藤と牡丹
まこと奇妙な祭に遭遇してしまった、と二人の男女は思った。この男女は他人同士。まったく互いを知らない。そして互いの存在に気づいていない。一方は自身がなさげな背の高い男。もう一方は優柔不断そうな背の低い女。共通点があるとすれば、年が近いということくらいだろうか。そんな二人が突如、よくわからない祭に参加していた。気づいたらこの祭りを練り歩く人の行列に加わっていた。前後の記憶は朧としている。
「さあさあよっといで!」
「うまいようまいよ、甘い水飴はいらんかぁ」
「まいどありー!」
道の両脇に露店がならび、色とりどりの提灯がぼんやりと辺りを照らす。おいしそうな匂いと共に、元気のいい掛け声が聞こえてきた。肌寒い夜だというのにこの場は熱気に包まれ、巻き込まれた二人は少し汗ばんでいた。大きな川のように、人々がひとつの方向に流れていく。二人はその人の波に乗り、流れに逆らうことなく道を進んでいく。周りを見渡すと皆、柄は違うが一様に浴衣を着ていた。この二人も例外ではない。
男は思った。確かスーツを着ていたような。
しかし着ているのは淡い藤色の男物の浴衣だ。黒い帯も締め、これまた鼻緒が黒い下駄も履いている。この男を《藤》と呼ぶことにする。
女は思った。確かワンピースを着ていたような。
しかし着ているのは女物の浴衣だ。白地に赤い牡丹の大輪が咲いており、濃紺の半幅帯を文庫結びにしてある。髪は簡単にアップされていた。黒塗りの桐の台に、赤い鼻緒の下駄。この女を《牡丹》と呼ぶことにする。
二人はなぜこの祭りに参加しているのか、なぜ浴衣を着ているのかさっぱり分からないまま、ただその流れに身を任せた。普段の二人の性質そのままに。——二人の性質。自己主張をせず、決断を誰かに委ねる。大きな流れに逆らわず、言われるがままに毎日を過ごす。楽と言えば楽な日々だ。ただ本人たちは楽だなんて微塵も思っていないだろう。なんせ個性を殺すのだ。決断できないことを憂い、投げられた言葉に反感を抱きながらも、抗うことができない自分に辟易している。腹の奥底には言えなかった言葉が積み重なり、熱く虚しく燃えている。そして腹の中で燃やすばかりで、それらを吐けさせるのは上手くない。諦めることばかりが達者になっていった。
両脇の店がなくなり、道がひらけた。人の流れが途中からふた手に分かれる。どうやら男と女に分かれているようだ。明確な境界線はなく、広い草地にまばらに人が散る。相変わらず鮮やかな提灯は頭上にいくつも吊るされており、満月とともに広場を照らしている。男たちは瞳の奥にキラキラとした何かを宿し、意を決した面持ちをしている。女たちは華やかな装いをしつつも、視線の先にいる男達を熱く見つめている。一体これから何が起こるのだろうか。紛れ込んでしまった二人は、ぼんやりと周りの様子を伺い見ていた。
集まった人々の中に、子供やお年寄りはいない。成人した男女が少なくとも五十人以上はいる。みな若々しく、活気というものが身体から溢れていた。
どこからともなく、太鼓や笛の音が聞こえてきた。時おりシャンシャンと鈴もなる。どんどん、ぴーひょろ。すると集まった男性陣の中の一人が、大きく綺麗な声で叫んだ。なんと言っているのかよくわからない。聞き取ろうと耳をすますと、他の男性陣が次々に大きな声で叫び始めた。どの声も張りがあり、かすれることなく、音程の高低はあるものの男らしく響いている。辺りが一気にわーわーと騒がしくなった。一人だけ、その場の雰囲気に着いて行けず、オロオロとしている男がいた。紛れ込んでしまったあの藤色の浴衣の男、《藤》だ。流れでここに来てしまったが、いったいなぜ皆が大きな声で叫んでいるのか分からない。何が起こっている。しかし、周りはとても真剣に、しかし朗らかに叫んでいる。いや、唄っていると言った方が正しいのか。それぞれに声に個性があって、これが自分だと言わんばかりに朗々と唄っている。気後れしている《藤》のそばに、少し年のいった男が話しかけた。銀鼠色の浴衣を着ている。
