第25話 靴べらを置く場所
議事録は、嘘をつかない。
会議で何を言ったか。いつ言ったか。誰が言ったか。全部、紙の上に残っている。口の達者な人間は紙が苦手だと、前の世界でも思っていた。
今日、それを証明する。
◇
議場の傍聴席は、石造りの二階回廊にある。
冬の朝の冷気が石壁から滲み出していて、息が白い。手袋をしていても指先が冷たい。膝の上に帳面を開いて、羽根ペンを構えた。インク壺は小型のものを鞄に入れてきた。
議場の中央に、ベルント・グレーフェが立った。
三十代半ば。中肉中背。目立つ容姿ではない。でも──声が通る。最初の一言で、議場の空気が変わったのがわかった。
「諸兄にお聞きしたい。王の特権を制度に委ねることが、果たして国の安定に資するのか」
滑らかだった。言葉の選び方が巧い。「王の特権」と言って国王陛下への忠誠を匂わせ、「制度に委ねる」と言って制度化を「権力の放棄」に見せかけている。
「監査は本来、王が信頼する者に託す仕事だ。それを帳簿の書式ひとつで自動化するなど、王権を紙切れに置き換えるに等しい」
議場にざわめきが走った。
(……上手い。感情に訴えてる)
ペンを走らせた。発言の一語一語を、帳面に書き取る。日付、時刻、発言者名、発言内容。書記官の記録習慣が、こういう場面で役に立つ。
ベルントの演説は十分ほど続いた。論旨の核は同じだ。「監査権限の拡大は王権の弱体化」。反対意見書で書いたことを、口に乗せて膨らませている。判例の誤引用については──私の反論書面を読んだのか、今日は触れなかった。代わりに感情論で押している。
傍聴席から議場を見下ろした。議員たちの表情。半数以上が、ベルントの弁舌に引き込まれている。うなずいている者もいる。
(……このまま放っておいたら、採決で否決されかねない)
指先が冷たい。冬の寒さだけではない。せっかく議会に乗った制度案が、一人の弁の立つ議員の演説で潰される──その可能性が、指先を冷やしている。
帳面を閉じた。鞄から、別の書類を取り出した。
二枚の紙。一枚は今日の帳面から書き起こしたベルントの発言要旨。もう一枚は──過去の議事録の写し。
三年前の定例議会。議題は「宮廷財務局の経費処理基準の見直し」。このとき、ベルント・グレーフェ議員は末席から発言している。
『宮廷の経費処理は透明化されるべきである。各部署の支出が不透明なまま放置されることは、国の信頼を損なう。──ベルント・グレーフェ』
透明化されるべき。
三年前のベルントは、経費処理の透明化を主張していた。今日のベルントは、透明化のための制度を「王権の弱体化」と攻撃している。
矛盾。
三年前と今日で、主張が正反対。そして三年前から今日までの間に、ベルントはヴァイスから年八金貨──合計二十四金貨の「交際費」を受け取っている。
透明化を主張していた議員が、横領犯から金を受け取った後に、透明化の制度に反対している。
書面を整えた。二枚の発言記録と、差押え書類から写し取った献金記録の抜粋。三枚。日付と発言者名と金額。事実だけを並べた。感情は一文字も載せない。
書記官長補佐の職権。議事録の閲覧・照合結果を議場に書面で提出できる。春の公聴会で証言台に立ったときと同じだ。紙を持って、立ち上がる。
◇
傍聴席の手すりに立った。
「議長」
声を出した。議場が静まった。ベルントが顔を上げた。傍聴席から声をかけら
れることを、予想していなかったのだろう。
「書記官長補佐マリエッタ・ホルン。書記局規程に基づき、議事録の照合結果を書面で提出いたします」
議長──白髪の老齢の議員が、手元の規則書に目を落とした。
一拍。
「書記官長補佐。傍聴席からの書面提出は、議事規則第二十二条により議長の許可を要する。──提出の必要性について、説明を求める」
(──来た)
予想していた。傍聴席からの発言・提出は議長裁量。ベルントの演説が議場を傾けた直後に、裁量で「不要」と判断される可能性は十分にある。
説明を組み立てようとした、そのとき。
「──動議」
声は、傍聴席の反対側から上がった。
ルートヴィヒ・フォン・クライスト公爵。筆頭貴族枠の正規議員として、最前列に座っていた壮年の男性が立ち上がっていた。
