第24話 エッタ
名前には、重さがある。
五年間、局長に奪われた名前を取り戻すのに、公聴会が二回必要だった。だから──誰かに新しい呼び名をもらうことが、こんなに胸に来るとは思わなかった。
でも、それは夕方の話。朝はまだ、紅茶の濃さの話をしている。
◇
台所。テーブルにカップが二つ。ヴェインの番。
一口飲んだ。
「……まだ少し、薄い」
「調整する」
短い返事。メモを取るような顔で、自分のカップを見つめている。紅茶の淹れ方を、帳簿の誤差を追い詰めるときと同じ目で分析しないでほしい。
(……でも、毎朝少しずつ濃くなってるのは確かだ)
初めて淹れてくれた朝は、色がついた白湯みたいだった。昨日はほんの少しだけ茶色が濃くなった。今日はさらに半段階。このペースでいくと──あと五日くらいで「ちょうどいい」に届くかもしれない。
パンを齧って、チーズを一切れ。監査官服の上着が椅子の背にかかっている。濃紺の布地が朝の光を吸って、いつもより暗く見える。冬の光は弱い。
「行ってきます」
「ああ。定時に」
「もちろん」
玄関で靴を履いた。胡桃材の靴べらが、二つ並んでいる。丸い葉の焼印。──あの紋様が何なのか、まだ聞いていない。聞こうと思って、毎朝忘れる。
今日こそ、聞こう。
◇
書記局の執務机に、封書が載っていた。
朝一番の局間便。差出人は議会事務局。宛先は書記局長フリッツ・レーマン、回付先に書記官長補佐マリエッタ・ホルン。
封を切った。
『二重記帳制度に関する反対意見書。提出者:議員ベルント・グレーフェ。──「監査権限の拡大は宮廷の自治権を侵害するものであり、先例に照らし否決すべきである」』
ベルント・グレーフェ。
差押え書類で見た名前。ヴァイスから年八金貨──三年で二十四金貨を受け取っていた人物。議員名簿で確認した近衛第二中隊出身の末席議員。
(……来た)
予感はあった。制度案が議会に乗れば、横領に加担していた側の人間が黙っているはずがない。帳簿が嘘をつけなくなる仕組みは、帳簿で嘘をついてきた側にとって最も困る制度だ。
反対意見書の文面を読んだ。論旨は明快だった。「監査権限の拡大は宮廷各部署の自治権を侵害する。過去の判例に照らしても、監査は王の特権として制限的に運用されるべきであり、制度化は特権の放棄に等しい」。
根拠として引用された判例。判例番号三十七─甲。
帳面を置いて、棚に向かった。判例集は書記局の基本資料だ。五年間で何十回引いたかわからない。判例番号三十七─甲の頁を開いた。
読んだ。
二回読んだ。
それから、ベルントの反対意見書をもう一度読んだ。
(……これは)
判例三十七─甲。本文の結論部。
『王国の安定に資するため、監査権限の範囲は時勢に応じて見直されるべきであり、制度的な整備を通じて監査の公正性を担保することが望ましい。──裁定官ヴィルヘルム・ノイマン』
──制度的な整備を通じて監査の公正性を担保することが望ましい。
ベルントが引用した判例は、「監査は制限的に運用すべき」ではなく、「制度的な整備が望ましい」と結論している。
意見書で引用されていたのは、判例の前半部──「監査は本来、王の特権に属するものであり」という前提部分だけだった。結論部は切り取られている。前提だけを抜き出して、結論を無視している。
恣意的な切り取り。
あるいは──読み違い。弁の立つ政治家が、判例の結論を読み飛ばすとは考えにくいが、急いで反対意見書を仕上げた結果、前提部分だけを拾ったのかもしれない。どちらにしても、反論は同じだ。
判例集を開いたまま、反論書面の起案を始めた。
『反対意見書に引用された判例番号三十七─甲について。本判例の結論部は「制度的な整備を通じて監査の公正性を担保することが望ましい」と明記しており、引用された前提部分のみをもって「制度化は特権の放棄に等しい」と結論づけることは、判例の趣旨と矛盾する。判例全文を添付の上、正確な参照を求める。──書記官長補佐マリエッタ・ホルン』