「お前さんは、唄わんのか」
男が言った。《藤》は、戸惑いつつも、小さい声で答えた。
「唄い方が、わかりません」
「わからんとは変な奴だ」
呆れた様な顔をしたが、男は優しく教えてくれた。
「自分はこういう者だ、と気持ちを乗せるんだ。自分が思っていること、感じていることを、大きな声に乗せるんだ。そしたら勝手に唄になる。腹の底から声を出せ。いいか、腹の底からだ。力むことなく、伸び伸びと声を出すことが、遠くまで届けるコツだ」
「遠くまで届ける?」
「そうだ」
「なんの為に?」
「番いを見つける為さ」
「番い……」
自分と一緒に居てくれる奴を探すんだ、と男は言い、にこりと笑った。《藤》にはいまいち分からなかった。ただ、周りの男達が一様に自信ありげに唄っている様に圧倒された。自分も唄わねばいけないんだろうか。どんどん、シャンシャン。夜空に熱気が立ち昇っていく。
一方、女衆は男達の唄い声に耳を傾けていた。わーわーうるさいくらいの騒ぎだが、なぜか女達には「この声だ」とピンと来る相手がいる。その声を探すべく、真剣に耳を傾けるのだ。そこには打算も思惑も駆け引きも一切ない。惹かれるか否か。女達の基準はごくシンプルだ。聞き分けて、これぞという声の相手のところへ行く。
《藤》と同じく、紛れてしまった女《牡丹》も、この光景に呆然としていた。皆、目をつぶり唄を聞いている。そしてそれと決めた者の元へ、歩み寄って行く。
これは一体なに、みんななにをしているの。
《牡丹》は勇気を出して、近くにいた金魚の浴衣を着た女に話かけた。状況がわからない。
「すみません、なにを聞いているのですか?」
「唄よ。男達の全身全霊かけた、唄」
「唄を聞いてどうするのですか?」
「この人だと思った声の元へ行くの」
「行ったらどうなりますか?」
「生涯を共に過ごす番いに会える」
「……あなたにはその声が聞こえますか?」
「ええ、聞こえるわ。私を呼んでいる。……彼の元へ行かなければ」
そう言うと、女は少し不安げしながらも、ゆっくり歩き出した。目には決意がこもっていた。
《牡丹》は自分で何かを決めるのが苦手だ。人に決めてもらえるならそれがいい。小さい頃はそうではなかったのだが、年を重ねるごとに、自己主張が苦手になってきた。自分の意見を言うのが怖い為である。もし嫌がられたら? もし反対されたら? 義務教育の集団生活の中で、《牡丹》が身につけた社交術とは、流れに逆らわないことであった。みんなの意見が自分の意見なのだ。しかしこの状況はどうだろう。皆自分で決め、自分で行動している。女同士で連んでいるものはいない。こそこそ話をして周りを睨め付けるような女達など、ここにはいない。ひとり一人しっかり立って、男達の唄を聞いていた。責任というと大げさかもしれないが、しかし、他の女達は自分の決定に責任をもって行動している様である。周りがそうしているのなら、自分もしなければいけない。この不思議な祭りの雰囲気は、《牡丹》にそう思わせた。
番いに会える、とさっきの女は言っていた。それはどんな存在なのだろう。夫婦のそれとは違うのか。彼女はこの人だと決め、探しに行った。決断し、行動した。急に怖くなってきた。どきどきと心臓がうるさいほど高鳴り、身体の隅々まで熱い血液が巡った。体温が一気に上がってきたような気がする。《牡丹》は周りの女達にならって、ぎゅっと目をつぶり、耳をすました。そうしなければいけない気がした。
