第33話 出張記録
記録は、嘘をつかない。
出張記録も。
◇
朝一番に、執務机の引き出しから鍵を取り出した。
昨日、局長が黙って渡してくれた鍵。ポケットの中で一晩、体温を吸って温まっていたはずなのに、引き出しに入れたら朝には冷たく戻っていた。鍵は、持ち主の温度を覚えない。
出張記録の綴じ台帳を、机の上に置いた。
革表紙。厚い。三年分の出張記録が綴じてある。局長が地方視察や宮廷省への出張に出るたび、日付と行先と期間が記録される。局長の署名入り。
帳面を横に開いた。昨日書き出した四つの日付が並んでいる。
一件目。施行月。施設維持費。差額三金貨。
日付を指で押さえた。出張記録の同じ月のページを開いた。
指で行を辿った。
──あった。
同じ日付。「南部行政局視察。二泊三日」。フリッツ局長の署名。
一致。
差額が発生した日に、局長は南部にいた。宮廷にはいなかった。
二件目。施行前一ヶ月。通信費。差額二金貨。
出張記録を遡った。
同じ日付。「宮廷省年次報告会議。日帰り」。
一致。局長は宮廷省の会議に出ていて、書記局の執務室にはいなかった。
三件目。
一致。
四件目。
一致。
四件、全部。
差額が発生した日は、すべてフリッツ局長が不在の日だった。
ペンを置いた。帳面に書いた。「差額発生日四件、出張記録との照合完了。全件一致。局長不在日に局長印が使用されている」。
(……局長がいない日に、局長の印が押されている)
局長印は金庫に保管されている。鍵は二本。局長本人が一本。もう一本は──副書記官が管理する。局長不在時の代行決裁のために。
代行決裁。
棚の上の規定集を取り出した。宮廷書記局の内部規定。ページを繰った。
第十四条。「局長不在時、副書記官が代行決裁を行う場合は、代行印(副書記官名義の別印)を使用する。局長印の直接使用は認められない」。
代行印。局長印とは別の印。副書記官の名前が入った印。使えば副書記官の魔力痕跡が残る。
帳簿に押されていたのは、代行印ではない。局長印だ。
局長不在日に、局長印が直接使われている。代行印ではなく。規定に反して。
(……規定違反。しかも、四件とも)
四件とも代行印を使っていない。四件とも局長印を直接使っている。知らなかったのではない。一回なら間違いかもしれないが、四回は──意図的だ。代行印を使うと自分の名前と魔力痕跡が残る。局長印なら、記録上は局長が押したように見える。
局長印の鍵を持つ人間は、局長本人を除けば──一人。
副書記官。ヨハン・グリーフ。
帳面にその名前を書こうとして──ペンが止まった。
名前を書いたら、この人は容疑者になる。書記局で毎日すれ違っている同僚が、帳面の上で犯人の候補になる。
書いた。
「副書記官グリーフ。局長印の鍵を局長以外に所持する唯一の人物。四件すべての局長不在日に、代行印ではなく局長印が使用されている点について要確認」。
事実だけを書いた。推測は書かない。感情も書かない。書記官の帳面に載せるのは、日付と事実と条文番号だけだ。
◇
昼休み。書記局の廊下は、ここ数日でどこか空気が変わっていた。
差額が出たことは──まだ局長と私しか知らない。知らないはずだ。でも、書記局は狭い。局長が私に棚の鍵を渡したことを、誰かが見ていたのかもしれない。私が出張記録の台帳を机の上に広げていたのを、誰かが気づいたのかもしれない。
廊下ですれ違う同僚たちの視線が、ほんの少しだけ──重い。何かを聞きたそうで、でも聞かない。あの空気。春の公聴会の前にも感じた。ブルーメ元局長の不正が発覚する直前の、あのひりひりした空気。
ハンナを見つけた。昼休みの湯茶室で、カップを手に椅子に座っている。
「ハンナ。少し聞いていい?」
「もちろん。何?」
向かいに座った。声を落とした。
「グリーフ副書記官のことなんだけど。局長が出張で不在のとき、グリーフさんはどうしてた?」
ハンナがカップを置いた。少し首を傾げて、それから答えた。
「いつも通りよ。グリーフさんは毎日遅くまでいるから。局長がいてもいなくても変わらないわ。残業して、最後に帰って、鍵を閉めて──書記局で一番真面目な人よ」
毎日遅くまで。最後に帰って。鍵を閉める。
(……誰もいなくなった書記局で、一人きりで)
「グリーフさん、私が入局した頃からずっとそうだったわよ。五年間、毎日。ブルーメ局長の頃から」
ブルーメ局長の頃から。
五年間。毎日残業。鍵を閉める。一人きりの書記局。
ハンナの言葉に嘘はないだろう。五年間隣の席で見てきた同僚の観察は、帳簿の数字と同じくらい正確だ。
