Episode18 Hell's Gate -冥界の門-
至る所で炎が燻っていた。
建物、木々、石畳、そして人。
そこにあった形あるもの全てが、文字通り炎に包まれている。
視界を侵すのは赤一色。
その様は、一人立ち尽くす男の網膜を、幾重にも焼き焦がした。
足元に黒い何かが這い寄って来た。
炎の形をした人だった。
まるで、断末魔の芋虫のように、炭化した手足を必死に動かしている。
全身を焼かれながら、人の形をした炎は手を伸ばした。
自分へと向けられたそれは、果たして救済を求めるものか。
それとも、弾劾するために突き付けられたものか。
男は、それを見下ろしながら、その答えが出ないことを知った。
声まで焼かれ、炎の中で崩れていく人の形。
ただその様を、男は無言のまま見下ろす。
「気が済んだかい?」
背後から、そう声が掛けられる。
不思議な声だった。
男のようでもあり、女のようでもある。
若者のようにも聞こえ、老人のようにも聞こえた。
そして、その声音は。
天使のように優し気で。
悪魔のように男の心を毒した。
しばしの沈黙の後、男が頷く。
それを認めた声の主が、満足げに言った。
「そうか。なら、良かった。君の望みは、無事、ここに成就したわけだ」
「…」
「では…契約の最終段階に移ろう」
背後の声が、笑みを含む。
「約束通り、君の…」
そこまで言い掛けた声が凍る。
いつの間にか、男が声の主へと振り向いていた。
その目には、燃え盛る炎の赤。
周囲の灼熱の煉獄を映しながら、自分へと向けられたそれに、声の主は全身が怖気立つ程の冷たさを感じた。
「…何をするつもりかね?」
生まれ出でて幾星霜。
数多の事象を目にしてきた声の主は、生まれて初めて、自分の声が震えるのを感じていた。
男が、何かを言った。
目を見開く声の主。
手にした何かを、男が胸…心臓へと当てる。
声の主が制止した。
男は…僅かに笑っていた。
炎は、永遠の悪夢のように燃え続けていた。
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漆黒の奔流が止む。
黒い大蛇の姿をした邪神アペプが吐き出した闇の吐息。
万物を原子の塵へと分解し、原初の姿である「虚無」へと還す混沌の吐息を受け、頼都(鬼火南瓜)は、跡形もなく消滅した。
「そ、そんな…」
骨すらも残らずに消失した頼都に、狭間那が腰を抜かしたようにへたり込む。
その傍らでは、リュカ(人狼)とミュカレ(魔女)が、無言で立ち尽くしていた。
「…」
そして、もう一人。
古代から蘇ったエジプトの王、アクエンアテン(不朽人)が、無表情な黄金の仮面のまま、それを見ていた。
幽世…異界に強制転移させられた彼らの前に、突如として立ちはだかった邪神は、残された狭間那達へとその首を巡らせる。
血のような赤いその目には、神である自身を傷つけた、不遜なる輩への怒りで満ちていた。
「あ、ああ…」
見下ろしてくる邪神の双眸に、狭間那がガクガクと震え出す。
古代史に魅せられ、その知識を貪るように得てきた狭間那。
その中で、彼女は数多くの神話伝承にも触れてきた。
故に、語り継がれてきた諸々の存在についても、知悉していた。
その中の一柱の神が、自分を見下ろしている。
「あり得ない」という非現実的な否定。
「逃げられない」という現実的な絶望。
そんな感情がないまぜになって、狭間那の身体を硬直させていた。
アペプが再び口を開く。
その中に広がるのは、宇宙開闢の闇に等しい暗さだ。
一瞬後にやって来るであろう「死」に、狭間那は思わず目を閉じた。
「なに、呑気に尻餅をついてんだ」
突然。
そんな声が響く。
耳に残っていたその声に、狭間那は目を見開いた。
そして、絶句した。
目の前…頼都が消滅した場所に、淡い燐火が立ち昇っていた。
仄かな朱色のそれは、見る見るうちに濃度を増し、徐々に形を成していく。
足、脛、腿、腰。
下半身が形成されると、燐火は一転、業火に変容した。
見れば。
ひと際燃え盛る上半身と思われる部分に、漆黒の塊があった。
拳大のそれは、まるで地獄に炎の中で燃えているようだった。
やがて、激しい炎は徐々に収まり、そこから生まれ出でるように、一つの人影が姿を現す。
炎を纏いつかせながら、黒衣の若者は閉じていた目を開く。
「ふん、これが全力か。神のくせに、大したことないな」
自分を見下ろす邪神へ、頼都はつまらなそうに呟いた。
「と、十逢さん…!」
安堵の声を上げる狭間那。
若者…頼都は、炎を宿した瞳のまま、狭間那を見やった。
「下がっとけ。黒焦げになっても知らねぇぞ」
その声に押されるように、狭間那は慌てて身を引いた。
「ふふ…今回も死にぞこなったようねん」
そこに、ミュカレが含み笑いを漏らす。
「“今回も”?」
思わず聞き返した狭間那に、ミュカレは頷いた。
「隊長から聞いてない?彼はね、とある呪いで、絶対に死ねない身体になっているのよ」
その言葉に、狭間那は息を呑んだ。
“鬼火南瓜”の伝説を思い出したのだ。
悪魔を騙した一人の男は。
その報いとして“地獄の門”から締め出され。
生前の罪から“天国の扉”も開かれなかった。
そして、永劫にこの世を彷徨い続ける運命を負ったのだ。
「もしかして」
ミュカレは、帽子の鍔を抑え、目深く被りなおした。
「今回の相手なら、ようやく解放されると思ったのかしらねん」
狭間那は頼都の背中を見やった。
『うっかりでも、死ねねぇ身体になると…つまんねぇぞ』
ふと、先程の一幕が思い出される。
不死鳥の如く、炎の中から蘇った若者の姿が、狭間那にはひどく孤独に感じられた。
「息災で何よりである。焰魔よ」
背後からのアクエンアテンの声に、僅かに振り向く頼都。
「今より、我が妃の力によって、この邪神を冥界へ送り返す。しばし、足止めできるか?」
「ああ、いいぜ。その王命、謹んで受けた…点火!」
言いながら、頼都は両腕に炎を纏わせた。
そして、そのまま天へと突き上げる。
「熱赫ノ縛鎖!」
その手から、無数の炎が噴き上がる。
それらは大気を焦がし、細長く変化すると、赤熱する鎖のように変化した。
「さあ、王の御前だぜ。頭を下げな…!」
熱鎖は、そのままアペプの真上で投網のように変化した。
頼都が腕を引き絞ると、熱鎖はアペプの巨体を覆い、そのまま地面へ縫い付けた。
“ooouuuuuuuuum…!!”
