第34話 灯り
「この案件で俺に直接頼むな」
昨夜のヴェインの声が、まだ耳に残っている。
書斎だった。私が帳面を閉じて、グリーフの名前と四件の差額をどう処理するか考えていたとき。壁の向こうから足音が来て、書斎の扉が──珍しく、開いた。
ヴェインが入ってきた。灰色の瞳が私の帳面を一瞬見て、それから逸らした。帳面の中身は読んでいない。でも──私がここ数日、帳面を抱えて眉間にしわを寄せていることは、見えていたのだろう。
「監査局長を通せ」
短かった。いつもの半分くらいの語数。でもその後に、少しだけ長い言葉が続いた。
「書記官長補佐の夫が監査に関われば、結果の信頼性に傷がつく」
声が低かった。いつもの半音ではない。もう少し──奥。喉の底から出す、大事なことを言うときの音域。
(……利益相反か)
わかっていた。私が書記局の証拠提出者で、ヴェインが監査官。夫婦が同じ案件の両側に立てば、結果がどんなに正しくても、「身内で組んだ」と言われる。
前の世界にも同じ問題はあった。利益相反。回避しなければ、制度の信頼が崩れる。
「……わかりました」
「依頼書は監査局長宛で出せ。局長が俺に命令する形なら、通常業務の範囲だ」
最後まで言い終えて、ヴェインは書斎を出た。足音が廊下を遠ざかった。台所ではなく、自分の部屋の方へ。
扉が閉まった後、書斎の空気がほんの少し冷えた気がした。
(……妻を守るために、自分が手を引いた)
違う。守るためではなく、制度を守るためだ。結果の信頼性。監査の正当性。この人が引いたのは、私のためじゃなくて制度のためで──
(いや。両方だ。この人は両方を同時にやる。紅茶の当番と帳簿の整合性を同じ精度で追い詰める人だから)
あの声が、まだ耳に残っている。朝になっても。
◇
書記局の執務机で、依頼書を書いた。
宛先──魔術監査局局長。差出人──書記局書記官長補佐マリエッタ・アーレンス。
「書記局月次帳簿における配分額差額(四件、合計十金貨)に関し、差額分の資金流の追跡調査を依頼いたします。決裁印は書記局長印であるが、差額発生日はいずれも局長不在日と一致しており、第三者による局長印の不正使用が疑われます。詳細は添付の照合結果をご参照ください」
感情は一文字も書かない。事実と依頼の範囲だけ。
署名した。局間便の棚に入れた。
──ヴェイン宛ではなく、監査局長宛。その一行の宛先を変えるだけで、喉の奥が少しだけ締まった。
午前の業務を終えるころ、監査局から回答が届いた。速い。依頼から半日。
封を切った。
『書記局からの資金流追跡依頼を受理。監査局長命令により通常業務の一環として資金流監査を実施。結果は以下の通り。──差額合計十金貨の流出先:クラウス・ヴァイス商会(登記番号八一七―五)。資金は四件に分割され、書記局の施設維持費・通信費・消耗品費から商会の取引口座に振り込まれている。振込指示書には書記局長印が使用されているが、監査局所見として、局長不在日の印使用は規定違反に該当する可能性がある。正式報告書は追って送付する。──魔術監査局』
クラウス・ヴァイス商会。
ヴァイスの弟。冬の差押え書類に名前が出ていた人物。レーゲン別邸の名義変更先。弁済計画書の保証人として署名していた名前。
百二十金貨の横領で差し押さえられたヴァイス家の弁済金。その穴を埋めるために──書記局の予算が、クラウスの商会に流されていた。
(……繋がった)
ブルーメ元局長の不正。ヴァイスの横領。差押え。弁済命令。そして──弁済金の穴埋めを、書記局の予算から裏で補填していた人間がいる。
帳面を開いた。日付。「資金流追跡結果。流出先:クラウス・ヴァイス商会。ヴァイス家弁済金の補填と推定。要聴聞」。
◇
午後。局長室の扉の向こうから、声が聞こえた。
グリーフの声だった。
「局長。この差額は経理処理の慣行上の──」
フリッツ局長が差額の件をグリーフに問いただしたのだろう。扉は閉まっているが、グリーフの声は通る。普段は静かな人だ。書記局で一番遅くまで残って、一番早く鍵を閉める人。真面目で地味で、声を荒げるところを見たことがない。
その人の声が、今、扉の向こうで──少しだけ上擦っている。
「旧来の帳簿書式では、配分額の調整は各部署の裁量として認められておりました。新書式の導入で基準が変わったことは承知しておりますが──」
配分額の調整。裁量。
(……違う。裁量じゃない。配分額を操作して、差額を外部に流していた。それは裁量ではなく横領だ)
でも、グリーフの声は穏やかだった。焦ってはいるが、取り乱してはいない。「慣行」という言葉で不正を業務の一環に見せかけようとしている。弁の立つ人間ではないが、事務官としての言い回しに長けている。書類の言葉で逃げるのが上手い。
フリッツ局長の声は──聞こえなかった。何も言っていないのか、声が小さすぎるのか。扉の向こうで、局長は黙って書類を見つめているのだろう。あの人はいつもそうだ。言葉の代わりに、棚の鍵を渡す人。
扉が開いた。グリーフが出てきた。
すれ違った。目が合った。
グリーフの額に──薄く、汗が浮いていた。それだけだ。表情は崩れていない。軽く会釈して、自分の席に戻っていった。背筋は伸びている。足取りに乱れはない。
