第20話 定時に帰る、二人で
六つ目の鐘が鳴るまでに、終わらせる。
公聴会の朝は、晴れていた。
秋の終わり。空は高くて薄い。窓から差し込む光が書棚を照らしている。帳面が一冊、開いたまま机に置いてあった。昨夜の染みがページの端に残っている。
帳面を閉じた。今日は持っていかない。
鞄を開けた。いつもより大きな鞄。証拠を一通ずつ入れた。帳簿照合報告書。横領金額確定書。魔力痕跡鑑定書──告発書の分も含めて四通。神託認定手続き不備報告書。婚姻令国王承認欠落報告書。停職命令の匿名告発手続き不備記録。再審査要求の却下記録。
八通。日付順に揃えてある。
正装に着替えた。白い襟付きの上衣に、書記局の紋章が入った胸章。半年前の春の公聴会でも同じ正装を着た。あのときは五冊の控えを鞄に入れていた。今日は八通の証拠。
居間に出ると、ヴェインがいた。
濃紺の監査官服。五週間ぶりだった。停職中はずっと白いシャツ姿だったから、監査官服の彼を見るのは──官舎の居間で見るのは初めてだ。胸元に魔術監査局の徽章。背筋が真っ直ぐで、輪郭が鋭い。
(……ああ、この人はこういう顔をしていたんだ)
宮廷の廊下ですれ違っていた三年半の、あの濃紺の影。
「行きましょう」
「ああ」
二人で官舎を出た。
玄関の靴べらが二つ、朝の光の中で並んでいた。胡桃材の木目が、少しだけ赤みを帯びている。
◇
東棟の評議室は、石造りの広い部屋だった。春の公聴会と同じ配置──正面に裁定席、左右に証言台と傍聴席。
証言台の椅子に座った。鞄を足元に置いた。
向かいの被告席に、ヴァイス副次長がいた。温厚な外見。三十代半ばの、穏やかそうな顔。三年間にわたり百二十金貨を横領し、冤罪を仕掛け、閲覧を妨害し、再審査を要求してきた人物の顔は、驚くほど普通だった。
その隣にオスカー殿下。十九歳の第二王子。金髪。表情には不満と焦りが同居している。兄のアルベルト殿下が継承順位を止められた後、事実上の第一継承者になったはずの若い王子。
さらに一列後ろに、カタリナ・エルスト嬢。十七歳。小柄で、手元が落ち着かない。目が赤い。泣いていたのだろう。
鑑定人席に、ヴェイン。濃紺の監査官服。目が合った。一瞬だけ。灰色の瞳が、小さく頷いた。
傍聴席に、エリーゼ・フォン・クライスト嬢。その隣にルートヴィヒ・フォン・クライスト公爵閣下。春の公聴会と同じ席に、同じ姿勢で座っている。
裁定席の扉が開いた。
国王レオポルド・ガリスティア陛下が入廷した。
全員が立ち上がった。国王陛下が裁定席に着き、記録担当のハンナが開廷を宣言した。
◇
監査局長が事案の概要を述べた。宮廷財務局における会計不正、監査官に対する冤罪告発、婚姻令の手続き瑕疵、神託の認定不備。五週間分の全容が、淡々と読み上げられた。
次に、鑑定人としてヴェインが立った。
魔力痕跡鑑定の結果を順番に。帳簿改竄の痕跡。経費水増しの痕跡。告発書の魔力一致。声は低く、平坦で、正確だった。五週間前に停職を言い渡された人間の声とは思えないほど、揺れがなかった。
そして、証人として私が呼ばれた。
証言台の前に立った。
「宮廷書記局書記官マリエッタ・ホルン。証人として宣誓し、事実を述べます」
鞄から証拠を取り出した。八通。机の上に並べた。
「第一に、聖女候補カタリナ・エルスト嬢による神託について。認定書類を閲覧したところ、神殿長の署名が空欄、魔力炉照合が未実施であることを確認いたしました。認定要件三項目のうち二項目が未充足であり、当該神託は公的効力を有しません」
「第二に、宮廷省令第四十七号に基づく特別婚姻令について。国王承認欄が空欄であり、欄外の王族代理承認は、発令日に国王陛下が在宮であったことから、婚姻管理規則第三条但書に照らし無効です」
「第三に、監査官ヴェイン・アーレンスに対する収賄告発について。告発者欄が匿名であり、枢密院の承認記載もなく、服務規程第七十二条の受理要件を満たしていません。さらに、告発書の魔力痕跡鑑定により、告発書の作成者がヴァイス副次長本人であることが確認されました」