判例全文の写しを添えた。条文の引用、判例の正確な参照、反対意見書の該当箇所との対照。感情は一文字も載せない。
(……口の達者な人は、紙が苦手だ。前の世界でも、そうだった)
弁が立つと評判の議員が、判例の読み方を間違えている。弁舌は記録に残らないが、反対意見書は紙に残る。紙に残った言葉は、紙で反論できる。
書き終えて、署名した。フリッツ局長に提出して承認印をもらう。
局長は反論書面と判例全文を読み比べて、眉を上げた。三ミリではない。五ミリくらい。
「……よく見つけたな」
「判例集は五年間で暗記しましたから」
「暗記した人間を書記官長補佐に置いたのは、正解だったようだ」
局長印。日付。議会事務局宛の回付。午後便で提出。
◇
昼。中庭の井戸に水を汲みに出た。
冬の中庭は霜が降りていて、石畳が白い。井戸の縁に手をかけたとき、聞き覚えのある声がした。
「ホルン書記官長補佐」
エリーゼ・フォン・クライスト嬢。冬の外套を纏い、手には薄い書類鞄。秋の雨の日にも中庭で会った。この人は、中庭で会うことが多い。
「エリーゼ嬢」
「お耳に入れておきたいことがございます」
声を落とした。井戸の水音が二人の会話を覆い隠してくれる。
「ベルント・グレーフェ議員が、オスカー殿下の書簡を持っているという噂がございます」
「……書簡」
「はい。父が議場の周辺で耳にしたと。確たる証拠はまだありませんが──政務参画を禁じられた殿下が、議員に書簡で指示を出していらっしゃるとすれば」
「裁定の違反ですね」
三年間の政務参画禁止。公聴会の裁定で、国王陛下が直接言い渡した処分。その処分中に議員に書簡を送って議会工作をしていたなら──裁定違反。
「まだ噂の段階です。でも、お気をつけて」
「ありがとうございます、エリーゼ嬢」
「お互い様です」
エリーゼが一歩踏み出しかけて、振り返った。
「……一つだけ。父は筆頭貴族枠で議席を持っています。使ったことは、ほとんどないのだけれど」
それだけ言って、また微笑んだ。
彼女は中庭を去っていった。秋の雨の日と同じ台詞。同じ微笑み。でも──情報の重さは、秋より増している。
帳面に記録した。「エリーゼ嬢より情報。ベルント議員がオスカー殿下の書簡を所持している噂。クライスト公爵閣下が議場周辺で聴取。未確認」。
◇
退勤後。官舎の書斎。
反論書面の控えを整理していると、ヴェインが書斎に入ってきた。監査官服を脱いで白いシャツ。袖をまくった腕。灰色の瞳が、机の上の書面に向いた。
「反論書面か」
「はい。ベルント・グレーフェの反対意見書に対する反論です。判例の誤引用を指摘しました」
「見せてくれ」
書面を渡した。ヴェインが読む。長い指が紙の端を押さえている。一枚目を読み終えて、添付の判例全文に目を移す。結論部に差しかかったところで──口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのかもしれない。この人の笑いは、いつも口元だけで起きる。
「判例が味方だったわけか」
「敵が味方の武器を間違えて持ってきただけです」
「……面白い言い方をする」
面白い、と言われて少し照れくさい。でも事実だ。ベルントは自分の主張を補強するつもりで判例を引いたのに、その判例が制度改革を支持していた。自分で自分の足元を掘ったようなものだ。
ヴェインが書面を机に戻した。灰色の瞳が、机の隅に置いてある胡桃材のペン立てに移った。
「……一つ、話しておきたいことがある」
声のトーンが変わった。半音低くなるのとは違う。低さは同じで、速度が落ちた。言葉を選んでいる声。
「アーレンス家のことだ」
「アーレンス家」
「没落した騎士爵だ。父の代で借金がかさんで、領地も邸も手放した。兄が家督を継いだが、家紋だけが残った」
ヴェインがポケットから何かを取り出した。小さな──金属片。銅色の、円形の紋章。表面に、丸い葉が一枚。
胡桃の葉。
靴べらの焼印と、同じだ。ペン立ての焼印と、同じだ。
「……これが、アーレンス家の家紋」
