第38話 聴聞
聴聞の朝は、曇っていた。
宮廷省の聴聞室は、議場より小さい。石壁の部屋に長机が一つ。その向こうに宮廷省長官が座り、手前に証拠提出者の席が三つ並んでいる。
左の席。私。書記局書記官長補佐マリエッタ・アーレンス。
真ん中の席。ハルトマン鑑定官。分厚い眼鏡。乾いた指先。
右の席。ヴェイン・アーレンス。魔術監査局監査官。
同じ姓が、提出者名簿に二つ並んでいる。
(……公的な場で、夫婦の名前が並ぶの、やっぱり変な感じだ)
変な感じだけれど──二人は別の立場から、別の証拠を出す。私は書記局の帳簿と出張記録。ヴェインは監査局の資金流追跡結果。ハルトマンは魔力痕跡鑑定。三本の線が、一つの点に集まる。
利益相反の線引きは、守られている。あの夜、書斎で「この案件で俺に直接頼むな」と言った声の通りに。
被聴聞者の席に、ヨハン・グリーフが座っていた。
書記局の副書記官。三十代前半。地味な事務官服。背筋が伸びている。額に汗はない。数日前、局長室の前ですれ違ったときより──落ち着いて見えた。覚悟を決めた人間の顔だ。
フリッツ局長は、傍聴席の最前列にいた。眉の角度は水平。上がってもいない。下がってもいない。
宮廷省長官が開廷を告げた。
◇
「書記局書記官長補佐。証拠の提出を」
立ち上がった。鞄から書類を取り出した。
「書記局月次帳簿における配分額差額について報告いたします」
帳簿の写し。四件の差額。費目の分散。宮廷省通達との照合列による検出。出張記録との照合結果──四件すべてが局長不在日と一致。代行印の不使用。規定第十四条違反。
一枚ずつ、長官の机に置いた。感情は一文字も載せていない。日付と数字と条文番号だけ。
「差額の合計は十金貨。発生日はいずれも書記局長フリッツ・レーマンが地方視察または宮廷省出張で不在の日と一致しています。局長印の鍵を局長以外に所持するのは、副書記官ヨハン・グリーフ一名のみです」
長官が書類を受け取った。目を通している。指で行を辿る仕草。丁寧に読む人だ。
「続いて、魔術監査局監査官」
ヴェインが立ち上がった。
「監査局長命令による通常業務の一環として、資金流監査を実施しました」
声が低い。いつもの音域。聴聞室でも、書斎でも、正門の帰り道でも、この人の声は変わらない。
「差額合計十金貨の流出先は、クラウス・ヴァイス商会。登記番号八一七―五。資金は四件に分割され、書記局の施設維持費・通信費・消耗品費から商会の取引口座に振り込まれています」
報告書を長官に渡した。ヴェインの角ばった筆跡。黒インク。灰色ではない。公式報告書だから。
「クラウス・ヴァイス商会は、懲戒免職処分を受けたヴァイス元副次長の弟クラウス・ヴァイスが経営する商会です。弁済命令が出ているヴァイス家の弁済金の穴埋めに、書記局の予算が流用された可能性が高いと監査局は所見しています」
短い報告。無駄がない。この人の報告は、紅茶の濃さと同じだ。足りないものがない。
「最後に、鑑定官」
ハルトマンが立ち上がった。乾いた指先が報告書の端を押さえている。
「局長印に残存する魔力痕跡の鑑定結果を報告します。四件すべての承認書について、押印時の魔力痕跡は書記局長フリッツ・レーマンの登録魔力と不一致。副書記官ヨハン・グリーフの登録魔力と一致。痕跡のパターン、強度、残留深度の全項目で一致基準を満たしています」
三つの報告が出揃った。帳簿の差額。資金の流出先。押印者の特定。三本の線。一つの点。
長官が三人分の報告書を並べて、目を通した。一分。二分。
顔を上げた。
「被聴聞者。弁明はあるか」
◇
グリーフが立ち上がった。
背筋は伸びたまま。声は──穏やかだった。局長室の前で聞いた「慣行上の」という言い逃れの声とは、違う。
「弁明いたします」
一拍。
「ブルーメ元局長に恩義があります」
聴聞室が、静まった。
「私が書記局に入局したとき、ブルーメ局長が面倒を見てくださいました。帳簿の扱いを教えていただき、副書記官に引き上げていただいた。あの方がいなければ、今の私はありません」
グリーフの声に、嘘の気配はなかった。「慣行上の」と言い張ったときの上擦りもない。
「ブルーメ局長が懲戒免職になった後、クラウス・ヴァイスから連絡がありました。弁済金の穴埋めを手伝ってほしいと。断れませんでした。ブルーメ局長の──恩義に報いたかった」
恩義。
(……恩義か)
フリッツ局長に名前を載せてもらったとき、私もこの人に「恩」を感じた。五年間奪われた名前を取り戻してくれた人に。制度の上申書に署名してくれた人に。棚の鍵を黙って渡してくれた人に。
グリーフの恩義はブルーメに向かった。ブルーメの不正を延長した。弁済金の穴を、書記局の予算で埋めた。
私の恩義はフリッツに向かった。制度を作った。帳簿が嘘をつけない仕組みを条文にした。
同じ「恩」なのに──帳面に書く結果が、正反対になる。
(……恩義で動くこと自体は、わかる。わかってしまう)
わかるから、辛い。この人が純粋な悪意だけで動いていたなら、もっと簡単だった。ベルントのように自己利益だけで動いていた人間なら、議事録の矛盾を突きつけて終わりだった。