「第四に、宮廷財務局の会計帳簿について。過去三年分の予算配分額と支出額を全費目にわたり照合した結果、合計百二十金貨の差額を確認いたしました。差額部分の記帳者の魔力痕跡は、ヴァイス副次長の登録魔力と一致します」
声は震えなかった。
昨夜、書斎で泣いた。帳面に染みを残した。でも今日の声には、涙の痕は載せない。証言台に載せるのは事実と根拠だけだ。
「以上が、私の証言です」
席に戻った。
国王陛下が口を開いた。
「ヴァイス財務局副次長。反論はあるか」
ヴァイスが立った。温厚な顔に汗が浮いていた。
「陛下。会計帳簿の差額につきましては、経理処理の慣行上──」
「魔力痕跡鑑定の結果に対する反論を聞いている」
国王陛下の声は静かだった。ヴァイスの口が止まった。慣行の弁明は、魔力痕跡の「一致」には通用しない。
「……ございません」
ヴァイスが座った。
オスカー殿下が立った。
「父上。婚姻令の署名は、監査局の人事を安定させるための善意の助言にすぎません」
「善意の助言に、王族代理承認の私印を押すのか」
国王陛下の声が低くなった。
「国王在宮中に代理承認を行う権限は、お前にはない。それは法の定めだ」
オスカー殿下の顔から血の気が引いた。
カタリナ・エルスト嬢に質疑が向けられたとき、彼女は泣いていた。
「……王子様に頼まれただけです。神託を奏上すれば、聖女候補としての地位が固まると──」
声が途切れた。十七歳の少女が、法廷で泣いていた。
同情はしない。でも──神殿長の署名を取らなかったのは、この子の判断ではなくオスカー殿下の指示だっただろう。手続きを知らないまま利用された十七歳を、書記官の目で見ると、怒りの矛先は彼女には向かなかった。
国王陛下が書類に目を通した。数分間の沈黙。
やがて、顔を上げた。
「裁定を申し渡す」
全員が姿勢を正した。
「宮廷財務局副次長ディートリヒ・ヴァイス。会計不正、文書偽造、冤罪告発の事実を認定する。懲戒免職とし、百二十金貨の弁済を命じる。子爵家当主としての宮廷出入りを禁ずる」
ヴァイスの肩が、落ちた。
「第二王子オスカー・ガリスティア。婚姻令への越権署名、神託の不正利用、公聴会阻止の企図を認定する。継承順位を更に降格し、宮廷政務への参画を三年間禁ずる」
オスカー殿下が唇を噛んだ。
「聖女候補カタリナ・エルスト。聖女候補資格を永久に剥奪する。ただし、本人の善意を考慮し、神殿への通常参拝は許可する」
カタリナが小さく頭を下げた。
「魔術監査局監査官ヴェイン・アーレンス。停職処分を取り消し、監査官に復職させる。名誉を回復する」
ヴェインの表情は変わらなかった。無表情のまま。でも、鑑定人席の彼の手が──膝の上で、わずかに握られていた。
「宮廷書記局書記官マリエッタ・ホルン。冤罪解明における顕著な貢献、および帳簿照合による会計不正の特定を評価し、書記官長補佐に昇進させる」
書記官長補佐。
聞こえていた。聞こえていたのに、春の公聴会のときと同じで、意味がすぐに頭に入ってこなかった。
「最後に。宮廷省令第四十七号に基づく特別婚姻令は、国王承認を欠いており無効であることを確認する」
無効。公式に。
「本裁定に対する異議申し立ては七日以内に書面にて行うこと。以上をもって閉廷とする」
ハンナが閉廷を宣言した。声が裏返っていた。──春のときと同じだ。
◇
評議室を出た。東棟の廊下を歩いた。渡り廊下を抜けて、宮廷の正門に向かった。
三年半、毎日のようにすれ違ってきた渡り廊下。退勤の挨拶だけの場所。焼き栗を分かち合った場所。「読みましたか」と言われた場所。
正門をくぐった。
午後の光が眩しかった。秋の終わりの、白くて高い空。
退勤の鐘が、六つ鳴った。
隣に、足音。
ヴェインが正門をくぐって歩いてきた。濃紺の監査官服。五週間ぶりの、宮廷を正門から出る姿。
彼の右手に、紙包みがあった。
見覚えのある包み方。あの屋台の。あの焼き栗の。春の公聴会の日に分かち合った、あの味の。
「公聴会の前に買いました」
