プロローグ
僕がこの世界に来たのは5歳くらいのころだったと思う。
平和な日本で暮らしていて、幼稚園の帰宅途中に車が突っ込んできてからの記憶がない。目が覚めたらこっちの世界にいたのだ。初めは困惑したが、困ったと主張するだけで助けてくれる大人がいるような甘い世界じゃないのだと直ぐに気がついた。自分の両親も、お姉ちゃんも友達も近所のおばちゃんたちもいない世界だと気付くのに時間はかからなかったが、ぬるま湯のような世界で過ごしてきた僕にとってこの環境を受けいるのは時間がかかった。
僕が落ちた町は、路地から一歩入れば飢えて死んだ子供とか、ぐちゃぐちゃに切り殺された死体とかがゴロゴロ転がっているようなそんな最下層の町だった。空気が澱んでいて食べ物なんかめったに手に入らない。そこらへんを流れる水も鉄の錆びたような濁った色をしていて飲めたもんじゃない。そんな街だから、うろつく人間もロクな奴がいやしない。人格とか人情とかそんなもんが備わった奴がいるはずもなく、金や食べ物を持っているだけで殺しにかかってくる。常に死と隣り合わせで、気を抜いたら誰かから殺されるような場所だった。TVやゲームで見るような世界が現実になった世界に、最初は発狂さえしたが幼かったから環境に適応するのに時間はかかったが一度慣れてしまうと抵抗さえ覚えなかった。
町の数少ない子供たちは、お互い集まって支え合っているように見えるけど、信頼はしあえない。集団でいるところを大人に見つかったら一人が捕まっても絶対に助けに行ったりしない。まあ、そんな関係だった。一人でいた僕を見つけ育ててくれたことに感謝はするが、その恩を返そうだとは思わない。自我が芽生えたころ、僕はそこを抜けた。僕を追ってくるようなやつはいなかった。それが当たり前だったから。動物が巣立っていくような、そんな感覚だった。そこからは誰の目にもつかぬように這いつくばって生きていた。
この町では、法も秩序も道徳も一切通用しない。誰かをねじ伏せる力と能力さえあれば生きていける。世界の中核を担うはずの、この国最大の汚点であり、国家最大の無法地帯。
ただの餓鬼が生きていくには酷すぎる世界だったけれど、まだまだ餓鬼だった僕にも、この町で生き抜く手段は理解できた。
『権力のある奴に取り入るか、自分でのし上がるか。』
その二択の選択に気づいた時、僕は後者を選んだ。権力のある奴に取り入るために売れるほどのメリットを僕はまだ持っていなかったからだ。だから、どいつなら勝てそうか、いつ狙おうか、どう殺そうか。最初はそんなことばかり考えて、物陰から喧嘩の仕方を覚えては弱そうなやつを狙って実践した。非情だとか卑怯だとかいうような輩はそこにはいなかったし、生き抜くためには手段なんか選んでいられなかった。
初めて人を殺したのは、雪の降る寒い日だった。真っ白な雪が赤く染まっていく様を見ても僕は何の感情も抱くことができなかった。悲しいとか怖いとか辛いだとか、そんな感情を持てるほど僕にはゆとりがなかったし、見慣れすぎて何とも思えなかった。
ただ生きるために人を殺め、たまに逃げて、生きるために不味い味のしない食べ物を貪り食う。そんな生活を送っていくうちに、まだまだ子供だった僕でも表を歩けるようになった。喧嘩は感覚で覚えていったし、体が勝手に動いてくれるような感覚がする時だってあった。大人でも武器を持った奴でも素手で倒せるほどには強くなれたし、大概負けない。なめてかかってくる奴は隙だらけだし、見知った街の構造なんか把握しているからかなわないと思ったら逃げればいい。たまに金を持っている奴を見つけたら狙って、奪った。そんな毎日の繰り返し。
段々と僕は感覚も感情もなくなっていった。僕は自分を人間というより獣に近い存在とさえ思う。たまに、僕は僕という人格さえ見失いそうになる。自分が本当に人間なのかさえ分からなくなるような。いつかそう考えていたことも忘れてしまいそうな気さえした。段々と考えるのも嫌になった。
多分、そんな頃だった。
先生が僕を見つけてくれたのは。