約束の腕時計
高層ビル五階
「……ふぅー」
白い吐息が部屋を舞って、やがて儚く消えていく
上着を脱ぎ捨たバムトは骨肉隆々の体を待機に晒している
息が白くなるほど寒いというのに彼の上半身からは汗が流れ出ており、さらには蒸気まで上げている
鉄の塊かと思うほど巨大な彼の拳には血管が浮き出ている上に縦横無尽に傷が入っている
それを気にするまでもなく、彼はその拳を正拳突きのように何度も何度も空を切り裂くように繰り出す
彼の汗が空気中に飛散し、地面に付くこと無く霧となって消えていく
「滑稽だな」
いつの間にかバムトの背後のソファに座っていた鴉がその光景を嘲笑うように眺めている
バムトは眼だけを背後に向け、その不快感を視線で物語る
「恐怖を拭おうと必死に拳を振るうか」
「まだ傷も完治していないのに」
「……ほぼ完治している」
「後は生傷だけだ」
「すぐに治る」
「すぐに、か」
「……聞かせて貰おうか、バムト・ボルデクス」
「貴様は恐怖しているな?」
「……否定はしない」
「確かに俺は憑神や紅眼に対して恐怖している」
「それを拭い去る為に拳を振るっているのもまた事実」
「俺は今……、この身を恐怖に染めている」
「情けないな」
「曾てはロンドンであの化け物を、防衛本能である模擬化獣を相手にしておいて」
「たかだか[作り物]に恐怖するのか」
「……何故だろうな」
「俺自身にも理解できない」
「貴様の言う通りだよ、元No,1」
「何故だかな、何故なのだろうかな」
「俺は恐怖している」
「この拳は今、慄然としているのだろう」
額に溜まった汗を腕で拭い、バムトは窓の近くへと歩いて行く
腕を組んで冷え切った金属のようなガラスに背を預け、眼を細める
彼の全身を流れ出る汗は止まる事無く、皮膚を一直線に流れ落ちていく
「その恐怖は何故生まれる?」
「貴様の、戦い狂う貴様の何処から生まれる?」
「答えろ、狂戦士」
「貴様は俺に似ているのだからな」
「……俺の恐怖の根源は、いつしか己の根源になると?」
「あくまで懸念だ」
「その理由にもよる」
「言っただろう、俺にも理解できないのだ」
「まるで、暗闇の中を手探りで歩くようにな」
彼の返答に落胆したように眉を顰め、鴉はソファから腰を離す
怪訝さを露わにしたバムトの隣を通り過ぎ、彼は扉に手をかける
ドアノブを捻り、引いて退出しようとした途端に気が付いたように鴉は再び部屋に戻ってくる
「そうか、何だ」
「簡単な事だ」
「何?」
鴉は足早にバムトへと近付いていく
眼を少し開けたバムトは腕組みを解き、背をガラスから離す
それに構う事もなく鴉は彼の足下に脱ぎ捨てられた上着の腕に置かれたそれを手に取る
「腕時計」
「布瀬川総督から受け取った物だな」
「……触るな」
バムトの牽制も鴉には届かない
彼はその腕時計を珍しい物でも持ったかのように見入り込む
「……[Promise to fulfill and to protect future]」
「果たすべき約束と守るべき未来、か」
「返せ」
彼の手から無理やり時計を奪い取り、バムトは上着を持ち上げる
未だに汗の滴る肩に上着を乗せ、彼はズボンに腕時計を仕舞う
「随分と雑に彫ってあるな」
「石で削ったのか?」
「……書いたのは俺ではない」
「布瀬川総督か」
「なるほど、やはりな」
満足のいったように鴉は頬を緩め、バムトに弾かれた手を懐に入れる
苦々しく表情を歪めたバムトに背を向けて彼は嬉々さを含んだ声をあげる
「滑稽、諧謔、哀歓」
「全く……、老いたか?二人目」
「……何だと?」
「そうだ、そうだろう」
「貴様は老いた」
「中身だ、外見ではない」
「忘れたか?俺達は化け物だ」
「紅き眼を持ち、神の血を宿し、規格外の力を持つ」
「化け物だよ」
「忘れるはずが無い」
「俺はその化け物の血を喰らい、生き残った二人目の人間だ」
「忘れるはずが無い」
「俺は化け物として生き残った二人目の化け物だ」
「それが解っていて解らないのか?」
「己が恐怖する理由が、慄然する理由が」
「回りくどいぞ、元No,1」
「貴様がそんなに回りくどい言い方をする人間だったか?」
「俺の人間性を勝手に決めるなよ、バムト」
「ただ楽しいではないか」
「化け物が人を愛すとは」
「……あぁ、そうだな」
「昔話にもあっただろう?」
「[美女と野獣]」
「フランスの異類婚姻譚の民話だ」
「とある商人の末娘が欲を出して野獣に監禁された父を助けるために野獣の元へと赴く」
「そこで彼女は野獣に求婚されるが、見事に彼女は断る」
「それから野獣は末娘の一時的に帰りたいという要求を呑んで休暇を与える」
「しかし、その休暇の期日は野獣の命が持つ最期の日でもあった」
