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Episode37 Perfect proof -完全なる証明-

「…であるからにして…」


 授業を行う講師の声が、午後の教室を淀みなく流れる。

 その史上まれに見る退屈なBGMを聞きながら、セリーナは窓の外をぼんやりと見詰めた。

 目に入ってくるのは、講師の奏でるBGM以上に退屈な、いつもの見慣れた景色である。

 郊外に設けられた閉鎖的なこの神学校は深い森の中にあり、周囲には緑の木々が監獄の塀のように広がっている。

 実際、ここは監獄じみていた。

 敬虔な神の信徒として、勉学に勤しみ、議論を交わし、主に祈りを捧げる…ただそれだけのための結界だ。

 毎日はメリーゴーランドのようにくるくると回り、見える景色もまた同じ。

 ただ、時間の経過だけが存在し、繰り返されるだけの毎日がここにあった

 厳格かつ退屈なこの監獄に音を上げ、後にする者もいる。

 しかし、講師や神父たちはこぞってこう言うのだ。


「あの者は信心が養われていなかったのだ」と。


「…セリーヌ=エアハート!」


「は、はい!」


 不意に名前を呼ばれたセリーナは、慌てて背筋を伸ばして立ち上がると、講師へと向き直る。

 不機嫌そうな顔の講師は、手にした指示棒代わりのペンで、自分の掌をペシンと打って見せた。


「私の教える数学はお嫌いかな?」


「い、いえ…」


「ほう。ほうほう。では、窓から見える景色以上には気に入っていただいているのかな?」


「…はい」


 陰険で有名な数学の講師は、セリーナにニコリと微笑んだ。

 本人はどう思っているかは分からないが、セリーナには、それがまるで悪戯(いたずら)を思いついた“機壊小鬼(グレムリン)”の笑みに見えた。


「そうか。そうかそうか。では、そんな君に私から素敵な質問(プレゼント)をあげよう」


 そう言うと、講師は手のペンで再度掌を打った。


「『△DEH,△DGI,△DHIのうち△HFIと相似なものは?』」


「△DEHと△DHIの二つです。また、∠DIG<∠DIHです」


 間髪入れずに回答したセリーヌに、級友たちがどよめく。

 講師は一瞬呆気にとられた後、苦々し気に唇を噛み締めた。

 彼女に出した問題は、まだ教えていない大学入試問題レベルの難易度を持っていた。


「正解でしょうか、先生?」


 勝ち誇るでもなく、無表情のまま尋ねるセリーナ。

 その時、雲間から差し込んだ日の光が、セリーナの黄金の髪を照らし始めた。

 それ自体が発光しているかのような美しさと、静かな碧色の瞳。

 まるで妖精のようなその幻想美を目の当たりにし、講師と生徒達が息を呑む。


「先生?どうかなさいましたか?」


 セリーナの呼び掛けに、ハッと我に返る講師。

 そして、取り落としていたペンを慌てて拾い上げる。


「…ああ。ああ、ああ。正解だ…今後も、その調子で授業に取り組みたまえ」


「はい」


 静かに着座するセリーナ。

 と、同時に終業の鐘が鳴り響いた。

 講師はペンを胸ポケットに戻すと、教室を見回した。


「で、では今日の講義はこれまで」


 そそくさと教室を後にする講師を見送ると、セリーナはホッと溜息を吐いた。


 --------------------------------------------------


 午後の講義をこなし、一人寄宿舎を目指していたセリーナは、木立に背を預けてたたずむ頼都(らいと)鬼火南瓜ジャック・オー・ランタン)に出くわした。


「よう」


 片手を上げる頼都に、ジト目を向けるセリーナ。


「…何か御用ですか?」


「別に。ちゃんと学生してるか、見守りに来ただけさ」


「なら、ご安心ください。つつがなく学生しておりますので」


「ああ、見ていたぜ」


 横を通り過ぎようとしていたセリーナの足が止まる。


「…何をですか?」


()()()()()()()()()()()()


