ることにした。
暇だったしな!
「我輩は悪魔のダンダリオンだ!」
「まぁ! 喋ったわ!」
「……なんだ、電池か」
「電池ではない!」
我輩は真の姿に戻った。
伊鞠曰く大きすぎるらしいが、こうして戻ると確かにここは少し狭かった。
夫婦二人はどんがらがっちゃん! と、すっ転んだ。
仕方なく我輩が丁寧に起こしてやった。
「な、な、なんなんだ! お前は!」
「我輩は伊鞠の持つ本を守る悪魔、ダンダリオンである。危害を加える悪魔ではない」
「そうなの? 何かいるなぁとは思ったのよ」
と、母親は頷いた。
父親は腰を抜かしていた。
当然と言えば当然だ。
これでも人間に近い姿にしているつもりなのだが。
「信じるのか!」
父親が叫んだ。
「だって、とても悪魔って感じよ。それに悪い悪魔なら私たちもう食べられちゃってるわ」
「……そうか」
どうやら父親は妻にも弱いらしい。
「何用だ」
「何、とても急がしそうにしていたので力を貸してやろうと思ったのだ。とある博士も働かざる者食うべからずと言っていた」
「あくま? だか何だか知らんが……正直、猫の手も借りたい」
夫婦二人は我輩を見て頷いた。
そこから我輩は接客業というのをした。
簡単に言うと汚れてもいいエプロンという着衣に着替えてコロッケを売り捌く作業だ。
父親は揚物を作り母親は隙を見て揚物をケージに並べてお会計をする。
我輩は言われた個数を詰めて客に笑顔で渡す。素晴らしい連係プレイだ。おかげで数時間で我々は言葉少なく強く結束した。
五時を過ぎると客足は段々と減った。
「……ん」
店主から何かを渡される。
茶色い紙封筒だ。
「これは?」
「大した額じゃないが……」
「違う! これではなく、プリンがいい!」
「プリン? 昨日作ったやつ?」
「まさかもうないのか!」
「あるわよ。ダンちゃんも食べるの?」
「……伊鞠と二人で食べる。我輩の主は伊鞠だ。伊鞠を迎えに行く」
「そうか。ならそのお金も伊鞠に渡してくれ」
「もう、お父さんったらすぐ伊鞠を甘やかす」
「了解した。必ず」
我輩はエプロンを脱いで飛び立った。
しかし直に伊鞠を迎えに行くのは綽然としなかった。
だから一度、杉本透の元に向かったのだ。
そうしてみれば目の前には落ちぶれた魔術師と。
その魔術師には見覚えがないが目算で本の創世者の後期に出てきた者だろう。
さて本は伊鞠が持って逃げた。
此処は田舎道。
大がかりな魔術は使えない。
それはこちらの条件で向こうは違うだろう。
「ハハッ、悪魔と会い見えるとは面白い。あの女、やはり本に使い魔を付けたか」
男はステッキから火を自在に操り我輩に向けた。
簡単な、と言うより基礎的な魔力の五式変換だ。
我輩にも心得がある。
但し我輩はステッキから出すのは同じ炎より冷気の方が威力がある。
その魔術師が出した炎を絶対零度で凍らしてクルクルとステッキを回しながら魔術師と対立した。
「しかし分からんな。何故、あのような小娘に執着する」
「悪魔は契約にはうるさいのだ。本を開いた者が主である」
炎をまとったステッキと氷をステッキがぶつかる。
あまり草木を燃やされるのは困る。
道は一本の砂利道で家屋は無いが近くに本屋がある。
ペンネの戦力的に援軍にはならない。何度も突きを受けては交わした。攻撃してどうする。
どうすればいい。
殺すのは簡単だ。
「悪魔らしくない。実に悪魔らしくないよ、君。そんな契約どうにでも出来るだろう?」
「うるさい!」
一本道、魔術師と悪魔がステッキ一本で対立した。
ああ……今すぐこの男が立っている地ごと凍らして柱にしたい。そんなことをすれば伊鞠がきっと怒る。
そう。ステッキではなく刀がいい。
「……刀?」
我輩は、今、何を思った?
