金曜夜の奇跡は、土曜朝の奇跡を生む
花金……もう一般的にも死語になりかけているこの言葉は、自分には関係のない俗語だと思っていた。彼女にとって、定時に終わった金曜日は嬉しさ半分、寂しさ半分。どちらかといえば、あまり好きではなかった。飲み会、合コン……そのようなイベントに縁もなく、巷が賑やかになる分、寂しさが募る夜だから……。
独りで部屋に戻るのは癪だから上野で時間つぶし。時間つぶしだけなら、上野に限ることはないのだが、時折わずかな奇跡を期待して降り立つ。しかし、毎回、毎回、現実の厳しさに虚しさを感じて帰途に着く……その繰り返し。
平田久美子は、大学進学のため青森から出てきて、そのまま東京で就職し、はや七年。平凡に超がつくほど平凡な生活を送っている。
(このまま実家に戻ろうかな……)
新幹線ホームへの入り口で躊躇う。だが、一旦実家に戻ってしまうと、再び東京に戻ったときの焦燥感は半端ない。だから、なるべく戻らないようにしていた。地元の友人はほとんど家庭を持っている。それこそ、今度帰省したら、寂しさで狂ってしまうかも知れない。
しかし、上野で降りても別段することはない。まだ明るい初夏の上野公園をぶらぶら歩く。夕方の六時でも、十分明るい。中学や高校のころは、夕方六時というと結構遅い時刻に感じたものだが……。
東京に来て七年。この公園は何度も(独りで)歩いたが、動物園には入園したことはない。勤務後は当然閉園時刻をとうに過ぎている。かといってわざわざ休日に独りで動物園に行く気にはならない。幸せそうなカップル、楽しそうな家族が溢れている場所にわざわざ足を運ぶ気は起こらない。
西日が差す動物園前の砂利道をぶらぶらする。初夏の暑さを感じる。風がないせいか、体感温度が実際よりも高く感じる。すっかり熱中症になりやすい季節になった。
(映画でも観よっかな……)
そう思い立ち美術館よりに歩みを進めて駅裏に戻ろうとしたとき、キラリ光るものが久美子の視界に入った……西日に反射したガラスの欠片? しかし、角度を変えたらすぐにその光源は消えた。
久美子は目を細めながら、光源を感じた方向に数歩進んでみる。
美術館を取り巻くブッロク状の垣根。ツツジが植えてあるその一つ。
(確かにあそこで何かが反射した……)
周りを見渡すが誰も気がついていない。人で溢れかえる公園だが、みな思い思いに行動している。
久美子はその垣根の前まで来た。虫や小動物が苦手なので、恐る恐る覗き込む。
「あっ!」叫ぶのと同時に右手で口をふさいだ。
小さく叫び声をあげたあとは……??????……頭の中に?がたくさん浮かんだ。そして、なぜだか、人に知られてはいけないという衝動に駆られた。久美子は改めて、周りを見回す。が、自分に興味を示している者など皆無だった。
もう一度、恐る恐る覗き込む。
(人形? フィギュア?)
でも、それはかすかに動いているようにも見える。胸の部分が上下に小刻みに動いているように……。
(うそ? 本物? 生きてる?)
久美子はバッグからハンカチを取り出し、包むようにしてそれを拾い上げ、縁石に腰を下した。
そして、生まれたばかりの仔猫を抱くように両手で抱える。それは、十五センチほどの大きさだった。やはり、胸のあたりが小刻みに動いている。そう、呼吸をしているようだ。本当に生きている? しかし、どうやら具合が悪そうだ。熱っぽい? 急激な暑さで熱中症にでも……?
