一ヶ月かけた取材の結果
上毛新聞に我が家の惨状が始めて記載されたのは、2016年、1月10日(日曜日)、火事の翌日のことだった。
その内容はk氏の工場(隣の家の町工場)から火事が発生し、我が家に引火し結果全半焼したというものである。この記事自体には大きな間違いはなかった。全半焼という記述だが、これは火元となったk氏の工場と併設されるk氏宅が半焼、燃え移った我が家が全焼という事実と照らし合わせ、このように表現したと解釈した。
火元となった家は工場を営むだけあって、それなりの耐火性を持つ建築であったらしく、熱で窓が割れた程度で原型は綺麗に残っていた。何しろその数日後、この家の夫人が布団を干していたという目撃情報があったくらいだ。
それとは対照的に我が家の有様は惨憺たるものだった。兄は焼夷弾が落ちたようだと例えたが、その比喩に異を唱える気は起こらなかった。
なんともやるせない話だが、火元となったk氏の工場と消火活動の恩恵を受け、なおかつ頑強に造られたk氏の家は直せば住める程度に残り、我が家は焼け跡としか表現できない状態になり果てたのである。
実際、翌日以降富岡市内中から死肉に群がる烏のように集まった人々の中には、私が説明するまで、我が家が火元だ錯覚していた者も多かった。
呆れながら説明したものだが、1月10日、それなりに正確な報道をした上毛新聞が、一月以上取材を重ね世に放った2月13日の記事の大きな誤りを考えれば、翌日のその程度の誤認はかわいいものと言えたのかもしれない。