「……馬鹿だな、あの女。戻って来たのか」
「……なに!」
後方、まさかと思って振り向けば竜と本を携えた我が主が立っていた。
見たこともない表情で。
「馬鹿! 逃げろ!」
「正しく馬鹿だ。私に敵うと思ったのか!」
男は全てを燃やし尽くす勢いで炎を出した。
それは竜の力によって相殺されたが、それで竜は本に戻ってしまう。
男の秩序も品もない攻撃と我輩の何かを守りながら戦う戦い方では悔しいが圧倒的な力の差があった。
炎と一緒に隙を見て蹴り飛ばされて我輩は田畑へ転がる。
惨めなものだ。
この田畑さえ守れなかった。
「伊鞠……逃げろ!」
「逃げないわ」
何故か伊鞠の瞳は今までに無いぐらい鋭かった。
「素直に本を差し出すか?」
そんな訳はないだろう。何故か伊鞠は怒っていた。
本を横に抱えて、今までになく真っ直ぐ堂々と歩いていた。
「この俺と戦う気か」
「色々、考えたわ。どうすればいいのか」
伊鞠は綺麗な声で喋った。
そこには恐怖もなく、かといって苦悩の様子も伺える。
「凄い魔術師を出せばいい、とか凄い怪物を出せばいい、とかね。でもどれでもこの本に名前が載っているのか知っていなければ意味はない。この本は白紙だもの」
「おや。自分が本の持ち主に相応しくないと気が付いたか」
「ええ」
伊鞠は美しく微笑む。
我輩は何故か悔しかった。
何故か苦しかった。
「けど貴方が相応しいとも思わない。だから必死で考えた! オープン!」
「何!」
まさか伊鞠はどうするつもりなのか本を開いた。
開いたが本に載っている名を叫ばなければ、その概念を呼び起こすことは出来ない。
魔術師はどうするつもりだろうと蔑む瞳で言った。
「まぁ、やれるだけやってみろ。一時くれてやる。それまでこのステッキで焼かれる恐ろしさでも刻むんだなぁあ!」
夜道に魔術師の品のない笑い声が響いた。
そんな笑い声をもろともせず伊鞠は捲れる本を構えて叫んだ。
「告げる。私は望む。汝、記録せし者の中で最も強き者を」
瞬間、魔術師の笑い声が止まった。
「強き者を、我は望む!」
「馬鹿な! そんな曖昧な詠唱で一体何が出せると言うのだ!」
本のページは捲れ続けた。
そして止まる。
探し出した、と言うことだ。
この本に記録された最も強い者。
我輩ですら知らないのだ。
神なのか、魔神なのか、本に導かれて出たのは大量の花弁だった。
「何だ、これは!」
「これは……椿の花」
伊鞠は知っていた。
と言うことは目の前の本から出てきた者も知っているのだろうか。
伊鞠の国の古い格好をした男が我々の間に立った。
名前は知っている。
侍というやつだ。
「で、どうするつもりだろうと私はこの一撃で全てを焼け野原にしてやる!」
凄まじい炎と共にステッキは投擲された。
我輩は万が一のために伊鞠の近くに立とうとしたが、そのステッキは一瞬で折れる。
「な……」
正確には、目の前の侍が炎ごと斬ったのだ。
漆黒の刀で。
漆黒の刀は黄金に輝き炎を全て相殺した。
凄まじい力だ。
これは魔術でも魔法でもない。
霊力と呼ばれる力に等しいが、もはや神力の領域だ。
その一撃で魔術師のステッキは折れ、一閃が流星のごとく光った。
「名も無い侍を呼ぶなんて変わった人たちだ。一つ。言っておくと俺には効かないよ。俺には斬れるんだ。魔法も魔術も神の力も悪魔の力も。有に対する無の力。そういう風に作られたからね」
「な……っ」