「議長。正規議員ルートヴィヒ・フォン・クライスト。議事規則第二十二条の二項に基づき、書記官長補佐の書面受理を動議いたします。正規議員の動議であ
れば、受理の可否は議場の採決に委ねられるはずです」
議長が名簿に目を落とした。確認の仕草。三秒。
「……クライスト議員の動議を認める。書面の受理について、賛成の諸兄は挙手を」
手が上がった。過半数。
十分前にベルントの演説にうなずいていた議員の何人かは、手を挙げなかった。
しかし──筆頭貴族が自ら動議を出したという事実の重さは、弁舌の余韻より大きかったらしい。
「過半数の賛成により、書面を受理する」
書面を議場の係官に渡した。係官が議長席に運ぶ。議長が書面を受け取って、目を通し始めた。
(……危なかった)
手が、わずかに汗ばんでいた。書記局規程の職権だけでは、議長の裁量を越えられなかった。クライスト公爵が動かなければ、書面は受理されず、ベルントの
演説だけが議場に残っていた。
春の公聴会で、エリーゼに渡した閲覧結果が証拠になった。秋の中庭で、エリーゼから情報を受け取った。冬に廊下で「お気をつけて」と言われた。
その積み重ねが──今日、彼女の父の動議という形で返ってきた。
記録を残し続けたから、味方がいた。
味方、という言葉が正しいのかはわからない。
クライスト公爵は私の為人を知っているかどうかもわからない。知っているのは──五年分の記録と、エリーゼが渡した資料の束。数字と日付と、手続きの履歴。それで十分だったのだ。
議場が、沈黙した。
ベルントの表情が変わったのは、議長が二枚目──三年前の議事録の写しを読み始めたときだった。目が、ほんの少しだけ見開かれた。それだけだ。弁の立つ人間は、表情の制御も上手い。
議長が顔を上げた。
「ベルント・グレーフェ議員。三年前の定例議会において、あなたは『宮廷の経費処理は透明化されるべきである』と発言されている。本日の発言と矛盾するが、見解を問う」
ベルントが一瞬、間を置いた。弁の立つ人間が言葉に詰まる瞬間は、議場の全員に伝わる。
「……三年前の発言は、当時の状況に基づくものであり──」
「加えて」
議長が遮った。老齢だが、声は太い。
「添付された資料によると、あなたはこの三年間、懲戒免職処分を受けたヴァイス元副次長から年間八金貨、合計二十四金貨の交際費を受領している。利益相反の可能性について、弁明はあるか」
議場がざわついた。二十四金貨。正規書記官の年俸一年半分。横領で免職された人間から受け取っていた金額が、議場に響いた。
ベルントの額に、汗が浮いた。
「交際費は通常の社交の範囲であり──」
「年間八金貨を三年間。同一人物に。通常の社交の範囲と主張されるか」
議長の声は淡々としていた。淡々さが、かえって重い。ハルトマン鑑定官が鑑定結果を読み上げるときと同じ種類の重さ。
ベルントが口を閉じた。
議長が議場を見渡した。
「本件について、議員資格審査を動議する。賛成の諸兄は挙手を」
手が上がった。過半数。十分ほど前までベルントの演説にうなずいていた議員たちの手が、今は審査に賛成して上がっている。
(……紙は、弁舌より強い。言葉は消えるけど、記録は残る)
資格審査の結果は、午後に出た。
ベルント・グレーフェ。議会除名。宮廷出入り禁止。二十四金貨の献金は返還命令。
傍聴席から議場を見下ろした。ベルントが退場する背中。温厚でもなく、怒りに震えてもいない。ただ汗で額が光っているのが、二階回廊からでも見えた。
帳面を開いた。日付。「ベルント・グレーフェ議員、議会除名。宮廷出入り禁止。献金24金貨返還命令。議事録の自己矛盾+利益相反により」。署名。
書いている途中で、指先の冷たさが消えていることに気づいた。いつの間にか──ペンを握る手が、温まっている。
◇
退勤の鐘が六つ鳴った。
正門を出ると、ヴェインが待っていた。濃紺の監査官服。冬の夕暮れの中で、襟を少し立てている。寒いのだろう。この人は寒がりだ。指先がいつも冷たいのは、体温が低いせいなのかもしれない。
「終わった?」
「終わりました。ベルント、除名です」
「聞いた。監査局にも通達が来ていた」
短い報告と、短い確認。これで十分だ。
