第四夜 悪魔とプラトンともう1つの本
私は杉本さんと一緒に急いで店に向かった。
その間、ダンダリオンはずっと杉本さんの頭の上でつーんとしている。
心当たりがあるにはあるが、今はそれどころではない。
店に辿り着くといつも通りで少しホッとした。
「すみません。急いでもらっちゃって」
「いいえ、私は運動好きですから。杉本さんこそ大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……」
杉本さんはやっとこ、店の扉を開いた。
お店は一時閉店になっていて、カーテンも掛かっているので少し暗い。
杉本さんはいつも通り、カウンターに立つとコホンと咳払いをした。私はカウンター前の指定席に腰かける。
「……届いたんです」
「届いた?」
「ドイツから、これが」
杉本さんはカウンターに大きな包みを取り出した。
長方形の、そう、大きな辞書ぐらいの大きさの。
茶色い包みで外国式の送り状が貼られている。
「これ、本ですか?」
「その通り。しかし、僕はここで1つ忘れていたことを思い出したのです……」
「忘れていた?」
「ダンダリオンさんは自己紹介をしたとき、この辞書のことをシリーズ、と言いました。シリーズ、とはつまり別冊があるということです」
「……えっ?」
確かに、ダンダリオンはそんなことを言っていた。
これはシリーズだと。
「つまり、この包みの中身はもう1つの辞書なの?」
「その可能性は多いに高いかと。送って来たのは祖父です。そのイデア辞書も」
「……」
「一人で包みを開くのは中々……怖くて」
「分かります! また変なのが出てくるかも……」
「変とは何だ!」
案の定、杉本さんの頭の上のもふもふは文句を言いながら暴れた。
「まぁ、確かにシリーズは後二つある。包みからでは透視は出来んが」
「シリーズではない可能性もありますし、いつまでもこのままにしておく訳にも行きません」
私は頷いた。
違うかもしれない。
けれど、本当にもう1つの辞書だったらどうなるのだろう。ダンダリオンのような守護神がいて、普通の辞書ではなかったら。
そんな葛藤が渦巻く中、杉本さんは丁寧に包みを開いた。
それこそ、もう一度包んで送り返せるレベルで。
「これは……」
包みの中身は本だった。
赤い本。
タイトルはドイツ語らしい。
「イディオムの辞書……そう来ましたか」
「イディオム?」
「言葉、という意味です」
「言葉の辞書……」
表紙には美しい銀色の天使がやはりいた。
鎖に繋がれ、本には鍵がある。
私が持つイデア辞書と同じシリーズで間違いない。
「……天崎さん、開いてみます?」
「えっ!」
「それは無理である」
すぐさま、杉本さんの頭の上のダンダリオンが叫んだ。
「どうして?」
「一人一冊、それが決まりだ。この辞書を三冊まとめて所持出来るのは創者のみだ」
「今、さらっと三冊って言った……」
「三冊って言いました……」
「えええい! 確かにメモリアルブックは三冊で1つだ。さっさと開かんか!」
「ぼ、……僕ですか?」
「この中で持ち主になれるのはお主だけだ」
確かに。
私にはもうイデア辞書がある。
これ以上、本の持ち主になるなんて無理そうだ。
店の中の全視線が杉本さんに注いだ。
彼は決意したのか、諦めたのか。
本の金具に手を掛ける。
「あっ、でも僕は誰とも恋愛なんてしてませ……」
ん、という台詞を言い切る前に、本は開く。
二冊目の辞書。
イディオムの辞書が。
赤い光に店は包まれ、そして案の定、一人の少女が店の前に立っていた。私より背の低い女の子だ。
青っぽい色の髪が短く揺れて、後ろ髪が一本伸びている。
真紅の瞳以外は真っ白な、超絶美少女が目の前に立っていた。
