第2話 247件の控え
異動内示は、翌朝の一番に届いた。
出勤して鞄を置き、昨日の続きの決裁書類に手を伸ばそうとしたところで、ハンナが封書を持ってきた。宮廷書記局の正式な内部封筒。封蝋はブルーメ局長の印。
「今朝、局長室の机の上に置いてあったそうです。宛名がホルン書記官だったので」
開封した。
一枚の辞令書。宮廷書記局本局から、北部辺境レーゲン出張所への転属命令。発令日は来月一日。理由欄には「人員配置の最適化のため」とだけ書かれていた。
レーゲン出張所。王都から馬車で八日。職員は二名。業務は地方税の記録写しの保管。つまり、書庫番だ。
私は辞令書を裏返した。決裁欄を確認する。局長印がある。日付は——昨日。昨日の日付で、局長の決裁印が押されている。
昨日。
昨日の午後、ブルーメ局長は王子側の関係者と面会していたとハンナが言っていた。面会の終了時刻は、退勤の鐘の直前。つまり、大広間の予約台帳に何も書かれていないことを私が確認したのと、ほぼ同じ時刻だ。
偶然かもしれない。偶然でないかもしれない。どちらにせよ、今の私にはこの辞令書の方が切実な問題だった。
北部辺境に飛ばされれば、大広間の予約台帳の管理権限は失われる。書記局本局の業務にも関われない。五年間の仕事が、来月には全部なくなる。
深呼吸をした。怒りが胸の底に沈んでいくのを感じた。前の人生なら、ここで黙って従っていただろう。上司の決定には逆らえない。組織とはそういうものだ。人事には勝てない。——かつての私はそう思っていた。
けれど、私はもう一度死んでいる。
怒りで残業する気はない。しかし、不当な辞令に黙って従う気もない。
幸い、こちらの世界には、前の世界よりもずっと明確な手続き規定がある。
私は辞令書を机の上に平らに置き、形式要件を一つずつ確認した。
転属命令書の要件。ガレスティア王国行政手続規則に基づく必要記載事項は四つ。第一に、転属理由の具体的記載。第二に、現職務の引継ぎ計画書の添付。第三に、対象者の直属上席者——つまり次席書記官——の事前承認印。第四に、対象者本人への口頭での事前通知記録。
辞令書を見た。理由欄は「人員配置の最適化のため」。具体的記載とは言い難い。引継ぎ計画書は添付されていない。次席書記官の承認印はない。口頭通知の記録も存在しない。
四項目のうち、四項目が不備だった。
完璧な不備だ、と思った。ある意味、感心する。
私は引き出しから一冊の帳面を取り出した。業務記録の控え。ここに持ってきているのは直近一年分で、残りは自宅にある。けれど一年分で十分だった。
帳面を開き、昨年度の業務改善実績の一覧表を引き抜いた。これは毎年度末に自分用に作成している総括表で、本来は誰にも見せるつもりのないものだ。
けれど、今日は見せる。
次席書記官のフリッツ・レーマンは、勤続十二年の実直な男だった。局長ほどの政治力はないが、書類の不備には厳しい。ブルーメ局長が不在のあいだ、局長代理の決裁権限を持つ。
「レーマン次席。お時間をいただけますか」
フリッツは分厚い帳簿から顔を上げた。
「ホルン書記官。どうしました」
「本日付で転属の内示を受けました。つきましては、形式要件の確認をお願いしたく」
フリッツの眉がわずかに動いた。転属の話は聞いていない、という顔だった。当然だ。次席承認印のない辞令書を、次席が把握しているはずがない。
私は辞令書と、行政手続規則の該当条文の写しを並べて提示した。四つの不備を、一つずつ指で示した。フリッツの表情が次第に硬くなっていった。
「……局長の決裁印はあるが、私の承認印がない。これは——」
「はい。手続き上、この辞令書は現時点では有効に成立していません」
フリッツは辞令書をしばらく見つめ、それから私の顔を見た。
