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「その他大勢」に転生したので、定時退勤を死守します【書籍化進行中!】  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第37話 三十二歳

 三十二歳で死んだ。


 机に突っ伏して、目を閉じて、そのまま二度と開かなかった。


 ──それが、前の世界の私の最後だ。


    ◇


 宿の部屋。夜。ブレーメンの教会の鐘は五つで止まって、もう何時間も経っている。窓の外は暗い。地方の夜は王都より重たくて、音が少ない。虫の声と、風が石壁を撫でる音だけ。


 机に向かっていた。帳面を開いて、昼間書いた走り書きの続きを条文に起こそうとしていた。


 「二重記帳制度補足条項──差額報告の期限は、翌営業日の退勤時刻まで。退勤時刻を超えての報告作業は認めない」


 書こうとした。ペンを取った。インクを含ませた。紙の上に先端を置いた。


 手が、震えた。


 ──また、だ。


 新居の書斎で帳面に書けなかった夜と、同じ震え方。指先が凍って、ペンを握る力がどこかに抜けていく。


 今日、トビアスに会った。顔色の白い書記官。鐘が鳴っても帰れなかった人。机の上に帳面を残して、倒れた人。


 あの人の顔色は、三十二歳の私に似ていたのだろうか。


(……似ていたと思う。鏡を見なくても、わかる)


 最後の朝。省庁の灰色の机。積まれた書類。処理しきれない量。締め切りが三つ重なっていて、どれから手をつけるか考える余裕もなくて。


 終電で帰って、始発で来て、また終電で帰って。それを何日繰り返したか、数えなかった。数える気力がなかった。


 ある朝──机に突っ伏した。


 疲れて、伏せたのだ。少し休もうと思っただけだった。目を閉じた。五分だけ。五分だけ休んだら、また──。


 起きなかった。


 ペンが、指から滑り落ちた。


 帳面の上に、インクの染みが一つ広がった。秋の夜に涙の染みがついたページと──違うページだけれど、同じ染み方。丸く、じわりと。


「エッタ」


 低い声。


 振り返らなかった。振り返ったら──泣く。新居の書斎で帳面に書けなかった夜は、壁の向こうの足音を聞いただけで少し楽になった。でも今は同じ部屋にいる。壁がない。


 足音が近づいた。


 机の横。椅子を引く音。ヴェインが──隣に座った。


 何も言わなかった。


 一分。虫の声が聞こえる。二分。風が窓を叩いた。三分。


 ヴェインの呼吸が、横で聞こえている。低くて、一定で、速くならない。この人の呼吸はいつも同じだ。紅茶を淹れるときも、帳簿を検査するときも、焼き栗の大きい方を渡すときも。


 肩が震えていることに、自分で気づいた。寒いのではない。春の夜で、宿の部屋はそこまで冷えていない。


 涙が、帳面に落ちた。


 秋の夜と同じだ。官舎の書斎で、ヴェインの上着を肩にかけられたあの夜。あのときも涙が帳面に落ちた。でも──あのときは、理由を言えなかった。


 今は。


「……前の世界で」


 声が出た。自分で驚くくらい、かすれていた。


「私は、過労で死にました」


沈黙。


 ヴェインが動かない。呼吸も変わらない。


「三十二歳でした。机に突っ伏して──目を閉じて、そのまま起きなかった」


 言葉が、一度出始めると止まらなかった。


「省庁で働いていました。書類を処理する仕事。この世界の書記局と──似ています。鐘は鳴りませんでしたけれど、退勤時刻はありました。でも守れなかった。誰も守っていなかった。私も」


 ペンを落とした手を、膝の上で握った。


「終電で帰って、始発で来る生活を、何年も続けました。体がおかしいのはわかっていました。でも──書類が終わらないんです。処理しても処理しても、次の日にはまた積まれていて」


(……だから、死んだ)


「だから──この世界で、決めたんです。鐘が六つ鳴ったら帰る。それだけ。それだけは──」


 声が詰まった。


 涙が止まらなかった。秋の夜より多い。帳面に落ちて、インクの染みと混ざって、文字が滲んでいる。


 ヴェインが──動いた。


 手が伸びて、私の右手に触れた。膝の上で握りしめていた拳に、長い指が重なった。冷たい指。いつも冷たい。でも──秋の雨の日に傘を差し出されたときより、少しだけ温かかった。