「私の主は誰」
少女は言った。
「さて、そんなことも分からんか」
何故、ダンダリオンは喧嘩腰な台詞しか言えないの。
少女は素晴らしく愛らしい。大きな万年筆を持った少女だ。
その万年筆を真っ直ぐ杉本さんの頭の上のダンダリオンに向けた。
「何故、お前がここにいる」
「イデア辞書があるからであろう」
「そいつが私の主だろう」
彼女は万年筆で杉本さんを指した。
「そうなるのでは?」
「邪魔だ!」
「えっ!」
少女はその大きな万年筆でダンダリオンを刺そうとした。
流石にダンダリオンは華麗に宙返りで元の姿に戻る。
「待って、あの子も本の守護神よね!」
「そうであるが、全く人の話を聞かない愚か者なのだ」
「うるさい! 吹っ飛べ!!」
「その程度の力で笑わせる」
ダンダリオンは少女の力を詠唱もせずに完封した。
良かった。
どうやら力ではダンダリオンの方が上のようだ。
それにしても、人の話を聞かない。……杉本さんとは相性が悪そうだ。そっと彼を覗くと、綺麗な笑顔で蟀谷が痙攣していた。
でしょうね。
ダンダリオンのステッキと万年筆がぶつかる瞬間、杉本さんはおすすめ商品を紹介するボードでその一撃を遮った。
「これ以上、店で乱闘するなら二冊とも燃やします」
そう。杉本さんは普段穏やかな人なのに怒らせると超ヤバい、という典型的なタイプの人だ。
鶴の一声で二人とも、とても大人しくなった。
「私はペンネ。……女神でこの辞書の守護神」
「なるほど。知性の女神ですね」
「この辞書はイディオムの辞書。……こっちの言葉なら言葉の辞書」
「つまり、普通の辞書ってこと?」
「それは違う。言葉と言えど紀元前からの言葉だし、ありとあらゆる部族の言葉。呪文。専門用語を全て収納した辞書だ。当然、このページ数に納まる分けなく中身はイデア辞書と同じく変幻可能なブラックボックスである」
「って私が言おうと思った」
ペンネちゃんはぷくっと怒った。可愛い。
「言葉の辞書……かぁ。僕にはあまり必要ありませんね……」
「……えっ!」
ペンネちゃんはとてもショックそうに杉本さんを見つめる。
「何で」
「何故かと言われれば、一応僕は大学まで出ているので大体の言葉の意味が分かります。ドイツ語、フランス語、英語であれば筆記、ヒアリングも可能です。……基本困らないですね」
「……待って、私はラテン語も収録している」
「ええ、面白いですよね、ラテン語も」
何だか雲行きが怪しい。
杉本さんは本当に頭の良い人なのだ。
そうなると、確かにイディオムの辞書は必要ないかもしれない。
「待って、私は貴方が収録している知識量と私の知識量を数値化して勝負する。勝ったら持ち主になれ」
「そんなことが出来るのですか? 良いでしょう」
杉本さんは頷いた。
こうして、ペンネちゃんと杉本さんは二人向き合う。
「目を閉じる」
「はい」
そうすると、地面にまた赤い魔方陣が浮かび上がる。
それは杉本さんとペンネちゃんを囲い競り上がって消えた。
杉本さんが瞳を開く。本当に優しそうで格好いい人だ。
二人の頭の上には何かぐちゃぐちゃした文字が光で浮かび上がった。
「なんて書いてあるの」
「ペンネの方にはまぁ、日本の数値にすると恐ろしいほどの単位の数だが……博士の方は計測不能、だ」
ダンダリオンが教えてくれた。
「……つまり、辞書より上ってこと……」
私は驚愕する。
「まぁ、二、三千年ほどのブランクがあるから何ともだが、従者関係は逆転だ」
「……えっ?」
「つまり、杉本透はペンネの講師だ」
「そ、そんなぁあああああ!!」
ペンネちゃんはようやく現状を理解したのか叫んだ。
「嫌だ! お姉さんがいい!!」
「え、私!」
行きなり飛び付かれても困る。
