第31話 報告書
第4章スタートです!!
紅茶の当番が偏っていることに、二週間目で気づいた。
台所の壁に、ヴェインが貼った当番表がある。引っ越しの翌日、灰色インクで書かれた紙が画鋲一本で留まっていた。月曜から日曜まで、名前が一日ずつ並んでいる。
月──V。火──M。水──V。木──V。金──M。土──V。日──M。
Vが四日。Mが三日。
(……偏っている)
焼き栗の大きいほうが毎回こちらに来るのと、同じ種類の嘘だ。計量していない。均等にする気がない。でも「偏っている」とは絶対に言わない。聞けば「曜日の配置の問題だ」とか「水曜は業務が軽い」とか、帳簿の差額を説明するときと同じ顔で答えるのだろう。
今朝は水曜。Vの日。
ヴェインが竈の前に立っている。白いシャツ。袖をまくった腕。湯気の向こうに、角ばった横顔。
カップを二つ、テーブルに置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
一口、飲んだ。
ちょうどいい。
二週間前の施行初日と同じ味。色も温度も茶葉の香りも、この人が「覚えた」と言った日から一度もぶれていない。
「今日は初月報告の集計があります」
「知っている」
「緊張してます」
「見えない」
「見えないだけです」
同じ会話を、施行初日の朝にもした。同じ言葉。同じ返事。でも今朝の方が、ほんの少しだけ力が抜けている。二週間分の「同じ朝」が、椅子の座り心地を変えている。
パンを食べ終えて、椅子を引いた。
「行ってきます」
「ああ。定時に」
「もちろん」
玄関で靴を履いた。靴べらが三つ。左の二つは使い込んだ艶。右の一つは──角が、ほんの少しだけ丸くなり始めている。まだ誰の足も通していないのに、毎日手に取っているからだろう。ヴェインが靴を履くときに、右端の靴べらに触れるのを二度ほど見た。
(……触れるだけで使わないのに、角が丸くなるんだ)
扉を開けた。春の半ばの風。冬より柔らかくて、早春よりほんの少しだけ──甘い。
◇
書記局の執務机に、各部署の月次帳簿が積まれていた。
初月。二重記帳制度が施行されてから最初の月次報告。私が条文に書いた三列の書式で、全部署の帳簿が提出される最初の日。
一冊目を開いた。外務課。配分額。支出額。残額。三列。差額──なし。
二冊目。人事課。三列。差額──なし。
三冊目。施設管理課。差額──なし。
指で行を辿りながら、一冊ずつ確認していく。数字が並んでいる。私が書いた書式の通りに。前の世界では当たり前だった書き方が、この世界の帳簿に──ある。
四冊目。経理課。
配分額。支出額。残額。
指が止まった。
三行目。消耗品費。配分額と支出額を引いた残額が──合わない。金貨一枚未満。銀貨三枚分の差額。
帳面を開いた。ペンを取った。日付。「経理課月次帳簿、消耗品費に銀貨三枚の差額。計算誤り」。
差し戻し票を起案した。条文第七条に基づき、差額発生時の再計算と理由書の提出を求める。感情は一文字も書かない。数字と条文だけ。
署名して、局間便の棚に入れた。
「マリエッタ、経理課に差し戻し?」
ハンナの声が後ろから来た。
「銀貨三枚の計算ミス。大きな問題じゃないけれど、制度は制度だから」
「初月から差し戻しって、経理課の人たち怒らないかな」
「怒るかもしれない。でも銀貨三枚を見逃したら、次は金貨三枚を見逃すことになる」
ハンナが少し黙って、それから頷いた。
「……あなたらしいわね」
らしい、と言われるたびに、少しだけ背筋が伸びる。五年間、名前を奪われていた人間が「あなたらしい」と言われるのは──前の世界では一度もなかったことだ。
残りの帳簿を全部検査した。差額は経理課の一件のみ。他は全部──正常。
制度が、動いている。
帳面に一行書いた。「二重記帳制度、初月報告。差額一件(計算誤り、差し戻し済)。他は正常運用を確認」。
ペンを置いたとき、指先がわずかに震えていた。施行初日に三列の数字を確認したときと同じ震え。制度が紙の上だけのものではなく、実際に帳簿の中で動いている。嘘をつけない仕組みが、数字の一つ一つを照らしている。
フリッツ局長が執務室のドアの向こうで、扉の隙間から帳簿の山を見ていた。何も言わない。ただ──眉が五ミリ上がっていた。
◇
午後。宮廷省からの回付便が届いた。
