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「その他大勢」に転生したので、定時退勤を死守します【書籍化進行中!】  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第35話 鑑定

 ハルトマン鑑定官の指先は、いつも乾いている。


 秋の公聴会の前も、冬の偽神託の鑑定のときも。分厚い眼鏡の奥の細い目と、乾いた指先と、淡々と事実だけを述べる声。あの人から届く報告書は、いつも紙の温度が冷たい。


 今朝の報告書も──冷たかった。


    ◇


 書記局の執務机。朝一番の局間便。


 差出人欄に「魔術監査局鑑定官ハルトマン」。宛先は「書記局書記官長補佐マリエッタ・アーレンス」。直接送付。ヴェインを経由していない。


(……利益相反の回避。ちゃんと守られている)


 封を切った。


 一枚目。鑑定概要。


 『鑑定対象:書記局局長印(差額発生四件の承認書に押印されたもの)に残存する魔力痕跡。鑑定方法:登録魔力台帳との照合。鑑定官:ハルトマン』


 二枚目。結果。


 指で行を辿った。


 『結果一:当該局長印の押印時に残存する魔力痕跡は、現書記局長フリッツ・レーマンの登録魔力と──不一致。痕跡のパターン、強度、残留深度のいずれも一致基準を満たさない』


不一致。


 フリッツ局長が押した印ではない。鑑定が──証明した。


 出張記録との照合で「局長不在日に局長印が使われていた」ことはわかっていた。でもそれだけでは、局長が「出張に出る前に押印した」と言い逃れる余地があった。魔力痕跡は嘘をつかない。押印した瞬間の魔力が、物理的に残る。局長の手ではない手が、あの印を押した。


 次の行。


 『結果二:当該魔力痕跡は、書記局副書記官ヨハン・グリーフの登録魔力と──一致。痕跡のパターン、強度、残留深度の全項目で一致基準を満たす』


一致。


 グリーフ。


 帳面を開いた。ペンを取った。日付。「ハルトマン鑑定官より鑑定報告書。局長印の魔力痕跡、フリッツ局長と不一致、グリーフ副書記官と一致。四件すべて」。


 書き終えて、ペンを置いた。


 数日前、局長室の扉の向こうで聞こえたグリーフの声が蘇った。「経理処理の慣行上の──」。あの穏やかな声。書類の言葉で逃げるのが上手い声。


 もう一つ。あの声が言っていた言葉の裏にあったもの。


(……「局長に命じられた」と言い張るつもりだったのか)


 配分額の操作を認めたとしても、「局長の指示で代行した」と主張すれば、グリーフ個人の責任は軽減される。局長印が押されている以上、局長の関与を疑わせることができる。


 でも──鑑定結果が出た。


 局長印を押したのはグリーフの手だ。局長が命じたなら、局長自身が押印する。少なくとも代行印を使わせる。局長印を直接使わせる理由がない。


 局長が命じた、は通らない。物理的に。


崩壊。


 報告書を鞄に入れた。局長室に行かなければ。


    ◇


 フリッツ局長の執務室。


 ノックした。「入れ」。短い声。


 報告書を差し出した。


「ハルトマン鑑定官からの報告です。局長印の魔力痕跡の鑑定結果が出ました」


 局長が受け取った。眼鏡越しに、一行目から読み始めた。


 指で行を辿る仕草。いつもと同じ。ただ──指の動きが、いつもより遅かった。一行ずつ確認するのではなく、一文字ずつ読んでいるような速度。


 一枚目を読み終えた。二枚目に移った。


 「不一致」の行で、指が止まった。三秒。


 「一致」の行に移った。指が──もう一度、止まった。


 五秒。


 報告書をテーブルに置いた。


 フリッツ局長の眉が──下がった。


 五ミリ上がるのは見慣れていた。草案を読み終えた朝。制度が可決された日。差額を報告した日に棚の鍵を黙って渡したとき。全部、眉は上がった。


 今日は、下がった。


 二ミリ。ほんのわずか。でも──この人の眉が下がるのを見るのは、初めてだった。


(……信頼していたんだ。グリーフを)


 言葉にはしなかった。局長は「信頼していた」とは言わない。ただ──毎日残業して、最後に鍵を閉めて、五年間書記局を支えてきた副書記官を、局長印の鍵を預ける相手として選んだ。それが信頼の全部だったのだろう。


 局長がペンを取った。


「照会書を書け。宮廷省宛。事実と証拠の列挙。グリーフの処分と聴聞の要請」


「承知しました」


「照会書には──鑑定結果の写しと、出張記録の照合結果と、資金流追跡の監査報告を添付しろ。三つの証拠を一本の線にして出す」


 三つの証拠。出張記録はこの部屋の棚から出た。資金流は監査局長命令の通常業務で追跡された。鑑定はハルトマンが直接送付した。三つとも、別の経路で、別の人間が集めた。


「局長の名誉は──」


「記録が証明する」


 短い。この人はいつもそうだ。言葉ではなく、棚の鍵を渡す。白紙ではなく、ペンを取らせる。「記録が証明する」の五文字に、ブルーメ時代から積み上げた書記局長としての全部が入っている。