男が呼び、女が答え、そうして寄り添った男女はどこかへ消えて行く。しかし、人が少なくなったと思うと、またぞろぞろと後から人が来る。今宵は祭り。命を繋ぐ生き物の祭り。赤や黄色や白の提灯がいくつも淡い光を灯し、人々の顔を照らす。真上には大きな満月が夜空に浮かんでいる。
男達は唄う。どんなに下手でも、どんなに滑稽でも、全力で唄う。自分の生き様を見せつける様に。それを馬鹿にする輩は一切いない。女達も、そんな男達の唄に聴き入る。《藤》はまだ唄えずにいた。自分を晒すという行為に抵抗があった。影に隠れて済むのならどんなによいだろう。でもどこかで、唄ってみたいという思いもあった。すると後ろから声を掛けられた。
「行動してみな。思ってるだけじゃ、ダメだぞ」
振り向くと、先ほどの銀鼠色の浴衣の男が女性と連れ添って立っていた。どうやら彼は番いと出会えたらしい。二人はとても嬉しそうだ。
ここには人の様を見て笑う奴も、馬鹿にする奴もいない。皆真剣だ。これだけ騒がしかったら、《藤》が少し声を張り上げたって、誰も気にしないだろう。ちょっとやってみようか、そう彼は思った。
《藤》はまず弱々しい声で唄ってみた。するとどうだろう、思いの他気持ちいい。自分という人間を、誰はばかることなく表現する。主張する。まわりにそれを笑う人間などどこにもいない。大勢が思い思いに唄っている。そしてその声に惹かれてやってきた女と熱く視線を交える。《藤》の声はだんだんと張りが出てきて、遠くまで響くように伸びてきた。《藤》は唄いながら、これまでの自分を振り返った。他人に深く入り込まない、自分にも入り込ませない人間関係。それは自分という人間をさらけ出すのが怖かったからではないか。自分のか弱い人格を否定されたら一貫の終わりだ。だから誰にも触れさせない。自信の無さがそうさせるのか。しかし、心のどこかで認めてもらいたい、受け入れてもらいたい思いがあったのだろう。拙くても、弱々しくても、これが自分だと言える解放感。いつの間にか《藤》は泣いていた。泣きながら唄っていた。誰か、誰か、ぼくを——。
《牡丹》は聞こえた。大勢の唄声が響くこの場で、はっきりと一人の唄い声だけが耳に入る。周りの自信に満ちた唄からすると、だいぶ弱々しい。悲痛な叫びのようにも聞こえる。しかし《牡丹》はこの声に惹かれた。この声の主に会いたいと思った。
ぼくはここにいます 聞こえますか
ぼくはここにいます 誰かいますか
ちっぽけなぼくを見つけてください
あなたがぼくを探すように
ぼくもあなたを探しています
まだ見ぬあなたへ
ぼくはここにいます
魂の片割れ 出会うべき人
どうかぼくを見つけてください
自分に確固たる自信などない。けれど誰かに認めてもらいたい。受け入れてもらいたい。ああ、自分と同じだと《牡丹》は思った。自分も、誰かに寄り添ってもらいたい。人を支えるなんて大それたことはできない。だけど、互いの気持ちを思いやり、同じ方向を見ることはできるのではないか。半人前のあなたと私、ふたりでちょうど一人前。二人とも頼りなくても、背中を預けて寄り添えば、倒れることはないんじゃなかろうか。
しかしどうしよう。これだと思う唄が聞こえたけれど、この先はどうしたらいい。《牡丹》は迷った。決めてしまっていいのか。もしかしたらまだいい唄が聞こえてくるかもしれない。そうする間に他の女達は、相手を探しに歩き出す。唄はますます魅力的に耳に響き、早く彼の元へ行きたいと本能は告げている。どうしよう、怖くて堪らない。いっそ行くまいか。でも……もしかしたら、唄っている人も同じように怖いと思っているかもしれない。思えばさっきの彼女も不安そうな顔をしていた。誰だって怖いのは一緒かもしれない。