封書を開けた。地方行政局の月次運用報告。各地方の二重記帳制度の導入状況。
一枚目。南部行政局。「導入完了、問題なし」。
二枚目。東部行政局。「導入完了、軽微な書式誤りあり、是正済み」。
三枚目。ブレーメン地方行政局。
報告者──副局長代理。書記官ではない。
添付書類。一枚。「業務過多による体調不良に関する報告」。
書記官トビアス・ヴェーバー。三十代前半。二重記帳制度の運用に伴う旧帳簿から新書式への書き換え作業を一人で担当。作業量過多により退勤時刻を大幅に超過し──体調を崩して倒れた。現在療養中。
紙を持つ手が、止まった。
もう一度読んだ。
「退勤時刻を大幅に超過し」。
退勤時刻を、超過した。
私が作った制度のために。私が書いた条文の、新書式への書き換えのために。鐘が鳴っても帰れなかった。鐘を無視して働き続けて、倒れた。
(──私が書いた制度が、人を倒した)
報告書を机に置いた。指先が冷たい。さっきまで震えていた指が、今度は凍っている。
ブレーメン地方行政局。書記官は三名。うち一名が倒れて二名体制。旧帳簿から新書式への書き換えは──人手が足りなければ、誰かが残業するしかない。
(制度は正しい。書式も正しい。でも──運用する人間の数が足りなければ、制度が人を追い詰める)
前の世界のことを、思い出した。
労働基準法があった。残業規制があった。制度はあった。でも──人が足りなかった。予算が足りなかった。制度を守ろうとすると仕事が回らなくなるから、みんなで鐘を無視した。私も無視した。三十二歳まで。
帳面を閉じた。
今日はもう──開けなかった。
◇
退勤の鐘が、六つ鳴った。
鞄を持って書記局を出た。渡り廊下を歩いた。正門をくぐった。石畳の通り。春の夕暮れ。日が長くなって、まだ空に光が残っている。
家に着いた。鍵を開けた。玄関に入った。靴を脱いだ。
台所から、湯を沸かす音がする。ヴェインが先に帰っている。
「おかえり」
低い声。台所の奥から。
「……おかえり」
声が小さかったのだと思う。ヴェインが台所から顔を出した。灰色の瞳が私を見て──一拍、止まった。
何か言おうとしたのかもしれない。でも言わなかった。代わりに、紅茶のカップを一つ持ってきて、テーブルに置いた。
「飲め」
短い。いつもの「どうぞ」ではない。
座った。カップを手に取った。一口飲んだ。ちょうどいい。朝と同じ味。
ヴェインは向かいに座らなかった。台所に戻って、自分のカップを持ってきて、隣の椅子に座った。窓を向いて、肩が並ぶ配置。引っ越しの夜と同じ──いや。
(……なんで隣に座るんだろう、今日は)
聞かなかった。聞かないのが、この二人の距離の取り方だ。
紅茶を飲み終えて、書斎に入った。
机に座った。帳面を開いた。
今日の日付を書こうとして──ペンが止まった。
何を書けばいい。
「二重記帳制度、初月報告。正常運用確認」。書ける。
「経理課に差し戻し。銀貨三枚」。書ける。
「ブレーメン地方行政局。書記官トビアス・ヴェーバー。業務過多。倒れた」。
書けない。
ペン先がインクを含んだまま、紙の上で止まっている。染みが広がりかけている。
三十二歳で死んだ。机に突っ伏して、目を閉じて、そのまま──。
あのとき、私の机にも書類が積まれていた。処理しきれない量の。締め切りが過ぎた書類と、これから来る書類と、終わらない仕事。制度はあった。残業規制はあった。でも制度のために人が倒れることを、誰も──。
ペンを置いた。
帳面を閉じた。
初めてだった。帳面に書けない日。五年間、一日も欠かさなかった記録が、今日──途切れた。
壁の向こうから、足音が聞こえた。廊下を歩く音。書斎の前で──止まった。
ヴェインだ。
扉は開かなかった。足音は止まったまま、動かない。
一分。
足音が離れていった。台所の方へ。それから──湯を沸かす音が、もう一度聞こえた。
(……もう一杯、淹れている)
紅茶が温め直されたのか、新しく淹れたのかはわからない。でも、台所から湯の沸く音が聞こえるだけで、書斎の空気がほんの少しだけ──緩んだ。
帳面は開かなかった。今日は書けない。明日も書けるかわからない。
でも──紅茶の当番表のことは、いつか書こうと思った。Vが四日で、Mが三日。偏りあり。指摘せず。
それだけは──書ける気がした。
窓の外で、春の夜が静かに始まっていた。