でもグリーフは──恩義で動いた。恩義の方向が間違っていた。それだけだ。
それだけのことで、十金貨が書記局から流れた。局長の名誉が危うくなった。制度の信頼が傷つきかけた。
「弁明は以上です」
グリーフが座った。額に──薄く、汗が浮いていた。数日前、廊下ですれ違ったときと同じ。でも今日の汗は、言い逃れの汗ではない。全部を話した人間の、最後の汗だ。
◇
宮廷省長官が、書類を整えた。
「証拠提出者の報告および被聴聞者の弁明を踏まえ、裁定を行う」
聴聞室が静まった。
「副書記官ヨハン・グリーフ。局長印の不正使用。代行印規定の違反。書記局予算の外部流用。いずれも事実と認定する」
一拍。
「懲戒免職。弁済命令──流出額十金貨の全額返還。宮廷出入り禁止」
懲戒免職。
ブルーメ元局長と、同じ処分。恩義を受けた人間が、恩義を与えた人間と同じ場所に着地した。
「加えて、クラウス・ヴァイス商会に対し、宮廷との公的取引を禁止する。ヴァイス家の弁済金問題に関連する資金流の経路として確認されたことを理由とする」
クラウス・ヴァイス商会。公的取引禁止。
ブルーメ元局長の不正。ヴァイスの横領。ベルントの議会工作。ミュラーの偽神託。オスカー殿下の介入。そしてグリーフの局長印流用。──全部、繋がっていた。全部、帳簿の数字から始まった。
全部が──断たれた。
「書記局長フリッツ・レーマンについて。魔力痕跡鑑定により局長印の不正使用への関与は認められず、名誉を回復する。以上」
長官が書類に署名した。公印。日付。
帳面を開いた。ペンを取った。
「グリーフ。懲戒免職。弁済命令。宮廷出入り禁止。クラウス・ヴァイス商会、公的取引禁止。フリッツ局長、名誉回復」
書いている途中で、ペンが止まった。
グリーフが退席する姿が見えた。背筋は──まだ伸びていた。足取りに乱れはなかった。最後まで崩れない人だった。毎日残業して、鍵を閉めて、誰もいない書記局で──恩義のために不正を続けた人。
(……この人の恩義は、間違っていた。でも恩義そのものは、嘘じゃなかった)
帳面に、もう一行書こうとして──やめた。感情は帳面に載せない。日付と事実と条文番号だけ。書記官の記録は、そうあるべきだ。
帳面を閉じた。
◇
書記局に戻った。
執務机に座った。聴聞の緊張がまだ体に残っている。肩が硬い。指先が少しだけ冷たい。春なのに。
机の上に──棚の鍵が置いてあった。
あの鍵。差額を見つけた日に、フリッツ局長が黙って渡してくれた鍵。出張記録の綴じ台帳を開けるための鍵。全部終わったから、返す。
鍵の横に、もう一つ。
白い紙。
羊皮紙。一枚。上申書用の書式。宛先欄と起案者欄と日付欄が印刷されている。中身は──白紙。
何も書いていない。何も言っていない。
(……でも、これは「出せ」だ)
フリッツ局長のやり方は、いつも同じだ。言葉ではなく、鍵を渡す。白紙を置く。棚を開ける権限を手渡す。
差額を見つけた日は、出張記録の鍵だった。今日は──上申書用の白紙。
補足条項。ブレーメンの宿で書いた走り書き。ヴェインと二人で条文に仕上げた草案。帳面の中にある。涙の染みごと持って帰った、あの四条。
あの草案を、この白紙に清書して、上申する。局長名で宮廷省に出す。起案者欄に「書記官長補佐マリエッタ・アーレンス」と書く。
白紙の羊皮紙を手に取った。軽い。何も書いていないから当然だ。でも──この紙に載る条文の重さを、もう知っている。
「鐘が鳴ったら帰れる」を、制度にする。
帳面を開いた。今日の最後の記録。
「フリッツ局長。棚の鍵の返却。白紙の羊皮紙一枚。上申書用。──書く」
帳面を閉じた。
退勤の鐘が、六つ鳴った。
鞄に帳面と白紙の羊皮紙を入れた。立ち上がった。
正門を出た。振り返った。書記局の二階の窓。灯りは──消えている。
(……今日も消えている。毎日消えている。それでも毎日確認する人がいる)
石畳の通りの角に、濃紺の影が立っていた。
ヴェインが待っている。右手に──紙包み。
(……聴聞の日にも、焼き栗を買うんだ、この人は)
「屋台が出ていた」
「毎回同じ説明ですね」
「事実だ」
並んで歩き始めた。紙包みを開けた。大きい栗がこちらに来た。いつも通り。
「終わりましたね」
「ああ。終わった」
「グリーフの弁明──聞きましたか」
「聞いた。監査局の席から」
「恩義で動いた人でした」
「ああ」
ヴェインが栗を一つ口に入れた。噛んだ。飲み込んだ。それから──少しだけ、声が低くなった。いつもの半音ではない。もう少し奥。
「恩義の方向が違っただけだ」
私が聴聞室で考えたことと、同じ言葉。この人は聴聞室の反対側の席に座っていて、同じことを考えていた。
「……ええ」
「白紙の羊皮紙、見たか」
「見ました。局長が置いてくれました」
「書くか」
「書きます。明日から」
栗を一つ、口に入れた。甘い。ほくほくして、苦みが少しだけ残る。春の公聴会の日の味と、同じ。
鞄の中で、白紙の羊皮紙と帳面が並んでいる。白紙には明日から条文を書く。帳面には涙の染みと走り書きの草案が入っている。
隣の足音が、石畳を踏んでいる。二人分。同じ速さ。
白紙の羊皮紙は、明日には白紙じゃなくなる。