「ありがとう。助かったわ」
「……何かあったの?」
「まだわからない。わかったら話すから」
ハンナが少し眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。この人は、聞かないことの大事さを知っている。秋の公聴会の前にも、冬の議会の前にも、私が黙っているときは黙って待ってくれた。
湯茶室を出て、廊下を歩いた。
グリーフ副書記官の机の前を通った。席にはいない。昼休みだから当然だ。机の上は整頓されている。書類は角を揃えて積まれ、ペン立ての羽根ペンは先端が全部同じ方向を向いている。
真面目な人の机だ。
ブルーメ元局長の時代から、毎日残業して、鍵を閉めて、誰もいない書記局で──何をしていたのか。
帳面を開かなかった。廊下では書かない。机に戻ってから書く。
◇
午後の業務を終えて、退勤の鐘が六つ鳴った。
今日は──鐘が鳴ってから、帳面の記録を少しだけ整理していた。退勤時刻を超えたわけではない。鐘が鳴る前に業務は終えていた。ただ帳面の私的な整理に五分だけ使った。五分。鐘が鳴ってから五分。
(……五分だけ。五分だけだから)
自分に言い訳している。前の世界で「あと五分だけ」が二時間になり、二時間が終電になり、終電が始発になった。あの「あと五分」と同じだ。
帳面を閉じた。立ち上がった。五分で切った。それだけは──譲れない。
正門を出て、石畳の通りを歩いた。春の夕暮れ。日が長くなって、空にまだ薄い光が残っている。風は柔らかい。冬とは違う匂い。土と若葉の匂い。
家に着いた。鍵を出して、回して、扉を開けた。
玄関で──ヴェインが座っていた。
靴を履いたまま。玄関の上がり框に腰を下ろして、膝の上に書類を広げている。監査官服の濃紺の背中。黒い髪。俯いた横顔。
「……ただいま」
ヴェインが顔を上げた。灰色の瞳。
「おかえり」
「靴、履いたままですけど」
「書類を読んでいただけだ」
読んでいただけ。靴を脱ぐ暇もなく。
──嘘だ。
靴のつま先が、玄関の扉の方を向いている。
家の中に向いていない。外に向いている。書類を読むなら、靴を脱いで書斎に入ればいい。靴を履いたまま玄関に座っているのは──外に出ようとしていたか、外から帰ってきてすぐ座ったかのどちらかだ。
でも、靴のつま先は扉の方。外に向いている。
(……出迎えようとしていたんだ)
迎えに出ようとして、扉を開ける前に止まった。迎えに出たら「待っていた」ことになる。この人は「待っていた」を言葉にしない。だから扉の手前で座って、書類を広げて、「読んでいただけだ」と言い訳を用意した。
焼き栗の大きさも、紅茶の当番の偏りも、インクの補充も。全部──この人の嘘は同じ方向を向いている。
「靴、脱いでください。紅茶、淹れますから」
「……ああ」
ヴェインが書類を畳んで、靴を脱いだ。靴べらを使った。右端の──三つ目の靴べらに手が伸びかけて、真ん中のを取った。
(……今、三つ目に手が行きかけたな)
聞かなかった。聞かないのが、この二人の距離だ。
台所で湯を沸かした。茶葉を量った。蓋をして、蒸らした。今日は私の当番の日ではないけれど、帰りが少し遅くなったから──これくらいは。
カップを二つ持って居間に入った。ヴェインが椅子に座っている。書類はもう片付けたらしい。テーブルの上には何もない。
紅茶を渡した。
「遅くなりました。五分だけ」
「五分は許容範囲だ」
「許容範囲って何ですか」
「俺の定義では、鐘が鳴ってから十分以内」
(……十分以内、という基準があるんだ、この人には)
十分。なぜ十分なのかは聞かない。聞いたら、帳簿の検査基準と同じ精度で説明されそうで──少しだけ怖い。怖いのとは違う。照れくさい。
紅茶を一口飲んだ。自分で淹れた紅茶。悪くない。ヴェインの「ちょうどいい」には届かないけれど、薄くはない。
書斎に入って、帳面を開いた。
今日の記録。出張記録との照合結果。四件すべて一致。代行印の不使用。規定第十四条。局長印の鍵の管理──局長本人と副書記官グリーフ。ハンナの証言──「毎日遅くまで」「鍵を閉める」「ブルーメ局長の頃から」。
最後に一行。
「局長不在日に局長印を使えるのは、グリーフだけ」。
書き終えて、ペンを置いた。
壁の向こうから──湯を沸かす音がした。
(……もう一杯、淹れてる)
さっき私が淹れたのに。今度はヴェインが淹れている。当番表にない、余分の一杯。
帳面に書き足した。短く。
「靴。外を向いていた」。