消滅させたはずの相手が突如復活し、あまつさえ、自身を捕縛する。
それも、取るに足らない矮小な身で。
アペプは驚愕とも屈辱ともとれる苦鳴の咆哮を上げた。
「フッ…どうした、ヘビ公。自慢の虚無の息は吐かねぇのか?」
ギリギリと熱鎖を締め上げ、加虐的に笑う頼都。
「その鎖はな、地獄の炎で編まれた特別製だ。永くお前を捕らえてた冥府の神の呪縛には及ばねぇが、それでも今のお前なら、十分に縛り付けられるぜ?」
全身を焼く熱鎖に身悶えるアペプ。
その巨体を抑えたまま笑う頼都に、リュカが頬をポリポリと掻いた。
「Oh…完全にスイッチ入ってマース」
「神様のくせに、自分を殺せなかったのが、余程許せなかったのねん…」
そう言いつつ、ミュカレは熱っぽい眼差しで頼都を見詰め、自身をかき抱いた。
「ああ♡いいわぁん、隊長♡次は、その眼のままで私を虐めてぇん♡」
と、突如桃色発言を放つミュカレに、傍らにいた狭間那は目が点になった。
「あ、あの、この人…」
恐々、リュカに小声で尋ねる狭間那。
すると、リュカは事もなげに笑った。
「No Problem!戦闘中の隊長を見たミュカレがおかしくなるのは、いつものことネー。気にしなくていいヨー」
「…はあ」
汗を一筋垂らす狭間那の視界に、光が差し込んだのその時だった。
見れば、光輝を放つアクエンアテンの身体に異変が生じていた。
全身を覆う聖帯が緩やかに解けていき、その中から、ネフェルティティの“幽霊”が姿を見せる。
『なかなかやるな、焰魔よ』
褐色の美貌に笑みを浮かべ、ネフェルティティが大きく手を広げる。
『大いなる太陽神アテンの名のもとに、我はいまここに落陽を告げる』
詠唱と共に、ネフェルティティの背後に青白い神聖文字が浮かび上がる。
その輝きを目にした瞬間、アペプがより激しく身をよじった。
『天に星 地に眠り 王は沈黙し 世界は止まる』
神聖文字の輝きが増し、一文字がアペプの周囲の地面に刻印される。
続けて、二文字目、三文字目と秒針のように進む文字の転写。
“guaaaaaaaaaooooooooooooo!!”
その中で、アペプの咆哮が響き渡る。
それを見ながら、頼都は口笛を吹いた。
「へぇ…『Rw Nw Prt M Hrw』の強制転写か。成程、冥界に括られていたアペプ自身を触媒に、ね。確かにそれなら間違いないな」
頼都の呟きを耳にしたリュカが、ミュカレに尋ねる。
「Hey ミュカレ!『ル・ル』何とかって何ですカー?」
「はあっ♡はあっ♡もう、たまんないわん♡隊長ったら、そっちもイケるクチなんて♡ああん、もう雌犬って呼んで、なじって欲しいん♡」
身体をクネクネさせながら、完全にイってしまっているミュカレに代わり、狭間那が答えた。
「『Rw Nw Prt M Hrw』…ラテン文字で直訳すると『太陽の元に現れるための書』。その俗称は…」
狭間那は、静かに告げた。
「『死者の書』…確か、死者の霊魂が肉体を離れた後、死後の楽園アアルに入るまでの道しるべを描いた書です」
『ほう、知っていたか、下賤の娘』
神聖文字を全て転写させたネフェルティティが、薄く笑う。
『この邪神は、もともと冥界に括られた存在。わざわざ別の触媒を使わんでも、こうして術式を整えれば…』
ネフェルティティが最後の詠唱を口にする。
すると、神聖文字が刻まれたアペプの周囲の地面が変質し、波打つ黒い水面と化した。
『たやすく“冥界の門”が開かれる』
同時に。
アペプの身体が、ゆっくりと沈下し始めた。
今までになく激しく暴れるアペプだったが、頼都の熱鎖がその身を捕らえて放さない。
「じゃあな、ヘビ公。もし、あの世で会えたら、続きをやろうぜ」
苦悶しつつ、沈んでいくアペプに、頼都がそう告げる。
やがて、その巨体が全て黒い水面に沈み切ると、冥界の門は閉じ、後には何の変哲もない石畳だけが広がっていた。