第36話 鐘が五つ
地方の空は、王都より広かった。
そして鐘の音は、一つ少なかった。
◇
馬車に二日揺られて、ブレーメンに着いた。
小さな町だった。石畳の大通りが一本。市場が一つ。宿屋が三軒。教会の尖塔が町の中心に立っていて、そこから鐘が鳴る。王都の宮廷の鐘とは違う、少し高い音。
地方行政局の庁舎は、教会の隣にあった。二階建ての石造り。王都の書記局の三分の一もない大きさ。扉を開けると、すぐに執務室だった。廊下もない。扉を開けたら、そこが仕事場。
机が、三つ。
左の机。書類が積んである。椅子に上着がかかっている。使っている机。
真ん中の机。同じく書類。ペン立て。使っている机。
右の机。
空席。
書類はない。ペン立ても空。椅子が少しだけ斜めになっている。最後に座った人が立ち上がって、戻らなかったままの角度。
(……トビアスの机だ)
副局長代理が出迎えてくれた。四十代の、疲れた目をした男性。報告書を書いた人だ。
「王都からわざわざ……ありがとうございます。アーレンス書記官長補佐」
「運用状況の確認に参りました。それと──トビアス・ヴェーバー書記官にお会いしたいのですが」
「自宅で療養中です。ご案内します」
ヴェインが私の隣に立っていた。濃紺の監査官服。地方の小さな庁舎には少し場違いな正装だが、この人は出張でも服装を崩さない。灰色の瞳が、空席の机を一瞬見て──何も言わなかった。
◇
トビアスの自宅は、庁舎から歩いて五分の小さな家だった。
寝台に横になっていた。顔色が白い。頬がこけている。三十代前半と聞いていたが、もっと年上に見えた。
(……前の世界の私も、こんな顔をしていたのだろうか)
三十二歳。机に突っ伏して、そのまま──。
自分の顔を見たことはない。最後の朝、顔を洗ったはずだが、鏡を見た記憶がない。同僚が私の顔を見たとき、こんなふうに白かったのだろうか。
振り払った。今はこの人の前にいる。
「トビアス・ヴェーバー書記官。書記官長補佐のマリエッタ・アーレンスです」
トビアスが上体を起こした。枕を背に当てて、こちらを見た。目は──生きていた。疲労と病み上がりの白さの奥に、まだ光がある。
「……二重記帳制度を作った方ですね」
「はい」
「来てくださったんですね。王都から」
「倒れたと聞きました」
トビアスの目が、少しだけ伏せられた。
「……申し訳ありません。書き換え作業が間に合わなくて」
「謝らないでください。倒れたのは、あなたのせいではありません」
「いいえ。制度は──正しいんです」
声に力があった。寝台の上の、顔色の悪い書記官の声に。
「三列を並べれば、不正は見えます。配分額と支出額と残額。差額が出たら、すぐわかる。この書式は──正しい」
(……正しい、と言ってくれるんだ。この人は)
「でも」
トビアスの声が、少しだけ揺れた。
「旧帳簿を全部新書式に書き直す時間がないんです。ここは書記官が三人しかいない。一人が私で、倒れて二人になった。帳簿の書き換えは私が一人で担当していました。鐘が鳴っても──終わらないんです」
鐘が鳴っても、終わらない。
前の世界でも同じ言葉を何度も聞いた。終電が来ても終わらない。日付が変わっても終わらない。制度はあった。残業規制はあった。でも──。
「人手が足りないんです。制度が悪いんじゃない。制度を運用する人間の数が、足りない」
トビアスの目が、私を真っ直ぐ見た。
「アーレンス補佐。制度を──なくさないでください」
喉の奥が締まった。
この人は制度に倒された。鐘を無視して働き続けて、体を壊した。それなのに──「なくさないでください」と言っている。
帳面に書けなかったあの夜を思い出した。新居の書斎で、ペン先がインクを含んだまま紙の上で止まった夜。制度が人を追い詰めた、と思った夜。
