第32話 差額
差額が出た。
書記局の、自分の部署の帳簿から。
◇
朝、執務机に着いて最初にやったのは、前日に書けなかった帳面の続きだった。
日付を書いた。ペンは動いた。二日前の夜、書斎で凍りついた指先が嘘みたいに、今朝は普通に動く。ブレーメンの報告書のことは──まだ胸の底に重い。でも帳面は開けた。記録を止めたら、書記官じゃなくなる。
帳面を閉じて、月次帳簿の束に手を伸ばした。
先日、各部署の初月報告は全部検査した。経理課の銀貨三枚を差し戻して、他は正常。今日は──書記局自身の帳簿を検査する。
自分の部署の帳簿。私が条文を書いた制度で、私が所属する部署を検査する。
表紙を開いた。「二重記帳制度準拠」の印。三列。配分額。支出額。残額。
加えて──宮廷省の年間予算通達との照合列。これは新書式にだけある。旧書式にはなかった。各部署に配分された予算額が、宮廷省の通達と一致しているかどうかを突き合わせるための列。私が条文に書き足した仕組みだ。
指で行を辿った。
一行目。人件費。配分額──宮廷省通達と一致。支出額。残額。差額なし。
二行目。消耗品費。一致。差額なし。
三行目。通信費。一致。差額なし。
四行目。施設維持費。
配分額。
指が、止まった。
宮廷省の通達額は年間十二金貨。帳簿の配分額は──十五金貨。
三金貨の差額。
通達額と帳簿の配分額が合わない。宮廷省は十二金貨を配分したと言っている。帳簿には十五金貨と書いてある。三金貨分、帳簿の方が多い。
支出額と残額を確認した。支出は十五金貨の配分額に対して正しく計上されている。残額も合っている。つまり──支出と残額だけを見れば、何の問題もない。数字は全部合う。
(……旧書式なら、見えなかった)
旧書式には宮廷省通達との照合列がなかった。配分額そのものを操作されたら、支出と残額がそれに合わせて正しく計上される限り、差額は浮かばない。
新書式の照合列が──配分額の操作を、浮かび上がらせた。
帳面を開いた。日付。「書記局月次帳簿、施設維持費に金貨三枚の差額。宮廷省通達額12金貨に対し帳簿配分額15金貨。照合列にて検出」。
書きながら、ペンを持つ手が重かった。経理課の銀貨三枚は計算ミスだった。でもこれは──配分額の段階での操作だ。計算ミスでこうはならない。
帳簿の配分額を操作できるのは、予算配分の決裁権を持つ人間だけだ。
決裁印を確認した。
施設維持費の配分額欄の横に、承認印がある。印影を見た。
フリッツ局長の局長印。
ペンが、止まった。
◇
フリッツ局長の執務室の扉を叩いた。
「局長。帳簿検査の報告があります」
「入れ」
入った。帳簿を開いて、局長の机に置いた。指で、施設維持費の行を示した。
「宮廷省の通達額は十二金貨です。帳簿の配分額は十五金貨。三金貨の差額が出ています」
フリッツ局長が帳簿を覗き込んだ。眼鏡越しに数字を追う目が、一行ずつゆっくりと動いた。
「決裁印は──局長印です」
言わなければならなかった。言いたくなかった。この人は、ブルーメ元局長に名前を奪われた五年間を知っている人だ。正規登用を推してくれた人だ。制度の上申書に署名してくれた人だ。
でも──帳簿は嘘をつかない。差額は出ている。決裁印は局長印。報告しないという選択肢は、書記官にはない。
「……そうか」
局長の声は低かった。でも取り乱してはいない。怒ってもいない。眉の角度も変わらなかった。五ミリ上がりも、下がりもしない。
局長が椅子から立ち上がった。
執務室の奥の棚──鍵のかかった書棚。出張記録や決裁履歴が綴じてある棚。局長以外は触れない棚。
ポケットから鍵を出した。棚を開けた。綴じ台帳を一冊取り出した。
私の前に戻ってきて──台帳を、机の上に置いた。
その横に、棚の鍵を置いた。
何も言わなかった。「調査しろ」とも、「信じてくれ」とも、「説明させてくれ」とも。
棚の鍵と出張記録の台帳。それだけだ。
(……この人は、言葉では言わない)
春の公聴会のとき、二百四十七件の改善案に私の名前を載せてくれたのも、書面の一筆だった。制度の上申書に署名してくれたときも、「頑張れ」とは言わなかった。「書け」とだけ言った。
この人のやり方は、いつも同じだ。言葉ではなく、鍵を渡す。棚を開ける権限を手渡す。あとは記録が証明する。
「……承知しました」
台帳と鍵を受け取った。
執務室を出るとき、一度だけ振り返った。局長は椅子に座り直して、帳簿を見ていた。眉は動いていない。でも──手元の帳簿のページを、いつもより長く見つめていた。
◇
午後。執務机に出張記録の台帳を広げた。
まだ開かない。先に、差額の全体像を把握する。
書記局の帳簿を最初の月まで遡った。二重記帳制度が施行されたのは春の初め。それ以前の帳簿は旧書式で、照合列がない。だから──施行前の差額は、旧書式の帳簿からは見えない。