ヴェインが、正門の反対方向に歩き出した。いつもの帰路ではない。
「……どこに?」
「見せたい場所がある」
石畳の大通りを抜けて、細い路地に入った。宮廷の区画を出て、市街の住宅地。冬の夕暮れで窓に灯りがぽつぽつと点り始めている。焼きたてのパンの匂いが、どこかの家から漂ってくる。
路地の奥に、二階建ての石造りの家があった。壁は白くて、窓枠が木製で、屋根の傾斜が緩い。官舎より小さいが──官舎より、人の住む家に見えた。
「ここ」
ヴェインが立ち止まった。
「大家に話を聞いてある。空きが出ている」
(……いつの間に下見を)
聞かなくてもわかる。この人は靴べらもペン立ても焼き栗も、全部事前に準備する人だ。新居の下見も、当然のように先にやっている。
入口の扉は木製で、取っ手が鉄。ヴェインが扉を開けて──最初に確認したのは、中ではなく、玄関だった。
扉のすぐ内側。壁に、小さな棚がついている。靴を脱ぐ場所の横。ちょうど靴べらを立てかけられる高さ。
「……棚がある」
ヴェインの声が、ほんの少しだけ──満足そうだった。声のトーンは変わらない。半音も変わらない。でも、語尾の力の抜け方が違う。監査報告を読み上げるときには絶対に出ない、ゆるさ。
(……そこなんだ。最初に確認するの、そこなんだ、この人は)
「靴べらの棚が、決め手なんですか」
「重要だ」
「間取りとか、陽当たりとか、もっと先に見るところがあると思いますけど」
「靴べらを置く場所がない家には住めない」
真顔だ。完全に真顔。この人は紅茶の濃さについても靴べらの配置についても、帳簿の整合性と同じ重みで語る。
少しだけ笑ってしまった。声に出して笑ったのは──いつ以来だろう。前の世界でも、あまり声を出して笑わなかった。
「見ましょう。中も」
中に入った。居間。書斎に使えそうな小部屋。台所。寝室が二つ。官舎よりは広い。窓が南向きで、冬でも昼間は明るそうだ。
書斎の小部屋に、ヴェインが入った。窓辺に立って、壁を見ている。
「机を置くなら、ここだ。光が左から入る。利き手が右なら、影が落ちない」
(……利き手まで計算してる)
私の利き手が右だと知っている。羽根ペンを持つ手を、三年半の渡り廊下ですれ違う中で見ていたのか。同居の五週間で確認したのか。どちらにしても──この人は、気づいている。私の知らないところで、私のことを見ている。
「いい場所ですね」
「ああ」
「家賃は」
「年四金貨。二人の年俸なら問題ない」
年四金貨。書記官長補佐の年俸二十金貨と監査官の年俸二十二金貨。合わせて四十二金貨から四金貨。十分だ。
「考えましょう」
「ああ。急がない」
急がない。この人がいつも言う言葉。紅茶の濃さも、呼び名も、新居も。急がない。でも──準備はしている。靴べらの棚を確認して、机の位置を計算して、家賃を調べて。急がないけど、止まってもいない。
(……この人のペースに、私はいつの間にか馴染んでいる)
家を出た。冬の夕暮れが路地を青く染めている。息が白い。二人分の白い息が、重なって消えた。
◇
大通りに出て、宮廷の方角に歩き始めたときだった。
鐘が、鳴った。
退勤の鐘ではない。六つはもう鳴り終わっている。これは別の鐘だ。方角は──神殿。
低い音。長い余韻。普段の時報の鐘より、間隔が遅い。
臨時の鐘。
「……何の鐘だ」
ヴェインが足を止めた。灰色の瞳が、神殿の方角を見ている。
「神殿の臨時鐘は、三種類です。神殿長の交代、神託の奏上、それから──」
「緊急の布告」
「はい」
冬の空に、鐘の音がもう一度響いた。低くて、長い。石畳を伝って足の裏に振動が届くような、重い音。
──秋の終わりにも、神託があった。カタリナ嬢の聖女候補認定。あのときは認定要件の不備を見つけて、無効にした。
また、来るのだろうか。
「明日、確認します」
「ああ」
歩き出した。冬の夕暮れ。二人分の足音。手は繋いでいない。でも肩が並んでいる。
神殿の鐘の余韻が、石畳の路地に染み込むように消えていった。消えたあとに残ったのは、足音と、焼きたてのパンの匂いと──さっき見た、白い壁の家の窓枠の色だった。
あの棚に、胡桃材の靴べらが並ぶ朝は、まだ少し先だ。