(……この人は、まだ戦うつもりだ)
被害者面、という言葉が浮かんだ。冬の議会でベルントが「交際費は通常の社交の範囲」と言い張ったときと同じ匂い。自分の行為を「業務」の枠に押し込めて、問われる前に正当化する。
ベルントは除名された。議事録の矛盾と献金記録で。
グリーフには──まだ、鑑定結果が出ていない。
◇
昼休み。湯茶室でハンナがカップを両手に持って座っていた。
「マリエッタ。隣いい?」
「もちろん」
向かいではなく、隣に座った。ハンナがこの席を選ぶのは、声を落としたい話があるときだ。五年間の付き合いで覚えた。
「ねえ。一つ、教えてあげたいことがあるんだけど」
「何?」
「ヴェインさんのこと」
カップを置きかけた手が、止まった。
「ヴェインさん、毎日退勤時に書記局の二階の灯りを確認してるのよ」
「……灯り?」
「正門を出るとき、必ず振り返って、書記局の二階の窓を見上げるの。灯りがついてるかどうか見てるの。毎日。一日も欠かさず」
灯り。書記局の二階。私の執務机がある階。
「それは──監査官の習慣でしょう。各部署の退勤状況を確認するのは、監査業務の一環で」
ハンナが私を見た。カップを置いた。少し首を傾けて──それから、目を細めた。呆れた顔だ。
「……本気で言ってる?」
「え?」
「監査業務の一環で、書記局の二階だけ毎日確認する監査官がどこにいるのよ。財務局も、人事課も、施設管理課も、全部無視して、書記局の二階の窓だけ。毎日。あなたの席がある窓だけ」
(……私の席がある窓だけ?)
「あなたが残業してないか確認してるのよ。灯りが消えてたら──帰ったって安心するの。灯りがついてたら──」
「ついてたら?」
「知らないわよ。聞いたことないもの。ついてたことがないんじゃない? あなた、定時に帰るから」
鐘が六つ鳴ったら帰る。一度も破ったことがない。だから──灯りは、いつも消えている。
(……毎日確認して、毎日消えていて、それでも毎日確認してるのか。この人は)
「監査官の習慣、ね」
ハンナが溜息をついた。呆れと、少しだけ──羨ましそうな色が混じった溜息。
「あなたたち二人とも、鈍いのか誠実なのかわからないわ」
「鈍くはないと思う」
「鈍いわよ。五年間隣の席で見てきた私が言うんだから、間違いない」
湯茶室を出た。廊下を歩きながら、頭の中でハンナの言葉が回っていた。毎日。二階の窓。灯り。消えているか、ついているか。
(……あれは監査官の習慣ではなく──)
考えかけて、止めた。考えると、耳が熱くなる。書記局の廊下で耳を赤くするわけにはいかない。この廊下にはハンナの目がある。
◇
執務机に戻って、もう一通の依頼書を書いた。
宛先──魔術監査局鑑定官ハルトマン。直接送付。ヴェインを経由しない。
「書記局局長印(差額発生四件の承認書に押印されたもの)について、魔力痕跡の鑑定を依頼いたします。比較対象として、書記局長フリッツ・レーマンおよび副書記官ヨハン・グリーフの登録魔力との照合を求めます。──書記官長補佐マリエッタ・アーレンス」
署名した。局間便の棚に入れた。鑑定結果はハルトマンから書記局に直接届く。ヴェインの手は通らない。利益相反の線引きは──守る。
退勤の鐘が、六つ鳴った。
帳面を開いた。今日の記録。
「資金流追跡結果。流出先:クラウス・ヴァイス商会。グリーフの弁明開始。『経理処理の慣行』と主張。ハルトマン鑑定官に局長印の魔力痕跡鑑定を依頼。直接送付。要聴聞」
書き終えて──もう一行、書こうか迷った。
迷って、書いた。
「ハンナより。ヴェインが毎日退勤時に書記局の二階の灯りを確認しているとのこと。監査官の習慣と思ったが、ハンナは否定。理由は不明」
理由は不明、と書いた。不明のはずだ。不明でいい。
帳面を閉じた。鞄に入れた。
正門を出た。石畳の通り。春の夕暮れ。日が長くなって、退勤の鐘が鳴ってもまだ明るい。
五歩ほど歩いて──足が止まった。
振り返った。
書記局の二階。私の執務机がある窓。
灯りは──消えている。当然だ。鐘が六つ鳴ったら帰る。今日も帰った。灯りは消えている。
(……この窓を、毎日見ているのか)
振り返ったまま、三秒。
前を向いた。歩き出した。
正門の石柱の横に、濃紺の影が立っていた。ヴェインが待っている。
今日は焼き栗の紙包みはない。手ぶら。監査官服の襟を少し立てて、石柱に背を預けている。
「おかえり」
「……おかえり」
並んで歩き始めた。石畳。二人分の足音。
今朝の依頼書のことも、ヴァイス商会のことも、グリーフの弁明のことも──言わなかった。利益相反の線引きを引いたのはこの人だ。案件の話は、この帰り道ではしない。
灯りの話も、しなかった。
しなかったけれど──隣を歩くこの人が、毎日、正門で振り返って、二階の窓を見上げていた。灯りが消えていることを確認して、それから正門を出ていた。三年半。
(……三年半、渡り廊下ですれ違っていた頃からだろうか。それとも、同居が始まってからだろうか)
聞かなかった。聞かないのが、この二人の距離だ。
でも──帰り道の足音が、今日はいつもより近く聞こえた。