でもこの人は言っている。制度は正しい、と。制度が悪いのではなく、人手が足りないのだ、と。
「……なくしません」
声が掠れた。自分の声なのに、思ったより低かった。
「制度は残します。その上で──鐘が鳴ったら帰れる仕組みを、追加します」
何を追加するかはまだ見えていない。でも──「追加する」と口にした瞬間、帳面に書けなかった夜の凍りついた指が、溶け始めた気がした。
トビアスの寝台の横に、小さな机があった。
机の上に──帳面。
革の表紙。角が擦れている。日付入り。毎日開いていた証拠。私の帳面と、同じ形式。
(……この人も、毎日記録していたんだ)
帳面の持ち主が倒れても、帳面は机の上に残っている。記録は消えない。この人が書き換え作業に何日かかったか、何時に帰ったか、何を食べる暇もなかったか──全部、この帳面の中にあるのだろう。
「お大事にしてください。また来ます」
「……ありがとうございます」
トビアスの家を出た。春の風が頬に当たった。王都の風より、少し土の匂いが濃い。
◇
午後。庁舎に戻って、残りの二人の書記官から話を聞いた。
帳簿の山。旧書式の綴じ台帳が棚一杯に並んでいる。新書式に書き換えが終わったのは、全体の三割。残り七割は旧書式のまま。
「トビアスが倒れてから、書き換えは止まっています。通常業務だけで手一杯で……」
二人とも、目の下に隈がある。退勤時刻を守れている様子ではない。
ヴェインが帳簿を一冊手に取って、開いた。新書式のもの。三列の数字を指で辿って、無言で閉じた。
「書式に問題はない」
短い評価。監査官としての所見。
「人手の問題だ」
付け足した。私が言おうとしたことを、先に言った。
(……この人は、私が「自分の設計ミスだ」と思い込むのを止めにきたんだ)
いや──「監査官として制度運用の実地確認が必要だ」と言っていた。あれも嘘ではないけれど全部でもない。同行の本当の理由は、きっとこっちだ。
書記官二人に、業務量と退勤時刻の実態を聞き取った。帳面に記録した。日付。書記官の人数。帳簿の書き換え進捗。退勤時刻の超過日数。全部、数字で。
数字が並ぶと、見えてくるものがある。この庁舎に必要なのは制度の撤回ではなく、人員の補充と、退勤時刻を守るための──仕組みだ。
◇
宿は、庁舎の向かいの二階建てだった。部屋が一つ空いていた。一つだけ。
「相部屋で構いませんか」
宿の主人が少し申し訳なさそうに言った。町が小さいから、宿も小さい。
「構いません」
ヴェインが即答した。私より先に。
(……構いませんって即答するの、速すぎないか、この人)
部屋に入った。寝台が二つ。窓が一つ。机が一つ。壁と床は石造り。王都の新居より狭いが、清潔だった。
ヴェインが荷物を寝台の端に置いて、窓辺の椅子に座った。窓から、町の屋根が見える。教会の尖塔。夕暮れの空。王都の空より──広い。建物が低くて、空が多い。
私は机に座った。帳面を開いた。今日の記録を書き始めた。トビアスのこと。庁舎のこと。帳簿の山。書記官の隈。
窓の外から、鐘の音が聞こえた。
低い音。教会の鐘。一つ。二つ。三つ。四つ。
五つ。
五つで、止まった。
「……ここの鐘は五つだ」
ヴェインの声が、窓辺から聞こえた。低くて、平坦で、いつもの声。でも──いつもの声なのに、五文字の中に重さがあった。
五つ。
王都は六つ。地方は五つ。地方の方が一時間早い。
でも──今日、庁舎の書記官二人は、五つの鐘が鳴っても帰らなかった。机に向かっていた。帳簿の山の前で。
「誰も帰れていません。五つで」
「ああ」
「王都も、前は──六つで帰れない人がいました」