「ホルン書記官。率直に聞くが、あなたの現在の担当業務を引き継げる人員は、局内にいるか」
ここだ、と思った。
私は帳面から業務改善実績の総括表を出した。
「直近五年間の業務改善提案の総括です。件数は二百四十七件。削減された年間総業務時間は千二百時間。これに伴う経費削減は公用紙換算で三百八十枚分です」
フリッツの手が止まった。
「に、二百四十七件?」
「はい。各件の起案日、内容、効果測定の結果をすべて記録しています。必要であれば五年分の控えを自宅から持参できます」
「……これは、あなた一人で?」
「提案から実行、効果報告まで、すべて私が担当しました」
嘘ではない。一片の誇張もない。ただの事実だ。
フリッツは総括表のページを一枚ずつめくった。最初の年の三十二件から始まり、二年目は四十八件、三年目は五十六件、四年目は五十七件、今年度はここまでで五十四件。数字は裏切らない。
「これが全部、局長の名前で上に報告されているのか」
私は答えなかった。答える必要はなかった。フリッツは十二年この局にいる。局長が毎年提出する業務報告書に、非正規書記官の名前が一度も載っていないことくらい、調べればすぐにわかる。
沈黙が数秒続いた。フリッツが総括表を閉じた。
「この異動は保留とする。局長の帰局を待って、改めて正式な手続きを確認する。——ホルン書記官、この総括表の写しを一部、預からせてもらえるか」
「もちろんです」
席に戻り、私は退勤までの残り時間で通常業務を片付けた。怒りはもう静かに沈んでいた。代わりに、小さな確信が胸の中にあった。
数字は、嘘をつかない。
この世界でも、前の世界でも。
退勤の鐘が六つ、鳴った。
羽根ペンを置く。インク壺に蓋。書類を揃える。鞄に本日分の控えを入れる。昨日と同じ動作を、同じ順番で。
渡り廊下に出た。夕暮れの光が昨日より少しだけ赤い。春が深まっている。
向こうから、濃紺の監査官服が歩いてくる。
「お疲れさまです、アーレンス監査官」
いつもの言葉を口にした。いつもなら、彼も同じ言葉を返して、それで終わる。
けれど今日、彼は足を止めた。
私も、つられて止まった。三年間で初めてのことだった。
アーレンス監査官の顔には、相変わらず表情がない。けれど、ほんのわずかに——本当にわずかに——眉のあたりに迷いのようなものが見えた。気のせいかもしれない。
「ホルン書記官」
「はい」
「少し、よろしいですか」
声は低く、平坦で、それでも丁寧だった。退勤の挨拶以外の言葉を、この人の口から聞いたのは初めてだった。
「来月の十五日に、大広間で行事が予定されているという話を耳にしました」
心臓が一拍だけ速く打った。監査局にも届いているのか。
「監査局として、書記局に照会を出したいのですが、窓口はどなたになりますか」
正式な照会。監査局から書記局への、制度に基づいた問い合わせ。それは口頭の噂とは全く別の重みを持つ。
そして彼は、窓口を聞いている。直接局長に行くのではなく、正しい手続きの入口を確認しようとしている。
この人は手続きを守る人だ。
三年間、退勤の鐘を守り続けていたこの人は、やはり手続きを守る人だった。
「窓口は、大広間の使用管理を担当している書記官になります」
「それは」
「私です」
アーレンス監査官の目がわずかに見開かれた。ほんの一瞬のことで、すぐにいつもの無表情に戻った。
「明日の業務時間内に、正式な書面でお持ちします」
「承知しました。お待ちしています」
彼は一度だけ頷き、歩き出した。私も歩き出した。反対方向に。いつも通りに。
ただ、今日は渡り廊下を抜けるまで、少しだけ歩幅が広かった気がする。
正門をくぐって、夕風に当たった。
手続きを守る人間が、もう一人いる。
それは——思ったよりも、心強いことだった。