「ああ。胡桃の葉。昔、実家の近くに胡桃の木が並んでいた。家が潰れた後も、木だけは残っている」
紋章を受け取った。手のひらに乗る大きさ。銅の表面に緑青がわずかに浮いている。古い品だ。
(あの焼印は──家紋だったんだ)
同居の初日から玄関に並んでいた靴べら。書斎の机に置いてあったペン立て。どちらにも同じ丸い葉の焼印があった。あの紋様の正体が、今──掌の上にある。
「靴べらとペン立て、いつから準備していたんですか」
聞いた。聞かずにいられなかった。
ヴェインの灰色の瞳が、一瞬だけ揺れた。
「官舎が決まったとき」
一拍。
「いや──その前から」
その前から。
白い結婚の婚姻令が届く前から。官舎に二人で住むと決まる前から。この人は──胡桃の葉の焼印が入った靴べらとペン立てを、用意していた。
秋の夜、書斎で「望んでいた」と言った声を思い出す。渡り廊下で三年半、退勤の挨拶だけを交わしていた時間を思い出す。
あの三年半の間に、この人は実家の職人に頼んで、家紋入りの靴べらを作らせていたのだ。隣に並べる相手もいないのに。並べる場所もないのに。
(……この人は、待っていたんだ。ずっと)
喉の奥がきゅっと締まった。泣きそうなのとは違う。もっと手前の、名前をつけられない感覚。前の世界にも今の世界にも、この感覚に当てはまる単語がない。
「……ありがとう」
声が少しかすれた。紋章をヴェインに返した。指先が触れた。冷たい指。いつも冷たい。でも──秋の雨の日に握った指が温まっていったことを、手が覚えている。
ヴェインが紋章をポケットに戻した。何も言わなかった。この人は、大事なことを言った後、必ず黙る。言葉の余韻を、沈黙で守るように。
◇
反論書面の清書をしていた。夕暮れが窓の外で冬の色に沈んでいく。ペンの音だけが書斎に響いている。
台所の方から、かすかに湯を沸かす音。ヴェイン。また紅茶を淹れている。
足音が廊下を来て、書斎の扉の前で止まった。
「エッタ、紅茶」
──止まった。
足音ではなく、声が。ヴェインの声が、自分の発した音に追いついて、止まった。
扉の向こうで、沈黙。
「……すまない、つい」
低い声。いつもより、もう半音低い。
エッタ。
マリエッタの、後ろ三文字。誰にもそう呼ばれたことはない。前の世界でも、今の世界でも。この人が今、無意識に──口から出した、新しい名前。
ペンを置いた。
立ち上がって、扉を開けた。
ヴェインが片手にカップを持って、廊下に立っていた。灰色の瞳がわずかに泳いでいる。耳が──赤い。監査官服の襟がないから、白いシャツの上に耳の赤みがはっきり見えた。
(……この人、無表情のくせに耳だけは正直だな)
「いいです、それで」
声は、自分でも驚くくらい穏やかに出た。
ヴェインの瞳が止まった。泳ぐのをやめて、私を見た。
「……いいのか」
「エッタ。三文字。──悪くないです」
カップを受け取った。紅茶。一口飲んだ。昨日より少し濃い。まだ「ちょうどいい」ではないけれど、近づいている。
ヴェインの耳の赤みは、三十秒くらい消えなかった。白いシャツの襟元から、首筋の方まで広がっているのが見えた。
(……首まで赤くなるのは初めて見た。耳だけじゃなかったんだ)
書斎に戻った。扉は──少しだけ開けたままにした。
帳面を開いた。今日の記録。ベルントの反対意見書。判例の誤引用。反論書面の提出。エリーゼからの情報。アーレンス家の家紋。靴べらの準備時期。
最後に、一行。
「エッタ。三文字。ヴェインの声で聞くと、不思議と、自分の名前より近い気がする」
帳面を閉じた。
廊下の向こうから、かすかにカップを洗う音が聞こえる。扉の隙間から、台所の灯りが細く漏れている。
明日、反論書面が議会に届く。ベルントがどう出るか。オスカー殿下の書簡の噂が本当なら──制度案を潰すための手は、判例の誤引用だけでは終わらないだろう。
でも今夜は、もう少しだけ──三文字の名前の余韻の中にいたい。
紅茶は、明日にはもう少し濃くなっている。