この人が焼き栗を差し出す理由を口にしたのは、春にも一度あった。今日で二度目。
「終わった後に渡そうと思って」
受け取った。紙包みは温かかった。
「ありがとうございます」
「お疲れさまでした、ホルン書記──」
言いかけて、止まった。灰色の瞳が揺れた。
「……マリエッタ」
名前。昨夜に続いて、二度目。
「お疲れさまでした、ヴェイン」
いつもの言葉。千日以上繰り返した言葉。でも今日は正門の外の日差しの中で、名前で。
焼き栗の皮を剥いた。一つ口に入れた。甘い。ほくほくして、皮の苦みが少しだけ残る。春の日の味と、秋の朝の味と、同じ店の同じ味。
「明日も定時に帰ります」
声に出した。
ヴェインが私を見た。
一拍。
「一緒に」
昨夜、書斎で泣きながら見つけた答え。帳面には書けなかった。涙で滲んだ。でも今日は──声で、渡せた。
ヴェインの灰色の瞳が、わずかにゆるんだ。笑ったのだと思う。この人が笑った顔を見たのは、五週間で初めてだった。口元がほんの少しだけ上がって、目尻から力が抜けて、硬い輪郭がやわらかくなった。
「ああ。一緒に」
歩き出した。同じ方向に。肩が並ぶ距離で。
◇
宮廷省の窓口は、正門から百歩ほどの場所にある。
ヴェインが鞄から封書を取り出した。いつ用意していたのかは聞かなかった。聞かなくてもわかった。この人は、靴べらもペン立ても焼き栗も、全部事前に用意する人だ。
封を開けた。婚姻届。
対象者欄に、二人の名前が書いてある。ヴェインの筆跡。署名欄は二つとも空白。
(……今度は、自分で書く)
窓口の書記官補にインク壺を借りた。署名欄に名前を書いた。マリエッタ・ホルン。ヴェインも隣で署名した。ヴェイン・アーレンス。
宮廷省の認可印を押してもらった。
そして──国王承認欄。
空欄のはずだった。
署名が、入っていた。
レオポルド・ガリスティア。国王陛下の署名。日付は──今日。公聴会の裁定の直後。
「……もう入ってる」
窓口の書記官補が微笑んだ。
「陛下から、公聴会後にお届けするようにとのご指示がございました」
あの公聴会の場で、国王陛下が私を見て小さく頷いた瞬間を思い出した。あれは裁定の予告ではなく──婚姻届の予告だった。
「手続きは完璧です」
口をついて出た言葉に、ヴェインが隣で息を漏らした。笑ったのだ。今日二回目。
(……笑った。この人、笑うとこういう顔をするんだ)
婚姻届の控えを受け取って、窓口を離れた。
宮廷省の建物を出ると、秋の夕暮れが石畳を橙色に染めていた。焼き栗の紙包みがまだ手の中にある。
隣に、ヴェインがいる。
濃紺の監査官服。飾り気のない黒髪。灰色の瞳。笑うと少しだけ目尻が下がる顔。靴べらを揃える手。ペン立てを選ぶ手。焼き栗を差し出す手。傘を傾ける手。上着をかける手。帳簿に丸を書き込む手。雨の中で私の指を握った手。
全部、同じ人の手だ。
並んで歩いた。焼き栗を分けながら。大きい方は、またこちらに回ってきた。
「大きい方を取るんですね、私が」
「計量したわけではない」
「してないのに毎回大きい方をこっちに渡す人を、何と呼ぶか知ってますか」
「……何と呼ぶ」
「夫」
ヴェインの耳が、かすかに赤くなった。監査官服の襟で隠れかけていたけれど、夕暮れの光の角度で見えた。
(……あ。この人、耳から赤くなるんだ)
知らなかった。五週間一緒にいて、知らないことがまだある。知らないことを、これからゆっくり知っていくのだろう。退勤の鐘のあとの時間を使って。自分の時間として。二人の時間として。
石畳の大通りを歩いた。秋の終わりの風が頬を撫でた。冷たくて、乾いていて、焼き栗の匂いが混じっている。
鐘は六つ鳴り終わった。明日もまた鳴る。
明日も私は帰る。定時に。隣に、もう一人分の足音を連れて。
鞄の中で、婚姻届の控えが、静かに温もりを帯びていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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