久美子はバッグから飲みかけのミネラル・ウオーターのペットボトルを出し、ティッシュにしみこませ、それの体を拭いた。
さきほど久美子が見た光は、ステンレスのような羽に西日が反射したもののようだ。その羽は、角度によって虹のように多彩な色を放っている。羽が直接光源となっているのではなく、玉虫の外翅のように光に反射して見る角度で色が変わるのだ。
不思議と恐怖感はなかった。それよりも、なぜかこれが人に見つかってはいけないという隠ぺいの思いの方が増した。
久美子は、それをそおっとハンカチにくるんで、静かにバッグに入れた。そして、なるべく揺れないように肩に掛け、急ぎ足で駅に向かった。
電車に乗り込むと、作り立てのケーキを抱えるように、優しく両ももの上にバッグを置く。揺れる振動が伝わらないように両手でバッグをしっかり支える。電車というものは、こんなに揺れる乗り物だったかとさえ感じた。いつもと変わらぬ家までの道のりが今日はとても長く感じた。
久美子にとって久しぶりの来訪者だった。部屋に戻ると、早速タオルを湿らせ、即席のベッドをつくった。そして、ハンカチにくるんだそれをそおっと持ち上げる。そのまま即席ベッドに寝かせ、ハンカチを広げる。肩で息をしている。ちゃんと生きている。
「がんばって……」
そう、声をかけ、うちわで優しく風を送りながら、しばらく見つめたままでいた。
*
8才まで信じていた。
お人形遊びが大好きで、いつもお人形やぬいぐるみと話をしていた。そのころまでティンカーベルのアニメを何度も繰り返して見ていた。モノづくりの妖精、水の妖精、動物の妖精など、妖精にはそれぞれ役目があるということも知った。
その妖精を……見つけた。
それが巷の都市伝説で言われるちっちゃなおっさんかも知れない。でも、輝く羽、金色に輝く髪、布をまとったような衣服、西洋のお人形のような彫りの深い表情。
久美子にとって、これはまさしく妖精……ティンカーベルと同じ妖精だった。
その容姿は女の子。かわいいお人形のまま……。上野公園の砂利道で拾い上げた妖精。おとぎの国から来た妖精……。
それが今、目の前で小さな呼吸をしている。目を閉じたまま、体をうなだれている。
久美子はテーブルに両腕を置き、添い寝をするように、頭をもたげ、やがて目を閉じた。
*
目が覚めた。
(あれ? ここで何をしているの?)
テーブルにうつ伏せの状態だった。いつの間にか眠ってしまったようだ。
目の前には濡れたタオル。
「あっ! そうだ! 妖精!」
即席ベッドの上にはだれもいない。辺りを見回す。
(夢?)
全部夢だったのか? 久美子は自分に疑念が生じた。東京での長い一人暮らしからの寂しさのあまり、東京が見させた幻だったのか?
でも、目の前には濡れタオルで作った即席ベッド。そして、あの子を包んできた湿ったハンカチ……。夢だとしたら、自分はそれを現実と混同しているのか? いよいよ末期か? など自分を戒めることしか頭に浮かばない。
寝ぼけた頭で部屋中を見回す。そして、テーブルの下を覗こうとしたとき、なんと妖精が自分のももの上に丸くなって眠っているではないか。いつの間にか……。
子猫の赤ちゃんよりも小さく、重さも感じられないほど軽い。
(やっぱり生きているんだ……)
ロボットや仕掛け人形が自ら起き上がって、人間のももの上で眠るわけがない。久美子は、指先でそおっとその子の髪を撫でた。サラサラの金の髪。子供のころ想像していた通りの柔らかい肌触りだった。
うっとりという表現がピッタリだった。今の自分を客観的に見たら、きっとそう見えたに違いない。見惚れてしまった。本物の妖精が自分のももの上にいる。写真を撮ろうとか、人に教えようとか、そんなことは一切思いつかない。むしろ誰にも知らせず、自分だけの秘密の宝物にしたかった。
しばらく見続けていると、妖精は上半身をモゾモゾと動かし始めた。
(あれ? 目を覚ますのかな?)
こちらのことを認識してくれるのだろうか? 言葉は通じるのだろうか? 怖がりはしないだろうか?
たくさんの疑念と同時に、いろいろなことを知りたいという欲求も生まれた。
名前はなんだろう? 仲間はいるのかな? 普段はどこで生活してるんだろう?
でも、この子が目を覚ましても詮索することはやめておこう。
自分が青森から東京に来たときも、初めは興味本位でいろいろなことを聞かれたものだが、正直、いい気はしなかった。故郷のこと、家族のこと、恋愛のことなど、他人のそんなことを聞いてどうするんだろう? そう思ったことを思い出した。付き合っていくうちに自然に知り合えればいいことなのに……。
この子とは、自分の体験から学んだことを生かして接していこうと久美子は思った。それよりもこの子の体調が心配だった。病院に連れていくわけにもいかない。まして動物病院になんて無理だ。
やがて妖精は、丸まっていた体を伸ばし久美子のももの上で目を開けた。小さな頭を重そうに起こし、久美子の顔を見た。怖がる素振りも見せず、ニコッとほほ笑んだ。
「おはよう。良くなった?」
久美子が問いかけると、妖精は両手を胸の前で合わせ一礼をした。お礼のつもりだろうか?