そもそも、本の持ち主の交換なんて出来るのか。
「拒否する。我輩は現状で満足である」
「そんなぁああ! 必要とされないなんて嫌。また本棚で埃を被るのは、茶色い紙で変な臭いになるのは嫌だぁああ」
ペンネちゃんは泣き出した。
可愛い瞳から、ぽろぽろと綺麗な水滴が落ちていく。
私は図書室の奥にある誰も読まない百科事典を思い出す。
すると杉本さんがダンッとテーブルを叩いた。
「そんなことはしません! ここは本屋です!」
「……えっ?」
彼女はキョトンと泣き止む。
「今すぐ、豆の種類とその産地とその言語と歴史を覚えて記録してください」
「……えええ?」
「茶葉もです。どうせ中途半端なデータがあるでしょうが、末梢してください。……ここで働くなら、本棚で埃を被ることは一生ありません。契約しなさい」
「……契約」
「働かざる者、食うべからず。僕は貴女の雇い主であり講師であり、持ち主になりましょう」
スッと杉本さんは手を差し出した。
ペンネちゃんはしばらく眺めてから、その手を握る。
「分かった。私は貴方の本になる」
契約はここに完了した。
従者関係にも色々あるのだなと。
私はその時思った。
結局、プラトンについて聞く暇は無かったが、お兄さんの連絡先は交換することが出来た。
ダンダリオンはまだ拗ねているのか、もふもふのまま頭の上に乗り私を背に乗せてはくれない。
夜道には電灯に虫が集まってジリジリとうるさかった。
「まぁ、通信手段をゲット出来たのは良い心がけである」
「あんた何もしてないでしょ」
「そんなことはない!」
「それに、私と杉本さんがどうにかなるのは無理ね」
「何故だ!」
「だって、ペンネちゃんの方が超絶美少女でしょ。毎日一緒よ。分かりきったことね」
「……そんなことっ!」
「それに、向こうは私のことを妹ぐらいにしか思ってないわ」
私はずっと心の何処かにあった違和感をダンダリオンに話した。杉本透と、彼と恋人になるイメージなんて全然湧かないし、そもそも似たもの同士過ぎる。
どこかで感じる彼とのシンパシーは恋愛ではない。
「むむむっ!」
「だからと言って、ペンネちゃんと杉本さんが……どうかは分からないけど」
「嫌だ! 我輩は一番最初にこの辞書に封印されたのだ! 我輩は一番最初に解放されるべきである!」
「そう! それよ! ちゃんと話さなかった私も悪いけど、ダンダリオンが愛情や愛を感じ分かればいいのよ!」
「我輩が?」
「そうよ。だから私のお父さんとお母さんとか、町行く人とか、杉本さんやペンネちゃんを見ていればいいの。見て感じる辞書なんでしょ?」
「……むむむ」
ダンダリオンはピンと来たような、来ないような、といった感じだ。私はそうだと立ち上がった。
つまり、この悪魔に愛情を教えて本に記録させればいいのだ。
「夜の一人歩きは危ないよ、お嬢ちゃん」
しかし、私は一つ失念していた。
いくらなんでも夜道の一人歩きは危険である。
一人でないなら尚更。私は不思議な本と悪魔を抱えているのだ。そのまま一目散に走るべきか迷った。
声質と、後ろの圧倒的オーラはどう考えても普通ではない。
私はゆっくり振り向いた。
「何の用」
「おや、一番非力そうな持ち主だと思ったが」
やはりこの男、普通ではない。
まるで絵の具をチューブから出したかのような空色の長い髪。
白いシャツはどこか尖っていて異質感が出ている。
歩くと、ジャラリと腰の金具が音を立てた。
「気を付けろ、伊鞠! そいつは魔法使いだ!」
直ぐ様ダンダリオンは元の姿に戻る。
普段の夜の道に魔法使いと悪魔。
「私は!」
「本を抱えて逃げろ! その者はおそらく辞書を狙う強奪者だ! 辞書にはまだ竜がいる!」
「分かった!」
私はダンダリオンを信じて走った。