——意を決して《牡丹》は歩き出した。人をかき分け、聞こえる声だけを頼りに相手を探す。本当は怖くてたまらない。自分で決めるという事はこんなに怖いものだったろうか。それに従って行動するという事はこんなにも不安だっただろうか。心臓はこれ以上ないくらいにうるさく鳴り響き、1秒1秒がとても間延びして感じた。全てがスローモーションに見える。色とりどりの浴衣を潜り抜けていく。朱色、浅葱色、藍色、萌木色。大きな満月、無数の提灯のあかり。幻想的にも見える群衆をかき分け、《牡丹》は探した。キツめに着付けられた浴衣は動きにくく、履きなれない下駄に足を取られる。どんどん、シャンシャン。遠く太鼓や鈴の音が聞こえる。ちがう、ちがう、この人じゃない。私の足音は聞こえますか。いま、あなたを探しています。唄声は不思議と聞こえ続け、恐怖で怯える心も、この声を聞くと勇気付けられる。きっと距離が近かろうが遠かろうが、聞こえるのだ。今宵はそういう不思議な夜なのだ。
あなたがぼくを探すように
ぼくもあなたを探しています
まだ見ぬあなたへ
ぼくはここにいます
運命の人 共に生きる為
どうかぼくを見つけてください
男は唄い、女は探す。ふと藤色の浴衣の男が目に入った。涙を流しながらうたっている。月夜にたたずむその姿に、《牡丹》は思わず綺麗だと思った。見つけた。この人だ。
《牡丹》は自分で何かを決めることが苦手だった。しかし、この夜、この瞬間はうまくできたと思う。己で選んだ声を探しここまでやってきた。さらに勇気を出して一歩前へ進み出る。もちろん全てが上手くいく、なんてポジティブな気持ちではない。見つけた安堵と緊張、相手が受け入れてくれるかという不安、そしてこの夜の高揚感で頭はごちゃ混ぜだ。《藤》に向かい合った。うまく笑えているだろうか。
「……見つけました。ここにいたんですね」
《藤》は目の前に現れた《牡丹》に驚いた。そして、目の前の可憐な女性が自分を選んでくれたことに、とてつもない喜びを感じた。こんな不甲斐ない、弱い自分を見つけてくれた。よく見ると彼女はとても緊張しているようだ。そんな思いをしてまで自分を探してくれたのだと思うと、一気に愛しいと思う気持ちがわいてきた。
「ありがとう、見つけてくれて」
《藤》と《牡丹》は巡り合った。全身から喜びが溢れ、この人こそ生涯を共にする番いに違いない、そう思った。二歩、三歩と歩みより、触れんばかりに近づく。
ここで強い風がざあっと吹き荒れた。 互いに手と手を取り合おうとした瞬間、大きな力で引き戻される。視界は暗転し、手足の感覚が無くなった。腹の辺りをぐいと引っ張られる。何が起こったのだろうか。思えば二人が祭りに紛れ込む前にも、この様に引っ張られた感じがする。
気づいたら、《藤》も《牡丹》も地下鉄のホームに立っていた。浴衣はもう着ていない。いつも使う駅だ。先ほどまでの濃厚な夜の気配は少しもなく、冷たく光る人工の灯りと、一面のコンクリート、巨大な広告だけが目に入る。ごおっと急行電車が通りすぎ、にわかに風が髪を揺らした。
月夜、浴衣、提灯、唄、藤、牡丹。全てが夢まぼろしだったかの様に、記憶がどんどん薄れていく。二人の男女は、何が起こったのか分からないと言う顔で互いを見つめていた。さっきのあの不思議な祭りは何だったのか。身体に残っているこの高揚感はなんなのか。目の前にいる相手は、……いったい誰なのか。
◇
りーん、りーん。澄んだ夜空に満月が浮かぶ草原で、今宵も鈴虫たちが求愛の羽を鳴らす。田舎のあちこちで、あるいは都会の片隅で。命を繋ぐために、番いを求めて懸命に今日を生きる。冬が始まる前に、彼らの命は尽きてしまうのだから。