 握らなかった。指を絡めなかった。ただ──重ねた。私の拳の上に、手を置いた。それだけ。


 一分。


「だから鐘が六つ鳴ったら帰るのか」


 低い声。いつもの音域。半音も変わらない。


「……ええ」


「……知っていた」


 手が止まった。止まったのは私の手ではなく──頭。


「え?」


「理由は聞かなかった」


 ヴェインの声が、少しだけ遅くなった。言葉を選んでいるのではない。もっと奥。喉の底から、一つずつ、順番に出している声。


「渡り廊下で三年半、あなたを見ていた。鐘が六つ鳴ったら、必ず帰る。一度も破らなかった。雨の日も、繁忙期も、公聴会の前日も」


(……見ていたんだ。三年半)


「あの頻度で、あの正確さで、一つのことを守り続ける人間は──守る理由が命に関わっている」


 命に関わっている。


 この人は──知っていた。理由の中身は知らなくても、理由の重さを。三年半の渡り廊下ですれ違うだけで。退勤の挨拶を交わすだけで。


「聞かなかったのは」


「あなたが話すまで、待つと決めていた」


 涙が止まった。止まったというより──止まっていることに気づいた。いつ止まったのか、わからない。


 ヴェインの手が、私の拳の上にある。冷たい指。長い指。この手で帳簿の不整合を見つけ、魔力痕跡を読み、焼き栗の大きい方を渡す。同じ手が、今、私の手の上にある。


「……ありがとう」


「礼はいらない」


「いります」


 声が、戻った。掠れていたのが、少しだけ──元に戻った。


「待っていてくれて、ありがとう」


 ヴェインの耳が赤い。暗い部屋で、蝋燭の灯りが揺れている中でも見える。白いシャツの襟元から、耳の縁。


(……この人の耳は、暗くても正直だな)


 少しだけ笑った。泣いた直後に笑うのは変だけれど、笑えた。


    ◇


 帳面のインクの染みが乾くのを待って──二人で草案を書いた。


 私が条文を書く。ヴェインが読む。一条ずつ。


「差額報告の期限は、翌営業日の退勤時刻まで」


「退勤時刻を超えての報告作業は認めない」


「退勤時刻の遵守に関する監督責任を各局長に課す」


「人員不足による退勤時刻の恒常的超過が認められた場合、宮廷省は増員を含む是正措置を講じる」


 一条書くたびに、ヴェインが条文を指で辿った。無言の確認。修正があれば指が止まる。止まらなければ、次へ。


 四条。帳面の二ページ。ペンの音だけが、宿の夜の中に響いた。


 書き終えた。


 ペンを置いた。インクの匂いが鼻に残っている。鉄と松脂の、かすかな苦さ。新居の書斎で使っているのと同じ匂い。ヴェインが補充してくれたインクと、同じ銘柄。


(……このインクで、前の世界のことを初めて書いたんだ)


 帳面を見下ろした。草案の条文の上に、涙の染みとインクの染みが重なっている。滲んだ文字。でも──読める。


 鐘は誰のために鳴る。


 私のために、ではない。私がいなくなっても鳴り続ける。誰かが帰れるように。誰も──机に突っ伏したまま、二度と起きないことがないように。


「帰りの馬車で清書します」


「ああ。手伝う」


「ヴェイン」


「うん」


「……鐘の数は、場所によって違います。六つの場所もあれば、五つの場所もある」


「ああ」


「でも──『鳴ったら帰れる』は、同じであるべきです」


 ヴェインが私を見た。灰色の瞳。蝋燭の光で、少しだけ金色がかっている。


「……ああ」


 短い返事。でも──声のやわらかさが、いつもと違った。半音でもなく、速度でもなく、もっと別の何か。蝋燭の灯りが揺れたせいかもしれないけれど、灰色の瞳の奥が、ほんの一瞬──潤んで見えた。


(……気のせいかもしれない。でも、気のせいじゃないかもしれない)


 聞かなかった。聞かないのが、この二人の距離だ。でも──今夜、距離は変わった。壁一枚なくなった。前の世界のことを話した。受け取ってもらった。「知っていた」と言ってもらった。


 窓の外から、夜明け前の風が入ってきた。


 いつの間にか──空が、白みかけている。一晩中、起きていたのだ。鐘が鳴っても。


(……今夜だけは、鐘を無視してもいい)


 帳面を閉じた。草案は帳面の中にある。涙の染みごと、持って帰る。


 明日──いや、今日。馬車で王都に戻る。鞄の中に草案と帳面を入れて。隣に、この人がいて。


 帰ったら、聴聞がある。補足条項の上申がある。やることは山ほどある。


 でも今は──少しだけ、目を閉じていい。五分だけ。今度は、ちゃんと起きるから。


 蝋燭が消えかけている。朝の光が、窓枠の隙間から細く差し込んでいた。

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