サバイバー
「基治って呼んでも良い?」
「良い」
「そう、俺も誠で良いよ」
俺が脱衣場の扉を閉めると、誠はこちらに寄ってきて、手に持ったマグカップを口に近づけて中身を飲み込んだ。どうでも良いがマグカップに描かれた、目の焦点のあっていないアホなカラスの絵は誰の好みで買われたのだろうか。センスを疑う。
誠は俺の疑いに気づかぬまま一息吐き、また先程と同じく笑う。
その笑い方で、俺が思った通りに栞菜の「大嫌い」の言葉があちらまで聞こえていたのだと悟った。
「栞菜のアレ、気にしないで。凛が関わるといっつもああなるんだ」
「ああなるって……やっぱ好きなのか」
「そうだね。目の前が見えなくなるくらいには」
「それは結構重症じゃ…」
「栞菜はあれくらいで良いんだよ」
その言葉の意味はよく分からなかったが、俺はただそうかと頷いた。
そうして俺は、観察の目を向ける。
1個だけだが誠は栞菜より年下だと聞いた。しかし、見る限り、精神年齢は栞菜よりも年上で、あまつさえ自分よりも年上のような気がしてならない。食べ物の好み然り、口調や落ち着き度然り。どうすればこんな中1になれるのだろうか。
「お前も、凛の事情を知ってるのか?」
「知ってるよ。知らないのは紫都と栄」
まぁ、チビ2人が知らないのは当然だろう。本人が渋るほど濃い話を、10歳にも満たない子供が黙って聞いてられるわけもない。
「お前はどう思ったんだ?」
「物凄く同情したよ。栞菜が半年程口を聞いてくれなくなるくらいには」
どうせ栞菜と同じく同情なんかしないと言われると思っていたので、俺はびっくりして誠を凝視した。何にだって分け隔てなく平等の眼差しで物事を捉えられる奴なんだろうなと思っていた分、反応は露骨だ。
それを見た誠は、後味の悪い顔をして、話を続けた。
「俺と栄は、凛や栞菜程酷い事をされてるわけじゃない。昔、この近くに細々とやっている小さな幼稚園みたいな施設があって、元々俺と栄はそこで暮らしてたんだ。その施設が無くなるってんで、兄弟揃って仲良くなってた瀧に引き取られる事になったってわけ。本当の親は借金に借金を重ねて俺達を育てられなくなったんだ。勿論死んではいないし、今もコツコツ借金を返してる。たまに会ったりもする。俺は、凛が失くしてしまった物を全部持ってる。だから同情したんだ」
凛が失くした物とはなんだろう。俺の話を聞いて言った、親近感と誠の話からするに、本物の家族、と言う事なんだろうか。
しかし、全部持っているという事は、まだ他にも失くした物があるのだろう。
一体、それはどんなものなんだろう。
「ここにいるみんな、大変なんだな」
「? そうだね。基治もでしょ? でもここは凄く楽しいよ」
焼けた肌色から見えるは並びの良い歯は、白くて、やけに強調されて輝いて見えた。
「明日編入試験なんだっけ?」
「そうだな」
「来て早々大変だな。頑張ってね」
「ありがとう」
そのまま、誠は2階へと消えて行った。この場でやる事の無くなってしまった俺も、続いて2階への階段を登る。廊下にはもう誠の姿は無く、俺は割り当てられた自分の部屋へと入った。
明日が編入試験と言う事は重々承知だったのに、参考書を開いた時襲って来た気怠さに全てのやる気が削がれ、俺は本をそのままにしてベッドにダイブした。
車の中でも、ここに来てすぐにも眠っていたのに疲れはまだまだ取れないのか、俺はまたぐっすりと眠りについた。
その夜もまた、家族が死ぬ夢を見る。
*
遣る瀬無い気分でゆったりと目を見開く。部屋は肌寒い程に冷えていて、ベッドからはみ出ていた布団を自分の体に巻きつける。部屋の中は青白いくらいに明るくなっていて、カーテンの隙間からは申し訳程度の外の陽が漏れていた。時計の針はまだ朝の5時を指している。
「そうだ……、今日からここに住むんだっけ…?」
何となく、友達の部屋で1夜を過ごしたような気持ちを修正させようと、俺はわざと口に出してそう言った。自分のその言葉を聞いて、脳みそも少しは理解してくれたようだ。しかし、今まで過ごした自分の家とのギャップに、まだ違和感は拭えない。
起きてから5分経っても眠気は訪れず、逆に目が覚めて行く一方だったので、俺は地面に足を付けてクローゼットの中からカーディガンを取り出して着込んだ。やっぱり1日に何時間も寝るともう消耗しきった体力も全回復しているようだった。