 途端にセリーナの目つきが、険悪なものになる。


「…日常生活のみじゃ飽き足らず、授業まで覗き見ですか?随分と仕事熱心なんですね」


「二酸化炭素の生成熱が394kJ/mol 、水の生成熱が286kJ/mol 、アセチレンの生成熱が –227kJ/molだった時、アセチレンの燃焼熱は?」


 無言になるセリーナ。

 それに頼都が笑った。


「少し難しいか?」


「…1301kj/molです」


「正解。次だ。“Why(何故) is(世界) there() a(ある) world(のか)?”」


「化学の次は哲学ですか」


 溜息を吐くセリーナ。


「『充足理由律』と言いますが、あらゆることには原因があります。よって、世界が存在することにも原因があります。それは普通の物事ではあり得ません。よって原因としての『神』が存在すると定義します」


「『神の宇宙論的証明』か。しかし、それでは『神の原因は何か』という無限的後退に陥るぞ」


「ですから『神はあらゆる側面について最上級の性質を持つ』ということが前提です。そして、この前提により神は最上級の性質を持ち『神は完璧』=『全知全能であり完全なる善性』ということになります。その存在も『たまたま偶然に存在している』というレベルの話ではなく『何があっても必ず存在するということになります。故に、神は必然的に存在するということになり、そして、その神が世界を作った…だからこそ『世界はある』のです」


 セリーナの言葉に、頼都が感嘆の口笛を鳴らす。


「『ライプニッツの神学的解釈』も完璧か。見上げたもんだ」


「どうも」


 誇るでもなく、セリーナは顔を背けた。

 そんな彼女に、頼都が意味ありげに笑う。


「品位、知識おまけに記憶力も言うことなし。完璧すぎる程に完璧だな」


「…」


「しかし、それだけに幼少期の記憶は曖昧ってのが気になるよな」


 その皮肉に、セリーナは歯を噛み締めた。


「…何度も言いますが、私は人間です。ごく普通の人間なんです。だから、物忘れくらいしますよ」


 そう言うと、セリーナは頼都に向き直った。


「主の御名に誓って、私は人間です…!」


「例の子どもが使った『魔法』の話だが」


 さっさと話題を変える頼都を、セリーナはにらみつけた。

 が、そんなことはお構いなしに、頼都は続けた。


「その子どもは、確かに『常若(とこわか)の国』って言っていたのか?」


「…ええ」


「そうか…では、今からいう単語に聞き覚えが無いか、それだけでも思い出してくれ」


 そう言うと、頼都は一息ついてからおもむろに切り出した。


「『妖精郷(ティル・ナ・ノーグ)』」


 しばしの沈黙の後、セリーナはこめかみを抑えながら答えた。


「分かりません…聞いたこともない地名です」


「…そうか」


 呟くようにそう言うと、頼都は背中を預けていた木立から、身を剥がした。


「手間を掛けたな。また来る」


 短く告げると、頼都は背を向けた。


「…ああ。一つだけ忘れていた」


 いぶかしげな表情になるセリーナに、頼都は軽く振り向いた。


「さっきの『ライプニッツの神学的解釈』な、実は致命的な部分がある」


 そう言うと、頼都は続けた。


「『悪の問題』って言ってな。神様が、最良のものとして「無からの創造」でこの世界を作ったのなら、なぜこの世界には痛みや苦しみが存在するのか…って問題だ」


「それは…」


 せリーナは口をつぐんだ。

 それは、彼女自身も知っていた問題だった。

 そして、宗教哲学や神学の領域で今なお議論が続いている。


「お前さん自身も言ったように、神が全知全能にして完全無二の存在なら、痛みや苦しみのあるこの世界を『何故創造し、何故修正せず、何故放置する』のか?これを解かない限り『ライプニッツの神の存在証明』は破綻する」


「…何が言いたいんですか?」


 セリーナの問い掛けに、頼都は目を細めた。


「別にお前さんを虐めようってわけじゃない…ただ、神も含めてこの世に『絶対』や『完全』がないとしたら…」


 続く頼都の吐き捨てるような言葉が、セリーナの胸をえぐった。


「神の野郎なんざの名前に誓ってみても、お前さんが人間である証明なんぞ、容易く霞んじまうだろうさ」

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