「私の言葉……分かるの?」
妖精は右手の人差し指と親指で半円のような形を作って見せた。「少し」という意味のようだ。
アニメで見たティンカーベルは、人間の言っていることは理解できていたが、声が人間に届いていなかった。この子も同じだった。
「ごめんね、突然こんな所に連れてきちゃって。熱っぽかったから、体を冷やすためだったのよ。心配しないで、良くなったらすぐに帰してあげるから」
妖精はまた胸の前で両手を会わせた。
「それまでは、ここで仲良くしましょ。っていうか、うちはどこなんだろう?」
久美子はしばし考え、妖精を優しく持ち上げ、テーブルに置いた。
「ちょっと待ってて」
席を立ち、紙と鉛筆を持ってきた。その鉛筆で紙に試し書きのように書くところを、妖精に見せる。妖精はその動作をじっと見つめる。次に久美子は鉛筆の芯の先を折り、妖精の前に置く。
「これで書けるかな?」
妖精は理解できたようだった。折れた芯の先を抱え、紙に向かって何かを書こうとしたが、思ったより自由が効かないようだった。
それを見た久美子は妖精に待つように促す。
「ちょっと待って」
アニメのようにはいかないようだった。
今度はスマホを取り出し、メモアプリを起動させキーボードを画面上に出した。そして、指で適当にキーをたたく。
妖精は合点がいったようで、羽ばたいてフワフワと舞い上がった。
そして、一字一字足先でキーを踏む。
〈 t h a n k y o u 〉
「あっ、やっぱり英語なんだ」
久美子はキーを押した。
《 What’s your name? 》
妖精はまたフワフワと上下した。そして、足のつま先でキーを踏む。
〈 a m a n d a 〉
「ア・マ・ン・ダ……アマンダ?」
妖精はピコピコと小刻みに首を上下させた。
《 Nice to meet you. 》
〈 m e t o o 〉
《 Are you all right? 》
〈 g o o d 〉
「良かった」
久美子が笑みを浮かべると、アマンダも笑みを浮かべてくれた。
〈 s p e a k j a p a n e s e o k 〉
「日本語で話して? 私の言うことはわかるのね」
アマンダはまたコクコクと首を動かした。どうやら、こちらの言うことは日本語でも英語でも通じるようだ。
「良くなったから、おうちに戻らないといけないね。きっと家族が心配してるわよ」
〈 t o m o r r o w 〉
「明日帰るのね。じゃあ、今日はゆっくりおしゃべりでもして過ごそうか」
ニコッと笑顔を見せ、首を動かすアマンダ。
旧知の友達のように、スマホを利用しながら会話する二人。
「ところで、どこに住んでいるの?」
〈 t h a t p a r k 〉
「上野公園?」
コクコクと頷くアマンダ。
「他にも仲間はいるの?」
〈 m a n y 〉
「へえぇ、たくさんいるんだ。でも、見たことないよ」
〈 y o u s e e b u t y o u d o n o t n o t i c e 〉
「私たちは見ているんだけど、気付いていないの?」
コクコクと頷くアマンダ。
「ふ~ん。いるのは、上野公園だけ?」
アマンダは首を横に振って否定した。
〈 a r o u n d t h e w o r l d e v e r y w h e r e 〉
「世界中至る所?」
アマンダは頷く。
「あなたはどうして上野公園にいるの?」
〈 m a n y t r e e s 〉
「木がたくさんあるから……自然が好きなんだ」
〈 w h y w e r e y o u i n t h e p a r k 〉
今度はアマンダの方が尋ねてきた。
「私がなぜあの公園にいたかって?」
久美子は言いにくそうに答える。
「実はさ、ちょっと気になる人がいるんだけど、その人の利用する駅が上野駅なの。それで、もしかしたら会えるかな? って思って、ときどき散歩がてらに降りるの。会えたためしはないけどね」
それを聞くとアマンダは両手でハートをつくってみせる。
体長15センチの妖精に冷やかされ、赤らめる久美子。
「そんなに冷やかさないでよ」
恋バナにも花が咲く
「私だって、気になる人はいるよ。会社の安藤先輩っていうの。いっつも部署で最後まで残って残業してるんだ。飲み会とかも興味ないみたいでさ、仕事一筋って感じの人。でもさ、なんかそういう一途なところに惹かれるのよね」
〈 i n v i t e 〉
「自分から? そんなの死んでも無理」
フワフワ浮かびながらアマンダは久美子の話に耳を傾ける
〈 y o u c a n 〉
「無理! 無理!」
アマンダはひらめいたように、i n k と打った。
「インク? インクがいるの?」
アマンダはコクコクと首を振る。
「インクはないけど、朱肉ならあるわ」