侍は喋った。
黒髪に真紅の瞳の背の高い優男。
白い羽織り袴。
そして黒い漆黒の刀を構えた。
「君を斬れば良いのかな?」
「待って! もう良いわ!」
伊鞠が叫ぶと魔術師は叫び声を上げて逃げた。
それを見届けると侍は刀を鞘に戻し伊鞠は腰が抜けたように座込む。
召還された侍はしばらくは消えなかった。見たこともない侍だ。きっと、名のある武将ではない。
「君達、ぼろぼろだけど大丈夫?」
「大丈夫ではない。この炎のせいで黒焦げだ」
「助けてくれてありがとう」
伊鞠はわざわざ侍に礼を言った。
「別に。俺にはこれしか出来ないからね」
青年は微笑んだ。
きっと精霊や神霊の類いだろう。
「おかしいな、もう消える頃合いだろう?」
「ああ、消えるよ。大丈夫。ただ俺は本当は世界を滅ぼすぐらいの力を奉納しているから肩透かし食らって時間が余ったんだね。でもまた呼んでね。終焉の兵器だなんて大袈裟で誰も呼んでくれないから暇で」
「しゅうえんの……」
「……兵器?」
青年は頬笑みながら花の花弁と共に消えた。
そして本は閉じて伊鞠の下に落ちる。
彼女は肩を揺らしながら息をしていた。
そして我輩を見る。
「大丈夫?」
「当然だ。この程度、かすり傷である」
我輩は立った。確かに傷は浅い。しかし、あの場をどうにも出来ず何が守護者だ。
「助けてくれてありがとう」
それでも伊鞠はお礼を言う。
そういう心の清さが眩しかった。
彼女は本に対して恐怖は無いのか埃を払って持ち上げた。
「怖くないのか?」
「さっきの人? 怖くはなかったよ。綺麗だったなぁ。強かったし」
何故か、その時我輩はイラッとした。
「我輩だって強い!」
「そうだけど世界を滅ぼすんだって。その割りには物腰穏やかだったね」
「その男の話はもういい! 帰る! 帰るのだ」
「はいはい、……また門限過ぎちゃった」
「……あ」
我輩は伊鞠に言うべきことがある。
すっかり忘れていた。両親に姿を見られたと知られたら怒られるだろう。
そう考えながら歩いていると伊鞠の商店街に到着した。何故かもふもふの姿に戻らない我輩を不思議そうに伊鞠は見つめる。
「あら、ダンちゃんも伊鞠ちゃんもおかえりなさい!」
「……ダンちゃん……?」
「ばれた」
「ダンダリオーン!!」
案の定、伊鞠の叫び声が商店街に響いた。
どうせ怒られるだろうと思っていたので我輩は大人しく伊鞠の両親の後ろに隠れた。
「あら、おかえりなさい、ダンちゃん」
「伊鞠、最近帰りが遅いぞ!」
「どういうこと! 何で、勝手に……っ!」
現状を理解、いや受入れきれず伊鞠は泣いた。
彼女が泣く姿を我輩は始めて見た。美しいものだ。
母は優しく伊鞠の肩を抱く。
「大丈夫よ、伊鞠ちゃん。悪魔さんは仕事を手伝ってくれたの。伊鞠ちゃんとプリンが食べたかったんですって」
「ん」
スッと父親が大きな冷蔵庫から大きなプリンを取り出した。
驚きだ。
イデア辞書の通りである。黄色い。大きい。白い飾りはクリームだ。
「……ダンダリオン、ちょっと」
我輩は伊鞠に引っ張られた。部屋に押し込まれ、明かりも点けずに扉が閉まる。
「何なのだ、お前は! プリンが……」
「もう、これ以上両親に迷惑をかけないで!」
伊鞠は泣きながら叫んだ。
「我輩、迷惑は……」
「私は普通の子で居たかった。両親が望む子供で居たかった。ずっと、ずっと……」
「演じていたのか?」
伊鞠はドアに背を預けたまま、ずるずると落ちた。