「回りくどいと言ったはずだ!」
「何が言いたい!?」
「最終的に末娘は瀕死の野獣に再会し、求婚に答える」
「そうすると野獣の姿は人に戻ったという……」
「……似ているな、バムト」
「貴様と布瀬川に」
「元No,1ッッッ!!」
「そう怒鳴るなよ、バムト・ボルデクス」
掌で彼を落ち着けるように、鴉はそれを上下に揺らす
憤ったバムトは歯を食いしばり、拳を握りしめる
「人に戻った野獣は末娘を失うことを恐れた」
「有り得ないと高をくくっていた」
「だが、有り得てしまった」
「末娘は死んだ!」
「野獣の手の届かない所でな!!」
「求婚が叶った事に喜び、末娘を手放した野獣は悔い、そして嘆いた!!」
「そして怯えるのさ……、今でも」
「失うのが怖い、と!!!」
鴉の頬を豪拳が貫き、衝撃が周囲のガラス壁を震動させる
飛び散った汗が周囲の壁に水痕を作り出し数秒も経たないうちに消滅する
バムトの白く曇った息が風に掻き消された頃、紅く染まった眼光が彼に向けられる
「……所詮は、出来損ないだ」
「貴様も、祭峰も、雅堂も、鉄珠も、蒼空も」
「そして……、俺も」
「人間から作り出された化け物」
「真の化け物には勝てるわけが無い」
「それは解っているはずだ」
「貴様には、充分過ぎる程に」
「……割り切れる物ではない」
「貴様の言う通りだ」
「俺は布瀬川が死んだのを知ってから、恐怖を覚えてしまった」
「より人間に近付いてしまった」
「化け物という鎧を脱ぎ捨て、人肌を晒してしまった」
「失うのが怖くなってしまった」
「これは悪か?」
「これは許されざる事か?」
「これは……、人らしい事か?」
「さぁな」
「小僧に問うなよ、老害」
「……小僧ならば、老害の話にぐらい付き合え」
「可愛くない子供だ」
「余計なお世話だな」
「……ただ、俺には解らない」
「貴様と祭峰と雅堂、そして鉄珠と核は俺に全てを壊させた」
「最も重い任を背負わせた」
「あの時、俺が望んだから貴様等以外の実験体を殺させたのか?」
「それとも、貴様等が逃げたいが為に……、殺させたのか?」
「どちらでも無い」
「理由など忘れた」
「理由など無かった」
「それでもただ、俺達はあの時……、貴様に最も重い任を背負わせた」
「全ての罪を背負い、蒼空を見守り、軍に留まるという任を」
「それを貴様に任せたことを攻めれたならば、俺達は決して反論できない」
「この戦いが終わった後……、貴様が死ねと言うならば死のう」
「貴様が消え失せろと言うならば消え失せよう」
「最早、俺の存在意義は戦いだけになってしまった」
「この戦いが終われば、俺は…………」
「それ以上は口を噤むんだな、老害」
「死亡フラグ、と言うやつだ」
「……貴様がそんな事も口にするのだな」
意外そうな声をあげバムトは少しだけ目を開く
暫くの沈黙の後、彼は再びガラス窓に背を預けて腕を組む
「……何処かの、脳天気のせいだ」
「悪影響だ、間違いなく」
「負の遺産だな」
鬱陶しそうに眼を細めて鴉は頬を引きつらせる
それに反してバムトは静かに微笑み、笑いを零す
「なるほど、無愛想な小僧は愛想の良すぎる脳天気に影響を受けたようだな」
「笑いぐさだ、全く」
「……ふん、老害め」
「何にしても、杞憂だったようだな」
「これは俺の恐怖の根源にはならない」
「なるはずがない」
「……失う物は、ないと?」
「無い」
「俺はもう全てを失った」
「試験管で培われ、薬物に浸かり、殺しと情報だけを餌として生きてきた俺には」
「失う物も捨てる物もない」
「存在する物はない」
「ならば、これから見つけるしかないな」
「見つける……、だと?」
「この戦いが終われば見つければ良い」
「貴様にも何かが出来るかも知れないぞ?」
「……下らん」
「それこそ死亡フラグ、だろう?」
「言うじゃないか、小僧」
「貴様ほどではないさ、老害」
彼の言葉にバムトは再び小さな笑みを零す
決意の眼光を照らし、ガラス窓から背を離す
組んでいた腕を解いて上着に手をかけて、静寂の中で彼は言葉を紡ぐ
「……俺は、まだ死ねんらしい」
「恐怖も出来なければ諦めも出来ない」
「失う事すらままならなん」
「……果たすべき約束は果たそう」
「守るべき未来は守ろう」
「だから、見ていてくれ……、小娘」
「俺は行く」
「延々と続く道だろうと」
「遙かに続く闇の中だろうと」
「俺は進む」
「もう、恐れない」
拳を握りしめ、バムトは上着を羽織る
轟々と降り注ぐ雨粒とは対極的にバムトの眼には光が満ち溢れている
鴉は彼を見て詰まらなさそうに、しかし何処か嬉しそうに頬を緩める
バムトの懐に眠る腕時計は静かにその秒針を揺らしていた
読んでいただきありがとうございました