ふいに、病院で2週間も眠り続けたのもこんな感じのせいだったのでは? と考えた。きっと精神的にも身体的にも最大級の負荷が掛かっていたのだろう。
1つ疑問を解決した頭で、部屋を出て1階に降りた。そのままトイレに直行して用を足す。用事が済んで、部屋に戻って、やる事も無いし昨日出来なかった編入試験の勉強でもしようか、なんて考えて目線を移すと、居間の灯りがついている事に気が付いた。
朝5時に誰が起きているのかと、迷わず居間のドアノブを捻る。居間の中ではカチャカチャジュージューと料理を作っている音がして、何だか朝っぱらから肉の重たい匂いがする。夜に嗅ぐなら絶品だろうなと思いながらキッチンに顔を出すと、凛が1人、フライパンを揺すっていた。
「……朝食の準備か?」
「んっ? あぁ、おはよう。早ぇな」
それはこっちのセリフだろう、と言いたくて、口を閉じた。
エプロンを付けた凛の顔は、寝起きの顔からは程遠い程昨日見た顔と何ら変わらず元気そうだ。
「これは朝食じゃないぞ。こんな肉肉しいもの朝っぱらから食べれないだろ」
「まぁ、……確かにそうだけど」
肉の匂いがするフライパンを覗くと、何だか1人が食べるには小さすぎるだろうコインサイズのハンバーグが幾つも色付き良く焼かれている。
「弁当用な。今日の瀧の弁当分と、後のやつは冷凍する分。瀧と俺と、それからこれからはお前も昼飯弁当チームだから、こうやって一気に作って冷凍しとくんだ。毎日作るの面倒だからな」
「飯作る役って、こんな事もするのか」
「まぁ弁当も立派な飯だからな。皆が起きる前にこういうの作っとかないと、味見したいってうるさいんだよ」
味見だけでストックが無くなっちゃうからな全く……。と愚痴りながらも、その顔はどこか嬉しげだ。
「ていうかさ、今日何時に学校なわけ? 俺何も聞かされて無いんだけど。弁当いるの?」
「あぁ……確か、編入試験の開始時間が9時半で、多分12時には終わってる」
「んじゃあ9時くらいに行けばいっか。弁当はいらないな。休日に学校何て部活してるみたいだな。試験部?」
「なんだその絶対入りたくない部活」
「ははっ」
俺の別段面白くも無いツッコミに笑いながら、凛はコンロの日を止めて焼き上がったミニハンバーグを皿の上に1つずつ乗せていった。
「飲みもんでも飲むか?」
「飲む」
「お茶とー、ポカリとカルピス。あ、あとアイスコーヒー」
「……じゃあコーヒー」
「げ、お前マジ? ナマイキー……まぁいーや。氷は?」
「いらない」
凛は食器棚からグラスを取り出して、冷蔵庫に入っていたペットボトルのアイスコーヒーをそれに注いだ。グラスに描かれた絵は、昨日誠が持っていたマグカップのカラスと良く似た、目の焦点が定まっていない蛙。早朝一発目から、センスを疑う。
「ガムシロとフレッシュはそこの網棚の2段目な。スプーンは食器棚の引き出の1段目」
そう言いながら渡されたグラスを受け取り、網棚からガムシロとフレッシュを1個ずつ取った。キッチンから出て食卓の椅子に座り、フレッシュで白く偏り濁ったコーヒーをスプーンで混ぜる。
「良く飲むのか?」
「いや、昔から、普通に目は覚めるんだが寝ぼけが酷くて。頭覚醒させようとコーヒー飲んでたら、何か癖になったんだ。飲むのは朝だけ」
「そっか」
コーヒーを飲み込みながら凛を見ると、凛も自分でグラスにお茶を注いで飲んでいるみたいだった。さっきの言動と言い、どうやらコーヒーは飲めないらしい。
俺は一息吐いて、テーブルの上にグラスを置き、昨日のように居間の中をぐるりと見渡した。何度も思おうが、ここが他人同士の集まる施設には見えない。キッチンからは野菜を切る音や、鍋の中身が煮込まれる音、何かを焼く音が絶え間無く続いている。目を閉じてその音を聞いていると、何だかまだ母が生きている気がした。
「あ、てかさー、お前。風呂入ってねぇだろ昨日?」
しかし、男の声は俺の想像をいとも簡単に打ち砕く。何とも言えない感情で、俺はその質問に頷いた。
「風呂入って来いよ。飯までまだまだ時間あるし。お湯に浸かりたいなら自分で入れろな」
「分かった」