脆い心
「……あ゛ー」
「背中痛ぇ……」
起き上がった波斗の視界に翼が映る
自分の隣でリンゴを器用に剥く彼に声を掛けようとするが、翼はそれを首を振って静止させる
「あの、ここは?」
「……一度、来てるはず」
「あぁ、あの古いビルですか」
「にしても俺、何で寝て……?」
「修行を完了したからだ」
扉にもたれ掛かる男に、波斗の視線は移動する
男は背を扉から離し、波斗へと近付いてくる
「牙……!」
「十回、善くぞ躱した」
「称賛してやる」
嫌悪な笑みを前に波斗は険悪な表情で眉をしかめる
彼の視線を掌で遮り、牙は翼の隣へと座る
「傷……、は治ってるな」
「良かった」
「三日間眠っていたからな」
「それよりも、あの回避」
「最後の回避は素晴らしかったぞ」
規則的な、手を打ち付ける乾いた音が波斗の耳に届く
笑む牙の拍手を遮るように、リンゴが切断されて皿に乗せられる
「……食べる?」
「あぁ、貰おう」
「小僧、貴様もどうだ?」
差し出されたリンゴに手を伸ばし。波斗は一切れだけ口へと放り込む
しゃくりと耳鳴りの良い音が牙の拍手の音を上書きするかのように耳から消し去っていく
「……美味い」
「だろうな」
「樹湯が苦心して手に入れた物だ」
「乾物などはよく食うが、果物など一年に一度しか食えん」
「そ、そうなのか……」
「それよりも、だ」
「十回目の回避」
「何をしたか……、覚えているな?」
「……噛み砕いた」
「そうだ」
「回避しない回避だ」
満足そうに頬をつり上げる牙から波斗は視線をずらす
二人の間で、翼は残ったリンゴをしゃくしゃくと食べている
「だが、あれでは追撃が行えない」
「どうすれば良いと思う?」
「避けられないなら、当たるしか……」
「違うな」
「貴様が避けられないのならば、誰かに頼れば良い」
「……頼る?」
「そうだ」
「仲間が居るんだろう?」
「あ、あぁ」
「貴様の見る世界を任せてみろ」
「仲間に背を、眼前を預けてみろ」
「仲間を信じてみろ」
ナイフが地面に落ち、金属音を立てて転がって行く
波斗は驚いてナイフに視線を向けるが、翼は首を左右に振る
「どうした?翼」
「……」
牙の問いに翼が答える事はない
ナイフを洗うべく翼は席を外し、部屋には牙と波斗だけになる
「……仲間を、か」
「背を預ける人間が居るだけで、違う物だ」
「俺や翼、鱗達のようにな」
「……あぁ、そうだな」
波斗の心に映る様々な人達
今までの仲間が、今までの友が
映っては消えて、映っては消えて
何もない世界が埋め尽くされて
そして、消えていく
「……っ」
「俺が言いたい事はそれだけだ」
「奥であの人が待っている」
「行け」
「あの人?」
「……会えば解る」
牙は席を立ち上がり、翼の居る場所へと消えていく
波斗は机に置かれた服に着替え、血にまみれた衣服を代わりに置く
「……誰、なんだろ」
「……」
「翼」
ナイフが水に反射して、奇妙な光を作り出す
その光に照らされる翼の表情は何処か憂鬱そうな、悲しそうな表情である
「……意外だった」
「意外?」
「牙は、仲間がどうとか言わない……」
「いつでも一人で…、俺達に背中を預ける……」
「……そうだったか」
「…牙は変わった」
「影響されたのか?」
「……影響、か」
「俺が?あの小僧に?」
「笑わせてくれるな」
「……家族」
「!」
「みたいに…、思ってる?」
奇妙な光が揺れ、部屋を徘徊する
水面から除く銀の刃がゆっくりと沈んでいく
「家族、などと」
「牙は……、脆いよ」
「硝子細工よりも、飴細工よりも」
「脆い……」
「……脆い?」
「確かに俺は貴様よりも速さはない」
「鱗より防御力もない」
「だが、決して細工に負けるほど弱くもない」
「違う」
「心」
「……心?」
「きっと、牙は解らないけど」
「……いつか、解る」
「解る?何を、だ」
「牙のことは…、俺も解るから……」
「きっと……、今は何を言っても無駄」
「だからこそ、いつか……」
翼は消え入る様な言葉を口から漏らす
彼の言葉は牙の中でぐるぐると周回し、やがて消えていった
「……?」
壁に手を突き、覚束ない足取りで部屋を出た波斗
彼の目には椅子に腰掛ける大柄の男が映る
「…誰、だ?」
「久しいな」
重々しく、渋い声
耳を劈き、のし掛かるような声には聞き覚えがある
「……何処かで」
「俺を忘れたか?」
「悲しい事を言ってくれるな、小僧」
男から発せられる重圧
まるで全身の重力が数千倍になったかと言うほどのそれは、波斗を潰そうと圧して掛かる
「ぐっ……!!」
それでも、波斗が膝を折ることはない
歯を食いしばり、目には見えぬ重圧に全力で耐える
「結構」
「成長したようだ」
重圧が消えた瞬間、波斗は地面に腰をつく
全身から滝の如く汗が噴き出て、頬を伝う
「少なくとも、ロンドンに居た頃よりはマシになったな」
「あの時は落とし穴と針山しか脳の無いという、地形変動型の能力者より酷かった物だ」
「……お前」
「バムト……!!」
「年上を呼び捨てにするモンじゃぁない」
バムトは席から立ち上がり、波斗の前へと立つ
目を細めて彼を眺めた後、少年を席へと移動させる
「さて、何から話そうか」
自らも椅子に腰を沈め、両の手を組む
目の前で緊迫した少年を見て彼は深くため息をつく
「何も、戦おうというワケじゃない」
「そんなに緊迫しなくても良いだろう」
「……先刻の、あんな重圧かけやがって」
「テストみたいな物だ」
「そう怒るな」
手を上下させて、バムトは波斗の怒りを静めようとする
しかし、依然として少年は不快感を表情に出したままである
「全く、そこまで怒る必要性もないだろう」
「……戸惑ってるんだよ」
「何で、お前がここに居るのか」
「何で、俺に会いに来たのか」
「小僧、それを聞くか?」
バムトはあきれ果てたように、両の手を肘掛けに預ける
周囲を見渡して何もない事を確認すると、片腕を持ち上げる
「例えば、そうだ」
巨腕が引き裂かれ、波斗の頬に血が飛び散る
驚愕に言葉を零す波斗をバムトの視線が静止させる
「騒ぐな」
彼の巨腕は蠢く何かに覆われ、傷を修復していく
波斗の口から漏れていた驚愕の言葉も薄れ、消えていく
「……こんな所か」
「見覚えがあるだろう?」
「…まさか、そんな」
「いつしか、貴様に言ったことがあるだろう?」
「俺を満足させれば教えてやる、と」
完治した腕を眺め、バムトは満足そうにそれを降ろす
目の前で言葉を失った少年へと視線を向ける
「真実は、残酷だ」
「それでも貴様は知らねばならない」
「真実とは過去では無く、未来」
「貴様は知った時、どんな顔をするだろうかな?」
バムトの顔が嫌悪の笑みに歪んでいく
目の前の芸術品を壊す、無邪気な子供のような
悪の笑顔に
読んでいただきありがとうございました