でも、宮廷省の通達記録は残っている。過去三ヶ月分の通達額と、帳簿の配分額を突き合わせた。
帳面を開いた。日付を書いた。
一件目。施行月。施設維持費。差額三金貨。
二件目。施行前一ヶ月。通信費。差額二金貨。
三件目。施行前二ヶ月。施設維持費。差額三金貨。
四件目。施行前三ヶ月。消耗品費。差額二金貨。
三ヶ月分で、四件。合計十金貨。
費目がばらばらだ。同じ費目が続かない。施設維持費が二回、通信費が一回、消耗品費が一回。目立たないように分散させている。
(……慣れている。この手口に、慣れている人間の仕事だ)
前の世界で、経理不正の報道を何度も読んだ。小さな額を複数の費目に散らす。一件あたりの金額を閾値以下に抑える。監査の目をすり抜ける古典的な手法。
この世界でも──同じことをやっている人間がいる。
四件の日付を帳面に並べて書いた。
日付。日付。日付。日付。
四つの数字が縦に並んでいる。
(……何か、法則があるかもしれない)
棚の鍵が、ポケットの中で冷たい。出張記録の台帳は、まだ開いていない。
今日はここまでだ。日付を書き出しただけで、退勤の鐘まであと三十分。照合は明日にする。急いで間違えるわけにはいかない。恩人の名誉がかかっている。
帳面を閉じた。日付の四つの数字を、目に焼きつけた。
◇
新居の書斎に入って、灯りをつけた。
机の上に──紙片が置いてあった。
灰色インク。角ばった筆跡。見慣れた字。
『インクの補充、書棚の二段目。──V』
紙片の横に、目を移した。帳面用のインク壺が──新しい瓶に替わっている。前の瓶は底が見えかけていた。いつ替えたのだろう。今朝、出勤する前にはまだ古い瓶だった。
(……ヴェインは私より先に帰っている。書斎に入って、インクの残量を見て、書棚の予備と交換して、メモを書いて──台所に戻った)
インクの残量を確認する人間。帳面用のインクが切れかけていることに、持ち主より先に気づく人間。紅茶の当番を自分の日に多く設定する人間と、同じ人間だ。
同居を始めた秋の終わりにも、灰色インクのメモがあった。あの頃は「別邸の登記情報、添付済み。──V」だった。仕事の情報を共有するメモだった。
今日のメモは、仕事ではない。インクの補充。帳面用の、黒インクの。
(……仕事じゃないメモの方が、この人らしいのかもしれない)
紙片の余白に、ペンを取った。新しいインクの瓶を開けた。蓋を回す指先に、ガラスの冷たさが伝わる。黒インクの匂い。鉄と松脂の、かすかな苦さ。
一行、書いた。
『ありがとう。──M』
書いてから、顔が熱くなった。
一文字の署名。Vの真似だ。同居を始めてから半年、いつの間にかこの人の書き方を真似している。帳面の記録は五年間で一度も書式を変えなかったのに、メモの署名だけは──変わった。
(……いつから「M」って書くようになったんだろう)
覚えていない。最初に「M」と書いたのがいつだったか、帳面に記録していないから。記録していないことは、忘れる。当たり前のことだ。でも──Vのメモは一枚も捨てていない。書斎の引き出しの奥に、秋からの灰色インクのメモが全部入っている。捨てなかったことは記録していなくても覚えている。
紙片をメモの横に置いた。灰色の「V」と黒の「M」が、机の上に並んでいる。
色が違う。筆圧が違う。字の癖も違う。でも同じ机の上にあって、同じ灯りに照らされている。
帳面を開いた。
今日の記録。書記局帳簿の差額。三ヶ月四件。合計十金貨。費目の分散。決裁印──局長印。出張記録の台帳、受領済み。鍵、受領済み。照合は明日。
最後に、一行だけ別のことを書いた。
「インク補充。書棚の二段目。灰色インクのメモ、受領」
書き終えて、ペンを胡桃材のペン立てに差した。
壁の向こうから、頁をめくる音が聞こえる。ヴェインだ。居間で何かを読んでいる。監査局の報告書か、あるいは──鑑定の教本か。何を読んでいるかは聞かない。聞かないのが、この書斎と居間の壁一枚の距離だ。
ポケットの中の鍵が、手のひらの体温でほんの少しだけ温まっている。
明日、この鍵で棚を開ける。出張記録の日付と、帳面に書き出した四つの日付を並べる。
一致するかもしれない。しないかもしれない。
でも──一致したら。
差額が出た日に局長がいなかったら。局長印が使われた日に、局長が宮廷にいなかったら。
(……それは、局長じゃない誰かが局長印を使ったということだ)
頁をめくる音が、止まった。
台所の方から、湯を沸かす音が聞こえてきた。今日は水曜日。当番表の「V」の日。
紅茶の匂いが、壁越しに届くことはない。でも──湯が沸く音だけで、あの「ちょうどいい」の味を思い出せるようになっていた。