鞄が転がる。
「私……あの二人の本当の子供じゃないの」
「……なに」
「私の両親は昔に死んだ。同じ頃、病院であの両親の子供が流産した」
「伊鞠……それは偶然、聞いてしまった話だな。己が知りたくて知った事実ではあるまい」
我輩は悪魔である。
多少人の心が読める。
彼女の心は悲しみに満ちていた。
「そうよ。小学生の時、偶然聞いたの。本当にあるのね。お前は拾われたんだって嘘が本当だったって話」
「お主は今の両親が嫌いなのか?」
彼女は否定する。
「本当はもっと子供らしくしなきゃって、もっと、もっとって思うと出来ないの。違うよ! って自分がうるさく言うの」
我輩は伊鞠を抱き寄せた。
絹糸のような髪が腕に掛かる。
夜の匂いと混じったシャンプーの香りがまるで魅了の魔術のようだ。
「ここに来てから我輩がずっと感じていた違和感が一つ分かった」
「違和感?」
「伊鞠、君は本当の言葉を発していなかったのだ」
「本当の言葉……」
「心の言葉」
スッと、彼女の胸元のリボンに指差す。
「だから本当の言葉を発した時のエネルギーは凄まじい。でなければあんなものノーリスクで呼べまい」
伊鞠は涙を流しながら少し考えていた。
「そうかもしれない。本当の心、言葉を封印しているのは私自身なのかな……」
「しかし、今日は違った! 我輩に言ったではないか!」
「何を?」
「文句、罵倒、本音である!」
「……っ!」
「この調子だぞ、伊鞠!」
「ちょっと! それは……」
我輩は伊鞠を引っ張り、リビングに再び降りた。
もちろん、プリンを食べる為だ。
「その前に、晩御飯よ」
食卓は相変わらず揚物だらけだ。
さて、伊鞠はどうするのか数分悩んでから叫んだ。
「やっぱり揚物ばっかりは駄目よ!」
「……伊鞠っ! やっぱりその悪魔に唆されて……」
「違うわ。お父さん、健康診断の結果は!」
伊鞠はバッと手を広げる。
「……っ!」
「コレステロール!」
「だが、捨てろと言うのか!」
「言わないわよ! もっと野菜を食べて! 私も手伝うから、ちゃんと売り捌くのよ!」
「我輩も手伝おう」
「……伊鞠ちゃん」
「しかし、」
「次の健康診断まで絶対よ」
しばらく、伊鞠の父は鬼のような顔で震えていた。
母は心配そうに見つめるが大丈夫だろう。
こうして我輩は伊鞠の部屋でプリンを食べることが出来た。
もふもふの姿に戻ると伊鞠が銀色のスプーンで食べさせてくれる。働きに合う美味な食物であった。
クリーム、チェリーまで乗っていて、血なんかより百倍美味い。
「あんたって変わった悪魔よね」
「まぁ、そうであろう」
否定はしない。
「私、悪魔ってもっと邪悪で卑怯な生き物だと思ってたし、物語出てくる悪魔はみんなそうよ」
「悪魔の地位にもよるが我輩は知性を司る公爵である。その辺の低レベルの悪魔と一緒にされてもな」
「……公爵!」
「城もあるのだぞ」
「……城……」
ドイツの湖畔に浮かぶ魔城にしばらく帰っていないが、使用人がいるので大丈夫だろう。
確かあそこには伊鞠に似合うドレスもあったはずだ。
食事は三食揚物ではないし伊鞠が好きではないという学校もない。
「……そうだ!」
「……なに?」
我輩は決めた。
何、簡単なことだったのだ。
何故もっと早く気が付かなかったのか!
……そうだ!
我輩が伊鞠と恋愛をすればいいのだ!
そうすれば本は確実に愛の全てを記録するだろう。