そういって朱肉を取りに一旦立ち上がり、普段あまり使うことのないそれをアマンダの前に差し、蓋を開ける。
アマンダはそれに右手を置き、てのひらにペチャペチャと朱液をつけた。そしてジェスチャーで手の甲を出すように久美子に指図した。
言われた通りに久美子は手の甲を差し出す。
アマンダはフワっと舞い、久美子の手の甲にのる。そして、その小さいエリアにしゃがんで朱肉を塗った右手のひらを久美子の手の甲に置いた。そこには小さな小さな手の跡が残った。
「うん? どういうこと?」
アマンダは再び舞い上がり、スマホのキーを踏んだ。
〈 m a g i c 〉
「魔法?」
うんうんと頷くアマンダ。
「恋の魔法? これで恋が叶うの?」
やはりうんうんと頷くアマンダ。
久美子はふふと笑みを浮かべ言った。
「じゃあ、消えないようにしなきゃね」
〈 h a v e c o n f i d e n c e 〉
「ありがとう。がんばる」
それから二人は恋バナ女子トークで盛り上り、やがて……眠りついた。
久美子にとっても久しぶりの女子会だった。相手はちょっと小さいが、通じ合えるものは同じだった。こうして思いもよらず、楽しい金曜日の夜を過ごすことができた。
*
翌朝、目が覚めると、アマンダが静かな寝息を立て、枕元で丸くなっていた。久美子の右手の甲には小さな手の跡がしっかり残っている。恋の魔法のマーク。それを見て、ニコッと笑った。
「おはよう」
久美子はささやくようにアマンダを起こす。
アマンダは眠そうに体を伸ばし目を開いた。
「体調はどう?」
アマンダは親指を立てた。
「良かった。おうちに帰らないとね。私シャワー浴びてくるわ。あなたもお風呂入る?」
アマンダは頷いた。
久美子は茶碗にぬるめのお湯を張り、テーブルに置いた。
「なんか目玉の親父みたい」
アマンダはそれを聞いて、首をかしげる。どうやら意味が分からないようだ。
「ふふ、気にしないで。どうぞ」
そして、二人はそれぞれ入浴しはじめた。
*
土曜日の午前中。
初夏の上野公園はすでに多くの人で賑わっていた。
仕事のときと違って、ラフなスタイルだった。久美子はトートバッグにアマンダを入れ、昨日の場所に戻ってきた。右手の甲には朱色の手形がくっきり残っている。
縁石の一つに腰を下し、バッグをそうっと開ける。そこからアマンダが見上げていた。
「着いたわよ」
アマンダはフワフワとバッグの縁まで舞い上がってきて、縁に立つ。
「ここでお別れね。楽しかったわ」
アマンダは両手で合掌のポーズをとる。
「でも、あなたがここにいることが分かったから、また時々来るね。私に気付いたら、飛んできてよ」
アマンダは指でオーケーの合図をする。そして、ふわっと、久美子の頬のあたりにまで上がった。そして、久美子の頬に口づけをし、手を振って木々の方へ飛んでいった。
その姿を目で追う、三、四歳ぐらいの女の子がいた。久美子は何も言わなかった。
(見える人には見えるんだ……)
アマンダはやがて久美子の視界から消えた。きっとあの木々の茂みの中にはたくさんの妖精たちがいるのであろう。でも、それを無理して探そうとはしない。妖精たちは、気付いてくれる人にだけ、姿を見せてくれるのだ。いつか自分に子供が産まれたら、ここに連れてきてあげよう。そう思いながら立ち上がり、背伸びをして、大きく息をついた。
(また、一人になっちゃった。さあて、映画でも観にいこっかな)
そのときだ。
「あれ? 平田さん?」
なんと目の前に知っている顔……憧れの安藤先輩だ。普段見ることのできない上下のスウェット姿だった。
「なにしてる? 彼氏と待ち合わせ?」
「いえ、違います。ただの散歩です。先輩は?」
「俺? 俺は毎週土曜日朝の日課。いつもここでランニングしてるんだ」
「そうなんですか……」
「せっかくだから、コーヒーでも飲みに行こうよ」
安藤は気さくに久美子を誘ってきた。
久美子も戸惑いながら、頷く。
「は、はい……」
「でもランニングの途中だから、平田さんも走るんだよ」
「えっ?」
そういうと、安藤は走り始めた。
「ちょっと……」
安藤は後ろを振り向いて久美子に声をかける。
「さあ、ゆっくり行くから、ペースを合わせて」
「はい!」
久美子も小走りで走り始め、安藤の元に追いつく。
「バッグ持ってあげるよ」
そう言って、安藤は手を差し出す。
久美子はバッグを手渡す。ごく自然にできた行動だった。
「なんかひったくり犯が追いかけられてるみたいだから、横に並んでよ」
久美子は笑い返した。そして、右手の甲を見る。そこには小さな手形が残ったまま。
(これって魔法の効果?)
そして、走りながら横目で茂みを見る。あの茂みのどこかにアマンダが……。
久美子にはアマンダがこちらを見てほほ笑んでいる姿が目に浮かんだ。
二人はペースを合わせて走り始めた。