ブルーメ時代の書記局を思い出した。いや、ブルーメ時代だけじゃない。前の世界の省庁も同じだった。鐘が鳴っても終電が来ても、帰れない。
「鐘が鳴っても帰れないなら──鐘の意味がない」
声に出した。自分の声が、思ったより硬かった。
ヴェインが窓辺からこちらを見た。灰色の瞳。夕暮れの光で、いつもより薄い色に見える。
何も言わなかった。ただ見ていた。私が何かを掴みかけているのを、待っている顔。紅茶の濃さを調整するときと同じだ。結果が出るまで、黙って待つ。
帳面のページを繰った。白紙のページ。
ペンを取った。
書いた。
「二重記帳制度補足条項──差額報告の期限は、翌営業日の退勤時刻まで」
書いてから、止まった。
退勤時刻まで。鐘が鳴るまで。鐘が鳴ったら──終わり。鐘が鳴った後の報告作業は認めない。鐘が鳴ったら帰る。全員が。王都でも、地方でも。六つでも、五つでも。
「……退勤時刻を超えての報告作業は認めない」
声に出して、続きを書いた。ペンが走る音が、小さな宿の部屋に響いた。
書き終えて──これはまだ草案にもなっていない。帳面の上の走り書き。でも、骨格はここにある。
ヴェインがまだ窓辺にいた。椅子に座って、片膝を立てて、壁に背を預けている。濃紺の監査官服を脱いで、白いシャツ。袖をまくった腕。窓から差す夕暮れの最後の光が、横顔の輪郭をなぞっている。
(……この人、宿でもちゃんと座ってるんだな。姿勢が崩れない)
「ヴェイン」
「ああ」
「明日、もう一度庁舎を見てから帰ります。書き換え作業の工程を確認したい」
「わかった」
「それから──帰りの馬車で、この草案を整理します。手伝ってもらえますか」
「当然だ」
当然。靴べらのことを聞いたときと同じ返事。迷いがない。
「ありがとうございます」
「礼は──」
言いかけて、止めた。ヴェインが言葉を飲み込む瞬間を、初めて正面から見た。いつもは背中越しか、扉越しか、カップ越しだった。正面から見ると──喉が動くのが見えた。飲み込んだ言葉が、喉の奥に戻っていく動き。
(……何を言おうとしたんだろう)
聞かなかった。聞かないのが、この二人の距離だ。
窓の外が暗くなっていた。地方の夜は、王都より早い。街灯が少ない分、暗くなるのが速い。
教会の鐘はもう鳴らない。五つを数え終えたら、次の朝まで鳴らない。
ヴェインが窓を閉めた。夜風が止まった。部屋が少しだけ温かくなった。
帳面の走り書きを見下ろした。インクが乾きかけている。「退勤時刻を超えての報告作業は認めない」。自分の字。ペン先の癖で、「認」の最後の画が少し跳ねている。
トビアスの帳面の、擦れた革の表紙を思い出した。あの帳面にも、鐘が鳴っても帰れなかった夜が記録されているのだろう。何日分。何ページ分。
あの帳面に、いつか──「定時に帰れました」と書ける日が来るように。
ペン立てにペンを差した。宿の机の、安い木のペン立て。胡桃材ではない。でも──帰ったら、胡桃材のペン立ての横で、この走り書きを条文にする。
走り書きの上に、手を置いた。まだ少しだけインクの湿りが残っている。この一行を条文にするまでに、あと何枚の紙が要るだろう。何回の書き直しが要るだろう。
でも──骨格はここにある。五つの鐘が教えてくれた。
窓の外は暗い。五つの鐘の余韻は、もうとっくに消えている。でも帳面の上に、鐘の数を変えるための一行が残っている。
ヴェインが寝台の端に座って、こちらを見ていた。灰色の瞳。蝋燭の灯りが揺れて、いつもより影の濃い横顔。何も言わない。言わないまま──待っている。この人はいつも、私が書き終わるのを待つ。紅茶の濃さも、条文も、全部。
(……もう少しだけ、この走り書きを見ていたい)
帳面を閉じなかった。