「……承知しました」


 執務室を出た。


 廊下で、一度だけ振り返った。局長は──報告書をもう一度読んでいた。眉は、まだ下がったままだった。


    ◇


 午後。執務机で照会書を書いた。


 宮廷省宛。差出人──書記局長フリッツ・レーマン、起案者──書記官長補佐マリエッタ・アーレンス。


 事実を並べた。配分額の差額。四件。合計十金貨。出張記録との照合で全件が局長不在日と一致。代行印の不使用。資金流出先──クラウス・ヴァイス商会。魔力痕跡鑑定──グリーフ副書記官と一致。


 感情は一文字も書かない。条文番号と日付と鑑定結果。紙で作った一本の線。


 署名した。局長に提出した。局長印。午後便で宮廷省へ。


 回答は──退勤の鐘の前に来た。速い。鑑定結果の添付が効いたのだろう。物理的に反論不能な証拠がある照会には、宮廷省も早く動く。


 封を切った。


 『貴照会について受理する。副書記官ヨハン・グリーフに対する正式聴聞を実施する。日程は本日より三週間後。聴聞には書記局、監査局、鑑定官がそれぞれ証拠提出者として出席されたい。──宮廷省制度管理課』


三週間後。


 帳面に記録した。日付。「宮廷省より回答。グリーフの正式聴聞、三週間後。証拠提出者として出席」。


 三週間。その間に、地方の運用状況を確認したい。ブレーメンのトビアスのことが──まだ、胸の底に沈んでいる。帳面に書けなかった夜のことも。


 制度が人を追い詰めた。その制度を作ったのは私だ。グリーフの不正を暴いたのも同じ制度だ。制度は道具で、道具に善悪はない。でも──道具の使われ方を設計したのは私で、設計が足りなかった部分がある。


(……聴聞の前に、行かなければ)


 退勤の鐘が、六つ鳴った。


    ◇


 新居の書斎。灯りをつけた。


 机の上に帳面を広げて、聴聞までの三週間の計画を書き始めた。地方訪問。馬車で片道二日。往復四日。現地二日。約一週間。残りの二週間で聴聞準備と──。


 廊下から、足音が聞こえた。書斎の前で──止まらなかった。通り過ぎて、隣の部屋へ。ヴェインの部屋。


 しばらくして、書斎の壁越しに──ペンが紙の上を走る音が聞こえた。かすかな音。角ばった筆圧。ヴェインが何かを書いている。


 自分の作業に戻った。地方訪問の日程。交通手段。持参する書類のリスト。


 三十分ほど経って、書斎の扉をノックする音がした。


「入ってください」


 ヴェインが入ってきた。右手に──封筒を持っている。


 角ばった筆跡で宛先が書かれた封筒。宛先は読めなかったが──封をしたばかりらしい、蝋の匂いがかすかにした。


「兄の工房に頼みたいものがある」


 短い説明。いつもの一言。これ以上は言わないだろう。


「……お兄さんに」


「ああ。明日の朝便で出す」


 封筒を鞄に入れた。それだけ。手紙の中身にも、「頼みたいもの」の正体にも、触れない。


(……聞かない。聞かないのが、この二人の距離の取り方だ)


 秋に家紋の紋章を見せてくれた夜のことを思い出した。胡桃の葉。没落した騎士爵の、最後の印。靴べらとペン立てに焼かれた、丸い葉。あのとき「その前から」と言った声。渡り廊下で三年半すれ違っていた頃から、靴べらを準備していた人。


 この人が兄の工房に「頼みたいもの」は、きっと──胡桃材の何かだ。でも聞かない。


 ヴェインが書斎を出かけて──足を止めた。


「地方訪問」


「え?」


「ブレーメン地方行政局。行くなら、同行する」


 声が──速かった。


 この人の声はいつも低くて、速度が一定で、言葉を選んでから出す。大事なことを言うときは速度が落ちる。紅茶の当番のことも、利益相反のことも、ゆっくり、喉の底から出していた。


 今の声は違った。言葉を選ぶ前に──出た。


「監査官として制度運用の実地確認が必要だ」


 付け足した。理由を。後から。声がいつもの速度に戻っている。一言目が速すぎたことを、自分で気づいて、二言目で取り繕っている。


(……焼き栗を「帰りに通りかかった」で済ませる人が、同行の理由を後付けしてる)


 紅茶の当番の偏りも、インクの補充も、靴の向きも。この人の嘘はいつも同じ方向を向いている。今回も同じだ。「監査官として必要」は嘘ではないけれど、全部でもない。


「……ありがとうございます。助かります」


「ああ」


 ヴェインが書斎を出た。足音が廊下を遠ざかる。台所の方へ。


 湯を沸かす音が聞こえてきた。今日は水曜日。当番表の「V」の日。


 帳面を開いた。今日の記録。鑑定結果。局長の眉。照会書。聴聞三週間後。


 最後に。


 「ヴェイン。兄への手紙。中身は聞かない。──地方訪問に同行すると言った。声が速かった」


 書き終えて、ペンを胡桃材のペン立てに差した。


 壁の向こうから、湯が沸く音が聞こえる。紅茶の匂いは壁を通らない。でも──この人が淹れる紅茶の味を、もう舌が覚えている。音だけで味を思い出せる。


 三週間後に聴聞がある。その前に、ブレーメンに行く。トビアスに会う。制度が追い詰めた人に、制度を作った人間として会いに行く。


 隣に、この人がいる。


 封筒の蝋の匂いが、まだ書斎に残っていた。兄の工房に届く手紙の中に、何が書いてあるのか──聞かなくても、いつかわかる日が来る気がした。この人の準備は、いつも静かで、いつも先にある。

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